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2005年06月08日

花のなまえ

 相も変わらず、園芸に勤しむ男あり。
 本来、自称藝術家の証である筈の作務衣姿なのに、園芸家の姿としてご近所にすっかり定着して、近頃じゃ、通り過ぎる小学生に、あ、園芸のおじちゃんだ、わーい、わーい、と指される始末……って、まあ、そんなことはないのだけれど、ちょっとこの本を読んでみなさい、と『園芸家12カ月』を貸されてしまったりするほどではある。チャペックは好きだし、この本だって随所に面白みが溢れている素晴らしい本である。なのであるけれど、再々申すように、私は行き掛かり上、園芸に励む形になっているだけの者であり、花の名まえなんざ殆ど何も判らない。しかも、外国の花ときた日にゃまるで珍紛漢紛。花の名まえてえものはカタカナで書かれている故に、音としてイメージすることはできる。声を大にして読み上げることもできる。けれども、そうしたところで、形骸化した空気の振動が口の辺りに漠然と拡がるばかりで、如何なる意味も私には到達しない。いやいや、意味不明という意味が到達するのである、と、まあ、小理屈は兎も角も、判らないものは判らない。ああ、判らない。判らない。

 嘗て、和英辞典不要論者と小論争になったことがある。先方は、大変博学で高齢の弁護士様。あれこれの語学にも堪能であり、御齢七十を超えても猶精進怠りなき方。だらだらずるずると直観頼みで学問と接することの多い私としては、大きに見習いたいような人物である。けれども、彼の和英辞典不要論は些か強引に過ぎ、初心者を脱したら金輪際和英辞典に触れること罷りならん、という勢い。勿論、酒の上でのことなので、矢鱈に弾みがついていたということもある。私たちの、立派なような馬鹿馬鹿しいような、それでいて、妙に熱心な議論に、傍に居合わせた英国紳士は目を白黒させていた。その際に、私が和英辞典を擁護するために持ち出したのが、花の名まえであった。上級者と雖も、例えば、和英辞典無かりせば、如何にして、花の名まえを英語で伝えることができようか、と。うーん、と言ったきり、数分間黙り込んだ御大は、和英辞典の使用を部分的には認めよう、という気になったようであった。

 ソテツを和英辞典で引いてみて、なるほど、cycadですか。ふむふむ。cycadねえ。今まで見たことねえなあ、って。あるいは、その逆。peony、peony、ええとpeonyと、ほほう、シャクヤクね。ああ、シャクヤクですか。立てばシャクヤク座ればボタンって、あれだね……って、これで何か解決しただろうか。何も解決していないのである。判らないローマ字が判らないカタカナに形を変えただけ。脳裡には如何なる映像も浮かんでこない。虚しいのう。

投稿者 zenta : 2005年06月08日 14:01

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