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2008年04月30日

駄目な私という快楽

 何か事件でもあったんですか、という問い合わせをいくつか頂戴した。からすのブログ、全然書いてないじゃないですか、なんてね。教え子からもそんな感じのメールをもらったりして、いやはや、何なんだ、おれって。教え子に心配されてやんの。
 事件などない。からす新聞社の編集部兼印刷所の引っ越し先が未確定のままであるがゆえ、紙からすの行く末が案じられておるということはあるにせよ、「からすの今」を書かない理由など全くない。たんに弛んでいただけ。ちょっとさぼっていたら、その深みにどっぷり嵌まってしまった、と。

 何と説明すれば宜しかろうか。
 ああ、また、からすのブログをさぼっちまった、いかん、いかん、などと思う快楽。そういうのわかりますか。わかりませんか。ああ、おれって駄目なやつだなあ、と溜め息をつく、そういう快楽。

 夏休みの前に、生徒たちが一夏の勉強予定表のようなものを作らされている姿を見て、わはは、結構、結構、若人はそれでよろしい。しかも、君らの多くが、実現できずに二学期を迎えるのであろうなあ、わはは、なお結構。そんな失礼な発言をぶりぶりと吐き散らかしていたことを思い出す。いや、本当にそれで良いのですよ。予定表を立て、その通りに全て実行できたら、そりゃ、それは文句なしに立派なことだ。素晴らしい。すごいよ、君は。
 けれども、一所懸命立てた計画があちらこちらで綻び、頓挫し、てんで実現できずに、落ち込んだりするようなことも、それはそれで素晴らしい体験なのだ。そして、その中に失敗する快感というものを感じられたら、ご機嫌だよね。
 そんな話をした場合、失敗したら喜べませんよ、ばかみたい、などという反論を受けるのが常であった。ま、そりゃ人それぞれだし、しょうがないんだけれど、でも、ねえ。

 人生の全てに成功できたら、それは結構なことだ。しかしながら、人というものは、時には……あるいは、頻々と……失敗するものではないか。場合によっては、成功など滅多に訪れず、失敗の往復びんたの百連発なんてことだってあるやもしれぬ。君たちはその時にただがっかりし、ただ落ち込み、ただ嘆き悲しむのか。そりゃご苦労なことだね。
 失敗の中にだって独特の快楽が潜んでいるんだけどなあ。成功の快楽、失敗の中にもまた快楽。どっちに転んでも快楽、快楽。うはうはだ。
 この感覚、わかりませんか。ま、いいんだけど。

 それにしても、さぼりまくっていただけのことはある。今日の文章は無駄に長い上に内容も酷いねえ。やっぱり、おれって駄目だなあ……って、これもまた快楽。

投稿者 zenta : 02:33 | コメント (0) | トラックバック

2008年04月27日

合掌して通過駅を出発

 きょう、画家・難波田史男、存命なら67歳の誕生日。その遺稿集『終着駅は宇宙ステーション』、刊行されました、ついに。大きい書店の美術書コーナーに行かないと置いてないかもしれないけど、街に出た折は、ぜひ探して手にとってみて下さい。すばらしい本です。カラーの口絵も8ページあるし。てゆうか、たったの4,200円+税です、買ってください。

投稿者 shachi : 00:17 | コメント (10) | トラックバック

 amazonで注文しましたよん。その時点で、在庫二点。

投稿者 zenta : 2008年04月28日 22:07

 ありがとうございやすっ。amazonの在庫、きょうの昼間は5冊だったのが、おおっ、1冊になってる。
 でもamazonはカバー画像のってないんすよね。紀伊国屋のウェブだと大きな絵が見られます。スキャンがきれいじゃないけど。

 ちなみに、帯を書いているのは作家の川上未映子さん。けっこう前に自分のブログに好意的なコメントを書いていたんだけれど、でっかい賞とっちゃいましたね。

投稿者 shachi : 2008年04月28日 23:35

私もamazonで注文しました。
在庫1点だったぜ。

投稿者 RINGO : 2008年04月30日 01:40

 たいへんうれしいです。

 現物は、今年の暮れになっちゃいますけど、展覧会が予定されてます、東京オペラシティアートギャラリーと世田谷美術館で、ほぼ同時期に見られます。

投稿者 shachi : 2008年04月30日 03:10

「たったの」とはいっても我が家にとっては暫定税率並みに重い負担なので、せめて手に取ってみようってんで自転車を飛ばしてみたが、さすがは文化果つる地方自治体、大きいとこから四軒回って一冊もなし。
ここはいずれなんとかするとして、取り敢えず「おめでとう」だけ受け取っとくれ。


投稿者 guffaw : 2008年05月01日 03:07

ありがとうございやす。まったくもう、一般財源化される道路特定財源の一部を図書特定財源として地方に振り分けてもらいたいもんです。

投稿者 shachi : 2008年05月01日 13:26

 amazon、あっと言う間に届きましたよ。の割には、まだぱらぱらと眺めただけなんだけどさ。
 背中の天辺のところ、盛大に糊が溢れ出ており、クワガタやタテハが群がっているクヌギの樹液を想起させる。これって、うちの一冊だけかな。

 川上未映子、新しいのはまだ読んでいないけれど、最初の二冊は読みました。面白いところもあるけれど、何だよ、これ、いやだなあ、というところもある。
 噂になり始めた当初、町蔵と比べられたりしていたけれど、彼女の世界は狭隘な私小説の枠組みを飛び越えられていないように思う。それに対して、町蔵先生は一回りも二回りもでかいよなあ。見上げたもんだよ、屋根屋の褌。最近、停滞気味な感はあるにせよ。

投稿者 zenta : 2008年05月04日 02:59

私のところに届いたものは、背中の下に糊が少々出ていますが、まあ気にならない程度。大作だなあ。
それよりも、謝辞になんでshachioくんの名前がないのだ!
と言っても、どういう係わり方をしたのかまったく分かっていないのだが。

全然話は変わりますが、みなさん、adobeのGoLiveっていう製品をご存知ですか?最近これの体験版で作業していて、わりと使いやすいので、4月30日に購入しようと思って、adobeサイト見たら、4月28日に販売停止になっていた。ひでえぜadobe。それはないぜ。
やっぱり、dreamweaverしかないのね。
すみません、酔って書いています。

投稿者 RINGO : 2008年05月04日 21:02

アマゾン今日の昼時点で「在庫無し」でした。
もしかして……べ、ウ゛ェ、べストセラー!?

投稿者 グゥ : 2008年05月05日 13:10

 あたしは黒衣のまた黒衣ですから、予定のベストセラーが、予定どおりになるのを見守るばかりでげす。
 いやしかし、読んでいただいた方からの感想は大変たいへん気になります。いずれ聞かしてくださいやし。

 

投稿者 shachi : 2008年05月05日 20:42

2008年04月26日

ひろっぱ

JR中央線で高円寺駅をでるとすぐに北側に建設現場が見える。杉並区が建設中の劇場の建築現場で、劇場の名を「座・高円寺」と言う。去年の公募でその名が決まったということだが、劇場案を選んだ建築のコンペのセンスとはちょいとかけ離れてるような気がしなくもない。そのあたりは演劇的なセンスということであろうか。
現場を見学させてもらった。工事は、地下3層のコンクリートの工事をやっと終えて、地上の鉄骨工事が進んでいる。狭い敷地に小劇場が3つと練習場、カフェやアーカイブが詰まっているので、地下は10m以上の深さになる。高円寺の雑多な都市空間に、垂直方向に地下空間に向かって、演劇人の夢がつまっている。それも演劇的な暗さや深さのようなイメージに繋がる。
当然、3つの劇場は重なるわけだが、現実の工事現場は、スケールのことなる沢山のものが重なりあい、実に密実で隙間がない。天井裏になる空間を、空調用のダクトが縦横無尽に走り、その間隙を縫って照明の配線やスプリンクラーなどの防災配管がなされ空間を埋め尽くしている。何もないボイドであるはずの劇場空間さえも、反転して空気が充密実に填されてるように思える。
ゆったりした気持ちのいい螺旋階段を上りきると地上の劇場にでる。地上の劇場は、街と連続した広場のような空間という考え方だったから、平土間の床が周囲の地面と同じ高さになる。大きな扉が開き、外部の空間と一体になるのである。
劇場の壁がそこそこできて囲われた感じがでてきた。ちょうどいい大きさの空間だ。舞台と観客の密な一体感が達成されるように思った。花曇りだったが、屋根がないおかげで、地上の劇場は明るく街の中にぽっかりできた空地のように感じられた。まるで原っぱや、神社の境内、西洋の広場のようである。いっそのこと、屋根をつくらないか、テントにして取り払うこともできるようにしてしまえば、実に開放的な空間になるだろうと思った。都会の真ん中にポンとできた空地で演者と見るものが場をつくる、最初に考えた演劇空間の原初のかたち、とはそのことだったのだ。
工事はこれからがクライマックスだ。あと二三ヶ月もすれば、波打つようなテントのかたちをした鉄板の屋根が、ひろっぱを覆うことになる。

投稿者 geta : 13:49 | コメント (0) | トラックバック

2008年04月19日

予想

このところMacさまと仲良くしてるのだ。もっとも他にすることもなく暇だからなのではある。それで毎週土曜の日課はというと、こうやってからすを書くことと、サッカーくじを買うことになった。最近は、なんでも机の上からできるので至便なことこの上ない。心を改め入会しようとした建築学会なるものの手続きもオンラインでできた。Up to dateなマシンを手元に置き、家に生息するねこにゃんをかわいがるのと同じように、Macさまをかわいがっていさえすれば、外に行く機会は相当に少なくてすむ。自称引きこもりという友人の気持ち&生活がよくわかる、気がする。その分、ねこにゃんと遊ぶ時間もふえるのだから素晴らしい。ねこにゃんは、私の行くところ行くところ着いてきて、足にまとわりつき、そのうちすぐそばでちょんと正座する。
サッカーくじには自分で試合の勝敗を予想するタイプのものと、コンピューターが勝手に予想してくれるのがある。自分の知能で当てるのが本来の姿だと言えなくもないが、面倒くさくもある。それに本当に夢みているのは、試合の結果を当てることではなく、大金を当てることなのだ。予想もつかない結果でなければ、高額配当などあり得ない。そんなりくつをこねて省力化の流れに乗るのだ。
しかししかし、そうは言っても小さいときから玉を蹴り、日本がワールドカップに行くことなんぞ、それこそ予想だにしなかった我が身としては、試合そのものの展開や結果を予想してもみたりしてみたくなるのだ。先週の教訓を胸に、鹿島とガンバは順当なら鹿島だろうけど、ガンバもここのところ適地でしぶといからなぁ、とか。浦和と大宮は、みんな浦和が勝つと思ってるだろうけど実は怪しいか、などなど、今日の午後からを楽しみにチェックボックスに印を入れていったのだ。イタリアのバールで本場のtotoに興じる輩のように...。
そんなこんなで、やっとすべての試合の予想を終えて、お、結構いけるんじゃない、と久々に悦に入り、ふとメニューバーに目をやると、ありゃ...が〜ん、12:53ではないか。締め切りは50分だったのだ...。と言う訳で、今日の午後は、また暇になったのだ。

投稿者 geta : 13:09 | コメント (0) | トラックバック

2008年04月12日

F1

またセナが星になってしまった季節が近づいてきた。イモラの大会は確かゴールデンウィークのころだったと記憶してる。毎年、新緑が美しくなるこの頃に、ヨーロッパの夏へ向かう喜びやひかり溢れる華やかさが、モナコのグランプリの映像を通して伝わってきた。
今年は、初台のオペラシティーギャラリーでF1展が催される。今日から一般公開された。会場には、カクテル光線に照らされて怪しくもきらきら光る、実物の車体が数多く展示されている。Renault R25, BAR Honda 006, McLaren Honda MP4/4, Lotus 77, Ferrari 2005, Williams FW14B, Brabham BT120, Cooper T51。
会場の最初の案内に、F1の各チームがそれぞれ独自の技術とデザインを追求してグランプリに挑むと書かれていた。実は、デザインという言葉に違和感を覚えた。F1は技術の追求であることは知っていたが、時速300キロを超えるスピードと耐久性のぎりぎりの勝負には、それに見合う合理的なかたちがあるだろうと。デザインという言葉に潜在するような、かたちにおける恣意性が入り込む余地はないのではないかと思っていた。ところがどうだろう、実物の車体は、どれも見事なまでに一台一台異なり、徹底的にデザインが追求されている。言葉にならないほどに美しい。技術と密接に関連してかたちが、そこにあらしめられている。恥ずかしながら、ずっとテレビでグランプリを見てきたのに、こんなことを知らなかった。
車体はアルミ板なのだろうか、10mmほどもない一枚の板が、丁寧に形つくられ、エンジンへの空気の取り入れ口となっている。サイドミラーは今にも折れそうなほど細い。
会場には、ひとつのレースが終わると、車体は粉々になってしまうほどの極限の戦いである、というポルシェの言葉が紹介されている。その気迫が、局限への挑戦の迫力が、車体から伝わってくる。
ふと近代の画家、菅井汲(すがいくみ)の硬質なタブローを思い出した。スピードの極限への憧れが、カドミウムレッドの風景を描いたのだ。その赤色は、フェラーリのように疾風するのだ。

展覧会は6月29日まで。http://www.operacity.jp/ag/ 

投稿者 geta : 13:45 | コメント (0) | トラックバック

2008年04月11日

久々の集合

例の如く蚕糸の森で散り際の花見をしてきました。高校を卒業してもう何年も経つけれど、未だにつるんでるのは高校のときの同級生です。6年位前、大学入ったくらいの時も同じ場所でよく飲んでたっけなぁ、なんて思いながら当時と同じメンバーで酒を飲みました。こうして揃って蚕糸の森で酒を飲むのも久々だななんて話しながら、ふと思いました。見た目はなんだかすっかり変わってしまったけど、なんだ、6年経ってもみんな中身変わって無いじゃん、と。今はハンバーガー屋の店長やってる奴がいたり、サラリーマンやってる奴がいたり、未だに学生な奴もいたり、6年間で進んでった方向は違うかもしれないけど、結局根っこは同じなんだ。しかし時間が経つのは早いもので、もう6年も経ってしまったのか。あの時は毎日飲んでたし楽しかったなぁなんて、思い出と酒に浸りながらその日はフラフラと家に帰りました。

投稿者 quwabara : 22:04 | コメント (0) | トラックバック

2008年04月05日

 ひかりのどけき春の日にわが家の庭にも花がひらひらと散りゆきて、少しゆったりした気持ちになるものです。小学校の卒業記念にもらった苗木のソメイヨシノが大きな樹になりました。そう言えば、去年の夏、毎日夕方になると近所の川沿いの公園へ散歩に出かけて行ったものです。地域の再発見なぞと言いながら、特に目的なくその日によって東へ西へ気の向くままに近所をぶらつくのですから、まあ怪しいと言えなくもありません。途中で出会うのは、ランニング姿のリタイアしたような高齢の方ばかりでしたから。
 川沿いの公園には「田んぼ球場」という名の簡単なフェンスで囲われた空き地があって、小学生の頃日曜日になると、クラス対抗の野球の試合をしました。走り回り少し離れた池でつりをしたり、中学生になってもサッカーをしたりランニングをしたりと公園にはお世話になりました。その頃の公園の印象は、なんとなく空虚で寒々としていて、なにか茫漠としたものに身体が晒されてるようでした。あまり居心地がよくなかったのです。
 年月を経て、久しぶりにゆっくり歩いてみると、公園の空間は豊かな生命感に満ち溢れているように感じました。木々が相当高く、幹も太くなって樹冠も大きく広がりました。当時はスカスカに感じられた頭の上の空間はずっと密度が濃くなって、人びとを包み込みます。低木もこんもりして、今ボールを探すとしたら随分と大変なことになるような。木々の枝がゆったりと風になびき、多くの虫や生き物が生息していることを直感的にも知ることができます。人びとも自然に集まる空間になっていました。当時整備されたばかりだった公園が、30年以上の年月を経て違う場所になりました。そんなことに気がついたものですから、それだけでとても豊かな気持ちになりました。そして同じ頃に整備された団地では、今年も花見ができましたね。

投稿者 geta : 13:29 | コメント (0) | トラックバック