2008年04月05日

のどかな春の日

ひかりのどけき春の日に、わが家の庭にも花がひらひらと散りゆき、少しゆったりした気持ちになるものです。小学校の卒業記念にもらった苗木のソメイヨシノが大きな樹になりました。
そう言えば去年の夏、夕方になると、近所の川に沿った一帯の公園へよく散歩に出かけて行ったものです。「地域の再発見」と言いつつ、特に目的なく近所をぶらつくわけで、その日によって東へ西へ気の向くままに歩くのですから、まあ怪しいと言えなくもありません。途中で出会うのは、ランニング姿のリタイアしたような高齢の方ばかりでしたから。
川沿いの公園には「田んぼ球場」という名の簡単なフェンスで囲われた空き地があって、小学生の頃は、日曜日になるとクラス対抗で野球の試合をよくしました。そうでなくとも走り回ったり、少し離れた池でつりをしたり、卒業してもサッカーをしたりランニングをしたりと、よく公園では遊んだものでした。
子供の頃の公園の印象は、なんとなく空虚で寒々としていて、極端に言えば、茫漠としたものに身体が晒されるような感覚がありました。それが、年月を経て夏の夕方にゆっくり歩いてみると、全く異なり、公園の空間は豊かな生命感に満ち溢れているように感じたのです。木々がずっと背丈をのばし、幹が太くなり樹冠も大きく広がりました。当時はスカスカに感じられた頭の上の空間は、人間の背も伸びたのにずっと密度が濃くなって、人びとを包み込み安心感を与えるようです。低木もこんもりして、今ボールを探すとしたら随分と大変なことになるでしょう。木々の枝はゆったりと風になびき、多くの虫や生き物がこの空間に生息するように、人びとが自然に集まってくる空間になっていました。当時整備されたばかりの公園が、30年以上の年月を経て場所の質を変えてきた、そんなことにはたと気がついたものですから、私はというと、それだけでとても豊かな気持ちになりました。
これまで自転車でスピードを出していたり、公園の遥か先に目的地があったりと、公園の風景などに気をとめることはなかったのですが、こうしてゆっくりと歩いてみると新たな発見があるものです。僕らが「田んぼ球場」やランニングコースの空間に育まれた、かどうかはわかりませんが、公園の多様な生命は、土壌をつくり長い歳月を経て豊かな空間をつくりあげたのですね。そして同じ頃に整備された団地では、今年も花見ができましたね。

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2006年08月12日

4年

このところ、右足の親指が痛かったりする。このあいだなんぞは、中指が断続的に数日間も痛んで、歩行にもたいそう支障をきたしたしだいである。
思えば、4年前のワールドカップのときにも、そのような話を聞いた覚えがあるような。4年経って、なにやら順番が巡ってきたのかしら。
果たして、この次のワールドカップには、また何事かがやってくるのやら。

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 まずは血液検査をおすすめします。

投稿者 zenta : 2006年08月14日 15:23

2006年08月05日

昼夜

近所の劇場の横で、屋台が日替わりのカレー弁当を売るようになった。キーマ、赤いの、タイ風、なぞなぞ。それなりにうまいので、このところ昼は専らこれを食しているのだ。夜は、コンビニのドライカレー。クーラーの効いた部屋から出ることもなく、寒さに血管が収縮するのを覚えながら、せめて汗でもかこうとがんばっているのだ。とは言うものの、やっぱり近所のカレーがおいしいよなあ。

投稿者 geta : 15:15 | コメント (1) | トラックバック

 先週は都合3種類のカレーを作りましたよ。
 いやあ、夏はカレーに限りますなあ……って、冬でも春でも、カレーはうまいんだけどさ。

投稿者 zenta : 2006年08月07日 10:33

2006年06月24日

サムネール

天秤にかけたい、のにかけられないのだ。今週もろくにどの試合もみてないぞん。おかげでうちのハードディスクは満杯になってしまい、毎日家に帰ると、次の試合に追われるようにDVDへのダビングに励んでいるのだ。ひどいときには、今行われている試合の実況を聴きながら、画面では編集作業をするなど、本末転倒、申し訳ない限りでございます。編集とは言っても、チャプターに分けて、対戦をタイトルに書いて、サムネールを選ぶくらいなんですけどね、これが結構めんどうなのだ。チャプターは、スタジオでのおしゃべりをカットして、前後半を分けるくらいのものなんですけど、サムネールを選ぶのにときどき苦労するのだ。なにかしらワールドカップの雰囲気を伝えるもので、一目でその対戦がわかるようなもの、というとやっぱり観客席のお祭りのような雰囲気なんですね。そういう映像を探して、これか、いやこっちのほうが雰囲気が、...なんてやってるときりがなくなることがあります。こうして、1次リーグの対戦を、サムネールで全部見てみると、ワールドカップだなあとつくづく思います。4年前の韓国を思い出しますよ。さまざまなお国柄ではありますが、総じてヨーロッパの応援風景はどこも似たり寄ったりです。それにくらべて、アフリカの国々の楽しそうで個性の豊かなこと。迫力ありますなあ。などなどと、サムネールで楽しんだ世界紀行も終わってしまいました。16もの国々が帰ってしまうのはさびしいですな。なんだか、第一幕が終わって、出演していた役者たちが退場してゆくような。さあ、第二幕、これからがほんまもんのワールドカップじゃ~。とはいうものの状況はかわらず。

投稿者 geta : 20:53 | コメント (1) | トラックバック

 四年前には「今からドイツ行き貯金を始める。仕事も休んでドイツに行くぞ」と言っておった君であるのに、世の中ままならないものなのか。

 兎にも角にも、今日も試合は続くのであります。

投稿者 zenta : 2006年06月25日 02:14

2006年06月17日

眠り

このところ毎日、朝の三時、四時に帰宅し、あろうことか場合によっては六時になることもあり、翌朝普通の時間にでかけるという生活をしておりまして、あろうことかひとつの試合すら見られないのです。なにに対してかは明確ではないのですが、なんとも申し訳ない心持ちでいっぱいなのだ。
ようやく3試合目に間に合ってゆっくりと見始めると、大変に豊かな気持ちにつつまれるのだが、いつのまにやら目覚ましのなる時刻になるのだ。そして、結果だけを知ることになるとはなんたることか。
このまえなんざ、イタリア-ガーナ戦だったもので、なんとも口惜しくこの試合に限り二倍速で見てから出発することにしました。そしたら、イタリアの速攻の速いことはやいこと。音声も出てるものですから、毎回パス3本でゴールまで行っちまうとは、だてにセリエじゃねえななどと思ったものでした。

また今日も、朝四時の眠りに引き込まれる刹那の、全世界を包み込むような幸せに浸ることになるのかしら。それは天にものぼるような幸福感なのだ。そうだなあ、死ぬときはワールドカップの期間がいいかなあ。まあ周りは迷惑千万このうえないだろうが。

投稿者 geta : 15:59 | コメント (2) | トラックバック

 う〜ん、もったいない。

投稿者 zenta : 2006年06月18日 01:51

本当にもったいない。
もしかして、チェコvsガーナも見られなかったのかしら。

>また今日も、朝四時の眠りに引き込まれる刹那の、全世界を包み込むような幸せに浸ることになるのかしら。それは天にものぼるような幸福感なのだ。

 美しい。

投稿者 りんご : 2006年06月18日 03:20

2006年06月10日

スカパー 開幕

この期に及んで、うちにもスカパーというものを導入してみました。アンテナの取り
付け工事代をけちったので、半日の取付け仕事をせねばなりませんでしたが、日
差しの中、ひさびさに己のために働いている感じがしました。
あたりまえのことですが、アンテナは衛星の方向に合わせなければなりません。アンテナは言ってみれば単なる金属の板ですけど、案外これが微妙な調整が必要で、ということはかなりの精度で電波をミートしていることになります。アンテナを数ミリ動かすだけで、受信状態のバロメータをあらわすビープ音が、高音になったりトーンダウンしたりと、受信状態がかなりかわるようです。ひとつのアンテナでふたつの衛星に合わせよという指示なものですから、それなりの矛盾は含んでいるわけです。この一連の作業を経て、なにやら目に見えないものの、宇宙からの波がそこに在ることを実感したしだいです。

チューナーに挿しこむカードの番号を電話入力して、住所氏名などを音声登録する
と、すぐに仮登録になります。いきなり60以上のチャンネルが見られるようになるわけで、その素早いレスポンスには恐れいります。だんだん気も短くなってきている今日この頃のわが身にとっては、なかなかありがたい仕組みです。

もちろんサッカーを見るのが第一の目的ですから、これを堪能することになりますけれど、かなり嬉しいのが、各国の放送局が現地で放送しているニュースや番組が見られることです。スペインのTVEとか、台湾、香港の大富など、出張に出かけると、いつもホテルの部屋でお世話になるチャンネルですから、どうにも出張先のホテルにいるような、なんとも懐かしいようなというか旅先の不安定な雰囲気を思い出すというか、なんだか自分の家にいる感じがしませんです。もっとも視聴してるというよりは流して聞いているだけですけれど、まあ、なにやら嬉しい感じがするわけです。加えて地球の裏側のブラジルからIPCという放送局などをみていると、行ったこともない場所に興味をかきたてられます。

それにしても、ふと気がついたのだけれど、ワールドカップのゲームって、スカパーで全部やるにはやるけれど生じゃなかったんだ。結局、録画はNHKBS1でするんかなぁ。変なの。すべてがリアルタイムで行われるってのも、考えもんだなあ。

それにしても、やたらと点の入った開幕試合でございました。一試合めも二試合目もスタジアムの雰囲気はさすがに最高ですな。待ちに待ったお祭りがやってきたという嬉しさと、サッカーをほんとうに楽しんでる、という熱気が伝わってきましたよ。やっぱりワールドカップはこういうところでやらないと。それにしても寝不足になるぞん。


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2006年05月27日

先週

先週のぶんを下書きのまま保存してしまったようです。いまごろ気がつくなぞ何たることか、ではありますが、早くもふりだしに戻ったわけではないのです。
さて、台湾に行って参りました。本来は弁護士の先生の仕事かと思うのですが、契約書の内容と文言の交渉するという面倒なことをしなければなりませんでした。中文と英文が併記されていて、書かれている内容が相違ないかも見なければなりません。そんなこと、日本語のできるローカルアーキテクトの力をかりなければできるわけないのですけれど、そして契約書を持ち帰って和訳しなくてはいけないのです。けれども、辛抱強くわかろうとすると、結構おもしろいものでした。英文に書かれている言葉が中文になかったり、ニュアンスが違いそうだったり、確かめてみるとその通りだったりと、結構わかるものでした。
また、来週行きますのです。すこし、中国語を見てみようかという気になります。

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2006年05月20日

台湾2 契約

You must take responsibility (even we are in the team). It's your responsibility (which one you choose, I do not care). You are responsible (for this fault). また月曜日から、いやな話をしに台湾に行くらしいです。 これはきみの責任だ、と言われないための作業です。

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2006年05月13日

台湾

 台湾に行ってきました。台中大都会歌劇院オペラハウスの設計契約交渉のためです。台湾に赴いたのはこれで三度目ですが、いつもそこはかとなく全体に漂っている柔らかな雰囲気に親近感を覚えます。もう夏のように太平洋の高気圧に覆われて、気温は高かったのですけれど、空気中に水分が多くて、陽射しは直接降りそそぐのではなく、気候はしっとりしていました。
 彼らが話す中国語も、なにかゆったりとしていて、アクセントも強くなく、水がさらさらと流れるような柔らかなリズムと抑揚があって、とても惹きつけられてしまいます。シンガポールや香港で聞く広東語ではなく、標準語(北京語)だからということですが、どうもそれだけではなくて、なにやら品のようなものを感じます。
 スイスに留学する前にウィーンでドイツ語を勉強したときに、オペラの立ち見席に夕方早くから並んで、台湾からきて声楽を勉強しているという女の子たちと、筆談をして長い待ち時間を過ごしたことを思い出しました。漢字は中国の簡体字ではなく旧漢字の繁体字ですから、われわれには、多少とも見慣れていて親近感があります。街にあふれている看板も意味を解そうとすると、それだけで結構楽しめます。
 契約でおもしろかったのは、中国語と英語で異なる内容が書かれていることを発見したことです。そんなことあっては困るのですけれど、ふと中国語を見るとなにやら英語に書かれていることが書かれていなかったのです。ほかにも何点かそんなことを見つけました。漢字の文化圏というものを感じました。
 中国語と英語が話せる人。日本語と英語が話せる人。日本語しか話せない人。中国語しか話せない人。全てがわかる人。と会議では、何がなにやらわからぬように、三つの言語が入り交じっていおりました。私は、とてもとても中国語を聞いているのが楽しかったですよ。そんななかで発見がありました。「信頼」は中国語でも「しんらい」と発音するらしいです。契約の交渉の席でそんなことを発見するのですから、さぞ大変な交渉だったと想像いただけそうですね。街のなか、ファミリーマートは「全家」でした。
(中国語の音声でもアップしてみましょうか。できるのだろか。(最近、カメラもですけれど、音の採取をしていましてね、これも楽しいのですよ。))

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2006年05月06日

自転車

久しぶりに自転車に乗って、地元阿佐ケ谷の界隈をうろついてみました。太陽のひかりを浴びながら、緩やかに風を受けて身体を動かしてみると、とても爽快な気持ちになりました。長らく土曜日のブログをお休みしてた間、とこれは明らかに言い訳なのだが、まっとうに自然を感じ正常に身体が機能していなかったのではないかと思うほど、なにやら開放された気持ちです。
建築をつくるというのも変なもので、図面を描けばいいかというとそう簡単にひとりよがりにはいかず、ひとと人の間をつないぐことのほうが比重が高かったりするのです。特に外国とのやりとりは、異なる文化にいるひととのやりとりですから、われわれの思ったり感じたりすることがそのまま伝わりません。ひとつずつ解剖して伝えなければなりませんっから、ひと言の話し方や単語の選び方にもたいそう気を使います。どうやら建築家であるということは、同時にというかそれ以前にしなければならないことがたくさんあるようです。
豊かなものを感じとり、そして豊かな空間の創造をする楽しみのうちに身をおきたいものであります。

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2005年07月23日

050723

夕方の地震のおかげでJR阿佐ケ谷駅から新宿駅に到着するまで40分以上かかった。上り総武線が高円寺行きだったり、中央線が新宿止まりだったり。一駅進むごとに列車がつかえているとかで長い時間停車する。ローカル線ののんびりした旅のようで、ホームに降りてたばこを吸う人たちもいる。こんな状況は、毎日のルーティーン化した私の移動の時間に対して、ちょっとばかり非日常的な楽しみをもたらしてくれたと言えなくもない。ただし、ずっと電車の中で立ってなければならないことと、拡声器の音量たけだけしく、絶え間なく垂れ流される無意味な駅のアナウンスは、この上ない苦痛であった。やっぱり単にストレスの上塗りをするだけの小一時間だったのか。夜になっても状況はかわらず、友人のひとりは乗継ぎで足止めをくらい、真夜中に1時間ほど、がなりたてるアナウンスの洪水に翻弄され騙されたあげく、タクシーでの帰宅を余儀なくされたらしい。せめて静かにしてくれれば、電車が来ないことだって駅で止まっていることだってがまんできるのに......。

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2005年07月16日

050716

来年の2月ニューヨークの現代美術館で、スペインの現代建築に焦点をあてた展覧会がある。そのカタログのために、早くも素材を提供せねばならず、いま施工中のスパイラル状のストラクチャーをもつ建築の写真を整理し、ftpサーバーにアップした。莫大な量のデータだったが、瞬時に、とは言っても2時間くらい要したのだが、やりとりができるとはなんとも便利なもので、小気味よい。リアルタイムで、互いに確認し向こうからは礼が送られて来て、一晩の任務を終える。先方も美術館ゆえ日曜に出勤していたらしく、徹夜したとはいえ素材準備を含め短時間で仕事した甲斐があった。なんともスピーディーで気持ちのよいやりとりであった。アメリカのよいところではあるかもしれない。

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2005年07月09日

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日大の大学院で、建築デザイン設計の前期講評会にゲスト講評者として出席した。ひとつのユニットで、阿佐ケ谷団地が課題として取上げられたことが直接の理由でもある。ほかの3ユニットと共同で、まる一日かけ26作品について講評した。いくつかの講評に値する作品はあったが、総じて、大学院の建築デザインの授業であれば、もっと建築は如何にあるべきかという議論がなされるべきものと思って少しばかり身構えて行った私にとっては、実に肩透かしを食わされた感じだった。講評の途中で、まあみんながんばってるな、とふと思った瞬間があったのだが、その時私はこれを3年生の課題と勘違いしていたのだ。思考のレベルにおいて、中では阿佐ケ谷団地の課題が少しがんばっている感じは受けた。ただ、建築というものや場所をつくることについて、身体から滲みでるようなリアリティーをもちえていない彼らにとっては、この場所をどう考えるかという段階にたどりつくことがやっとだったようで、住空間そのものや住み方への提案ができている案はほとんどなかった。せっかくここまでやった課題なのだから、夏の時間をつかってその辺りをよく考え、レベルの上がった作品として完成させて欲しいものだ。できたら団地でも見せてもらいたい。

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2005年07月02日

コンフェデ

ブラジルのサッカーのような建築をつくりたいな。何も知らない素人でも、楽しくわくわくするようなもの。

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2005年06月25日

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赤いドイツってのはどうなんでしょう。コンフェデレーションズカップのことですけれど。僕が知ってるドイツのジャージの色は、上から白黒白か緑白緑。74年のワールドカップの決勝戦、オランダの躍動的なオレンジ色と屈強なドイツの白いジャージが、緑の芝生の上で相まみえた一戦は、いまだに鮮やかな色彩が目に浮かぶ。同じ大会、大雨のゲルゼンキルヘンスタジアム。鍛え上げられたドイツの選手の肉体にぴったり張りついた、緑のジャージはカクテル光線に映えていた。大会屈指の好ゲーム、スウェーデンの10番、エドストレームの放ったボレーシュートは、名手マイヤーの手をかすめもせずにネットに突き刺さった。直前、ヘディングのクリアーをミスして彼の真上に上げてしまったのは、ドイツの4番シュヴァルツェンベックだった。身体は大きく屈強だが、決して器用ではない重戦車のようなバックの選手だった。2005年、ブラジルにPKを献上したのはドイツの4番。同じようにどう見ても華のない、インテリジェンスはもしかしたらあるのかもしれないけれどそうは見えない、強さ第一の印象がぬぐえない。30年たっても、ドイツには同じような選手がいて、同じようなチームづくりをするのかしら。どうせなら、ジャージの色も変えなきゃいいのに。

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2005年06月18日

上棟式

事務所近くで工事が進んでいる診療所と住宅の上棟式があった。もともと何もない土地に、あるいは古い建物を取り壊して更地にした土地に、建物の骨組みができあがり、建物のかたちが現れたことを祝うのが上棟式である。地面を均したり整える地業(じぎょう)、基礎の工事につづいて、大工や鉄骨、コンクリートの工事が行われる。建築のすべての工程の中でもっとも荒々しく、かつ建物の骨格をつくる重要な工程である。また、その後の工事のための段取をし、さまざまなことを決定しなければならないのもこの時期で、それらを含めてひとつのものごとが達成された節目の儀式なのである。嬉しいことである。
上棟式は、施主が催し、それまで施工に携わった職人達をねぎらい工務店に感謝する。これから施工の中枢を担う職人たちも集まり工事の受渡しの意味もあるのだ。施工者は、施主自身や施主の家族、親戚などに会い、この建物をきちんとつくろうと気持ちを新たにする。また設計チームが建築(物理的なモノとしての建築を指すのではなく建て造る行為を指す)引張っていっていることをみんなが再認識する。酒を飲み交わし食事をし、建築をつくる三者が互いのことを一歩進んで理解する機会なのである。
当日は、鳶や鉄骨、型枠大工や鉄筋工など躯体の施工に携わった職人や各種工事に関わる人びと30人、工務店から8人、施主の関係者が子供を入れて15人くらい、そして設計チームは6人の合計60人もの人びとが集まった。全員が住宅の広間となる空間に入ってあまりあったのは、設計者としてもいささか驚きだった。子どもたちは、道路から住宅の中まで所狭しと走り回り、玄関の辺りにはバーベキューコーナーがつくられ煙がたちのぼる。住宅の空間は、都市的なさまざまな物事がおこる雑踏のようであり、それでいてもちろん私的な祝い事の雰囲気が漂う空間となっていた。僕は、実は僕だけが知ってるのではないかと思われるこの家のもっとも良い空間にすわって全体を見回していた。コンクリートの躯体が力強い、壁の量もよかった、窓の位置やサイズも何度も吟味しただけによさそうだ。そして何よりも許容力のある骨太な空間ができるような感じがして少し安心した。

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2005年06月09日

050609

朝、家を出て歩いている途中に地震にあった。急に家屋が揺れガシャンと言った。すぐに揺れは止んだのだが、大抵、地震を感じるのは屋内にいるときだから、屋外で出会うと身体が露呈されているからだろうか、いつになく、心細さをともなった不安感を抱いた。そこで、次に思ったことは、携帯電話である。思ったことは携帯電話である、というのもおかしな表現だが、誰かに連絡をとろうと思ったわけでもないのに、ふと携帯電話のことが気になったのだ。本当に震災ともなれば、おそらくつながりにくい携帯電話で、必死に連絡をとろうとするのかもしれない。ふと、そんなことが頭をよぎったのではないだろうか。自覚はないのだけれど。今日は、そんなことで、家に忘れた携帯電話を、取りに帰るチャンスを拾ったわけである。まあ、よかった。それを忘れると、どうにも行動が狭くなり、活動がにぶることは必至だから。
昨日の試合で、日本がドイツワールドカップへの出場を決めた。世界最速というおめでたいというか、アジアのレベルの低さを物語ると言うか、記録つきである。2002年に韓国まで観戦旅行に行ったことがつい昨日のようだ。韓国を知る、よい機会になったことは間違えないが、それより、やっぱりワールドカップとは祭りだということを実感したたびだった。世界から集まる代表チームを応援するために、いろいろなひとびとがひとところに集まる。
また祭りに参加できるのだろうか。4年前と今とでは、いろいろなことがずいぶんかわってしまったから。でも、祭りにはいきたいなぁ。

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2005年06月02日

050602

先日、厨子にある神奈川県立近代美術館の葉山館へ行った。本館は鎌倉の鶴岡八幡宮の裏にある。坂倉順三の設計によるとても良い建築である。スケールの美しい何とも言いがたい雰囲気が漂う、まことに味わいのある素晴らしい空間である。1951年開館のこの美術館は、半世紀以上を経て、面積が小さい、設備などの機能的なバックアップが十分でないと言う、現在の要求条件には十分でない場合があるという理由から、分館として葉山館がつくられたのだ。
春に、ハンス・アルプという彫刻家の展覧会が行われた時に訪れたかったのだが機会を逸したため、今回がはじめてだった。湘南ライナーという直通の電車で、渋谷から約1時間、思ったより早く着く。駅からは車で少し走らなければならないが、御用邸の隣接地、海に面する環境は抜群である。至るまで走りながら遠く、相模湾の向こうに、箱根の山々だろうか、幾重にも重なる山の端が、グラデーションも鮮やかに見える様は、一緒に乗っていた若い建築家たちが、感嘆の声を上げるほどである。普段の事務所で明け暮れる毎日に対して、非日常感を受け、流れる時間の速度の違いを感じる環境である。小高い山に向かって常に吹いているのであろう海風をうけて、とびだか鷹だかが、悠々と羽を広げている。車を降りると、あるいは館をひと回りして中庭に出ると、潮のにおいが漂ってくる。波の音とともに、なんともたゆとうような気持ちになるのだ。


神奈川県立近代美術館

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2005年05月26日

050526

地元で行っている計画、診療所と住宅の建物が打ちあがった。打ちあがるというのは、建築の独特の表現かもしれない。今つくっている建物はコンクリート造で、コンクリートを型枠に流し込んでつくるのだが、その、コンクリートを注入することを、コンクリートを打設(だせつ)すると言うのである。一方、何か物事が最後まで行き着くときに使う、あがる、という表現は一般的だろう。建物の構造体としてのコンクリートが、すべて打設され、コンクリート工事が終わったことを指して、建物が、というより、コンクリートが打ちあがるという表現が出てくるのである。
鉄骨造の診療所は、すでに軒先の納めが始まっていて、外壁のモックアップもつくられた。もう少しで、もっとも大変な時期を終えることができる。というのは、建物の骨組みが出来上がるころ、まず、サッシや外装に関するディテールを決めなければならないし、続いて、内部との絡みを決めなければいけない。同時に、全ての設備関係のデザインを決めなければならない。だから、このころが、どんな現場の場合でも、もっとも肝要な時期なのだ。ここで手を抜くと、後でとんでもない結果を招いたり、大変に悔しい思いをすることになる。

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2005年05月19日

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先週の最終プレゼンテーションの結果、われわれの案が一等に選ばれ、高円寺会館の改築設計者に決定した。案の内容は、からす新聞5月号に掲載されると思われるので、ぜひご覧頂きたい。とりあえず、模型写真だけ掲載しよう。鉄の箱で場を囲い取り、道路やエントランスから完全にフラットなまま入ることのできる小劇場は、劇場の大きな扉や荷物搬入口を開くと、高円寺の街につながって、阿波踊りなどの拠点にもなれるだろう。

2001年にスペインの南の地方につくられる小さな建築を一緒に計画し始めてから、これで、関わったコンペは3連勝となった。マドリッド、アミアン、高円寺である。

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2005年05月12日

050512

いよいよ今週の土曜が最終プレゼンテーションである。ここのところ、毎日、伊東さんのしゃべるべき原稿が書き直され、すなわち発表の内容が吟味されている。このプレゼンテーションは、完全に勝つための緊張感と緻密さに満ちている。パワーポイントもつくられた。動画のプレゼンテーションもあろうかと思うが、われわれのやり方は、計画の内容を様々な断面で的確に切りとり、一枚ずつのペーパーにまとめるという、昔からの方法である。しかし、どのように計画の内容を切り分け、わかりやすく説明するか、そのためのグラフィックがどうあるべきか、ということを、とても真剣に考えなければならない。
ムービーのようなプレゼンテーションは、そのままで人の目をひきつけるから、果たして、伝えるべき内容をどれだけ内包しているか、本来はよほど慎重にやらなければいけない手法ではないだろうか。

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2005年05月05日

050505

実に良い天気である。マドリッドでは現地打合せと調査に続いて、南のアリカンテというところへ行った。そこはもう初夏の陽気である。ここにつくっているのは、建築とも言えない様な変な建物である。しかしこれはれっきとした建築であるばかりか、どう見ても世界的にも結構よいプロジェクトである。発表された計画案も反響を呼んだが、実際に建設途中の現場を訪れた建築家たちが、それもきちんとよい作品をつくっている人々たちがそろってよいと言う。これまた最近の「建築」を考えるときにめずらしいことだと言ってもよいかもしれない。


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2005年04月28日

050428

昨日帰国した。今日は、即座に劇場の技術打合せである。まず、劇場を上下に重ねるという音、震動環境的に不利な提案を補強するために、音響専門家と対応策を練った。専門家の経験に基づいて、実さいの音環境の分析を行った。もちろん設計段階でも検討しているのだが、具体的な数値を確信を持って発表できるかどうかという最後の検討である。心配していた上下のホールの音干渉については、ふたつのホールで同時にクライマックスが訪れ、片方は祭りのような賑やかなクライマックス、もう片方はしんみりとした泣くような静寂のクライマックスだったとしよう。その音レベル差は非常に大きなものだ。数値で表すと75デシベルという値だが、これは普通の電車の車内の騒音と同等かそれ以上だから、たいそうな音である。しかしながら、どうもこれはクリアーできるらしい。
また、世田谷パブリックシアターに通い、舞台技術の詳細について打合せをした。バトンの吊り方や位置、滑車やモーターの種類やメンテナンスの頻度そのほか、今回求められているプロポーザルという提案形式においては、本来、現時点では必要ないレベルの設計内容だ。ただ、勝ちに行くときは徹底的にやらなければならない。

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2005年04月21日

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マドリッドに来ている。東京では、高円寺の最終プレゼンテーションへ向けてチームの面々が、それぞれの専門家と打合せをし、技術を確認し、発表内容を確認している。ぴりぴりした毎日だと期待したい。こちらマドリッドも、公園計画の進め方について、施主である市当局に質問状を送るなど、ようやく引締まった状態になってきた。
いまのところあまり旗色は良くないと聞くが、マドリッド市が2012年の夏のオリンピックに立候補している。僕たちが計画している公園に、ラフティング(カヌー)のコースをつくろうという計画が昨年夏以降もちあがり、秋からその計画を練り付加してきた。そんな、ある希望に膨らんだ時間は気持ちよく過ぎる。2月にIOCへの最終プレゼンテーションが終わり、あとは7月の投票と結果を待つばかりとなって、計画をとりまく空気は次第に現実味を帯びたものへ舞い戻ったように思う。

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2005年04月14日

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果たしてコンペティションは、最終審査に残ったようだ。公開プレゼンテーションは、来月の14日である。これからまた準備をすることになる。
先日、池袋の淳久堂に行った。ジュンク堂と書くほうが一般的かもしれない。僕の認識では、椅子に座って本を読んで、選ぶもよし買うもよし買わぬもよし、なんだか関西からやってきた商売根性の旺盛な本屋ってなとこだった。マドリッドで計画中の公園のために、何か良い本はないものかとかねてから思っていたのだが、特別期待することもなく、ちょっと近くに来たという理由でふらっと寄ったのだった。生物多様性とか、植物や水のことを詳解した、ちょっと専門的な本を探して入ってみた。まず驚いたのは、1階にでーんと構えられた大きなキャッシャーのカウンターだ。レジを打つ店員が20人くらいはいるだろうか。次から次へとお客さんを裁いている。普通良く行く紀伊国屋書店にしろ、八重洲ブックセンターにしろ、支払いは各階でするし、そのレジにはせいぜい3人とか5人とか場合によっては10人とかが対応しているようである。6階も7階もあるフロアーに、それぞれキャッシャーを置くより、1階に集中して置くほうが、人員削減には役立ちそうだ。買う我々も、全フロアーまとめて支払いできるほうがどんなにありがたいことか、いままでの本屋さんでとても面倒くさいと思っていたことのひとつである。
各フロアーでは、図書館にいるような感じすらするように、普通のというより、いつも良く行く本屋では決して見ないような、そうは売れないように思われる本が、普通に出て行きそうな本に混じって置かれている。すなわち、売れるか売れないか専門的か一般的かという概念ではなく、一律、ジャンルや項目ごとに分けるという、たったひとつの基準によってちゃっちゃと棚に入れられている。だから図書館みたいなのだ。そして椅子があって、座って読んでいる状態が、受け入れられてしまうのだ。各フロアーの店員は、館内PHSみたいな通信装置で1階カウンターと直接話して、客が捜し求めている本が、何番の棚のどちらの側にあるかすぐ調べてくれるのだ。
おそらく、そうした合理化が、棚に陳列する書籍の種類を増やすことにつながってるのではないだろうか。それらの本は、もしかすると玉石混交かもしれないが、チョイスは客がすればよい。インターネットの書店の現実版のような感じがしておもしろかった。結構、関西もいいんじゃないの、などと思ってしまったのだ。

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2005年04月07日

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高円寺のプロジェクトを提出した。最後まで、細心の注意を払って、グラフィックの処理をする、文章を推敲する、レイアウトを吟味する。そんなあたりまえのことを、久しぶりに最高の緊張感とともに終えた。それにしても若い所員たちのなかには、そういう作業に少々無頓着な雰囲気があったのは信じがたいことだった。僕がレギュラーで所員だったころは、提出直前にはそれはもうぴりぴりした空気が漂っていたものだ。その一枚が勝負なのだ。0.1ミリの狂いが全てをだめにする、と言えば少し大げさすぎるかもしれないけれど、それほどの緊張感が漲る中、小さな調整を積み重ねることが、そのデザインにかけたわれわれの意気込みを伝えるのだ。最後がぼければ全てがぼける。
つぎつぎにほんの少しずれただけのコピーしたような複製品が溢れかえり、誰でも簡単にそんなものを作れるいま、一枚にこだわることなど意味がないといえばないのかもしれない。CRT画面の上では、実物の大きさなど意味を持たないのだし。あるのは、ものごとや線と線、点と点の関係性だけだ。拡大縮小は言うに及ばず、動画の加工も意のままだとすると、ひとつのポジションやエレメントにこだわることに、そんなに意味がなくなってしまうと言えなくもない、という一見合理的な結論に至るような気もする。彼らは本当にその一枚に意味を見出さないのだろうか。頓着がないのだろうか。レイアウトやデザインが「動く」ことなんかに慣れてしまったのだろうか。

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2005年03月31日

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提出間近だというのに、いろいろな仕事が降ってわいてくる。昨日はシンガポールのプロジェクトのために来日したクライアントと話し、今日は、フランスからやってきた、去年アミアンの美術館のコンペを一緒にやった、古い友達の建築家と会った。このコンペも見事に一等を勝ちえたのであるが、不幸にも、その後政治的な理由で中途で計画がキャンセルされた。からす新聞でも紹介されたプロジェクトである。実は、そのコンペの最後にフランスでまとめたコンセプトの文章が気に入っている。日本で書いた文章を推敲し必要なことを付け加え、フランス語としてよろしい文章になった、はずである。ポンピドーセンターのキュレーターをやっている美術家と明け方近くまで、コンセプトを説明しながら、一緒に頭をしぼって最も相応しい言葉を捜した。
新しい美術館は、デッサンを主体としたコレクションが特徴である。フランスのラスコーの洞窟(http://www.culture.gouv.fr/culture/arcnat/lascaux/fr/)の壁画はクロマニョン人が描いたデッサンである。線画はシンプルであるがゆえ、人間が創造することの楽しみを、もっともよくあらわしているとも言えるのではないか。そんな美術館だから、美術を対象とするのではなく、建築空間もオブジェクティブではない、ひとびとにJOYをもたらすようなものであるべきではないか、という趣旨である。残念ながら日本語バージョンは存在しない。いつか、フランス語の得意な友人にも読んでもらいたいものだ。

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2005年03月24日

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このところ集中的に打合せをおこない、模型をつくり図面をつくり検討を重ねている。おおよそ案はまとまり、四月はじめの提出に向け、プレゼンテーションの準備に入る。図面と同様に、パネルに載せる文章が大切である。両者が補完して計画全体の深みが増す。余談だが、欧米、特にフランスでは、設計図書とは、基本的に設計内容を詳述した文章を指し、図面はそれを補うものだということだ。まこと言葉の国フランスらしい。明日もまた、世田谷パブリックシアターに乗り込み、最後のチェックをするつもりである。パースも少しできはじめている。提出一週間以上前にして、これだけすすんでいるのは、コンペとしては大変に上出来である。いつもは最後までばたばただから。
夜、テレビで厳島神社の海の舞台や五重塔、白川郷の話が放送された。主題は、自然と人工が出会うということ。人工的な建物が工法や部材の組み合わせ方を工夫することで、自然の強力な力をどのように逃し、建物自体やその大切な部分を保持してきたか、それぞれに例示をとり具体的に説明してくれた。海の舞台は、舞台の床板を固定せず、大きい波によって上下に動き柱と摩擦を起こして波のエネルギーを吸収して、奥の本殿を守る構造となっているという。五重塔は、芯柱という新しいコンセプトを持った建築要素を考え出すことで、地震力を打消している。技術的にどうやって問題を解決するかを、丁寧に説明してくれることで、単に空間が開放的であるとか、柱と梁の架構が建築をつくるなどと言うこと以上に、ひとびとが自然と近い距離にいたということがよくわかる。まこと、先人の知恵は大いなるものであるなどという以上に、近代において打ち負かす対象となってしまった自然が、本来は人々の生活そのものにかぶさっていたということが大切なのだ。

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2005年03月17日

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地盤の掘削と改良、検査があった。
例の劇場は、すでに、設備の考え方と、劇場の考え方をまとめつつある。松本から帰ってすぐに、案の骨子がまとまった。松本で見た舞台が、演劇と言うものに距離を置いていた我々に対して、もっと身近で自然な劇場空間を教えてくれたような気がする。そう言えば、昔、黒テントで名を馳せた演出家が審査員に名を連ねるのだ。
あさっては、再び、三軒茶屋にある世田谷パブリックシアターに出向いて、劇場を構成するための技術的な解決はどうあるべきか、第一線で活躍中の舞台技術監督に助言を求めに行く。審査員のひとりである演出家も、かつてこのパブリックシアターを一緒に立ち上げた人なのだ。
プロポーザルに残る11人の設計者には、世田谷パブリックシアターを設計した建築家が含まれている。強敵だ。なぜなら、世田谷パブリックシアターは、小劇場としてその空間と企画で、大変に成功した劇場としての定評があるからである。われわれは、「つぎ」を目指さなければならない。

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2005年03月10日

昨日、松本市民芸術館で演劇の舞台を見て、今日の朝帰京した。長い時間をかけて計画してきた診療所と住宅の地鎮祭、起工式だった。丹念に設計と調整をしてようやくたどり着いただけに、嬉しいものである。これから現場が始まる。
今週、高円寺の劇場計画プロポーザルの一次選考結果が出た。参加70社のうち11社が残った。顔ぶれは現在活躍中のアトリエ事務所ばかりである。組織事務所やゼネコンがらみのチームは残らなかった。残った面々はいずれも百戦錬磨のつわもの達だが、このコンペにおいて、建物のデザインやコンセプトが大切に考えられるという審査員のメッセージが伺える、たのもしい結果となった。これから約一ヶ月、高円寺にしかないような、次の時代をつくるような小劇場の計画をまとめてみたい。内容を秘密にせねばならないのだが、私の時間のとても多くはこのことで占められており、ほかにあまり書くことがないのが問題だ。

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新入生

渋谷の事務所に新しいメンバーが加わった。今年は、入社試験をつくり選考するという重要な役割を、僕も担うことになってしまい、結構複雑な心境でありました。まあそれでも、これから一緒に仕事をしてゆくであろう、有能な若手を選択するための発言権を得られたのはあり難いことでもある。
国語の入学試験問題のような、日本語をきちんと理解して何が書いてあるかまとめられるかをみたい、と思ったが、それは渋谷の事務所と言うよりは、阿佐ケ谷の事務所に必要なことだと、あとで気がついた。でも、セルフポートレイトなる、自己宣伝のための作文には、最近読んで良いと思った本について記すこと、という課題が加わった。
さて、試験は3日間を与えられた設計課題と先ほどのレポート、そして面接である。課題は、住居とコマーシャルな用途を複合させた建物を、渋谷の事務所の近所につくるというもの。企画力と空間構成力を見るという単純なもの。事前に送られてくるおびただしい数のポートフォリオを選考し、8人が試験に残った。
結果、面接は大変重要だということをあらためて感じた。とても優秀なポートフォリオを送ってきたある人物は、別格に合格確実と思われていたのだが...。今年は、女性3人と彼女たちより少し年下の男の子ひとりの合計4人が合格した。それにしても、女の子たちは、面接で、ひたすらよく喋っておった。
みんなそろって、さっそく新しいプロジェクトに取り組んでもらっている。いまのところ、大変に雰囲気も良く、事務所の空間は賑やかに華やかになって、今年の選考は正しかったのかもしれない、などと思っているところです。

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2005年03月03日

夜と昼のであうところ

漆黒の闇からひかりの空間への柔らかい境界。こんな流れるような空気の色をつくってみたい。

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