2011年04月09日

東京生まれというか、

 ご存知のように、私は東京に生まれ育った。というか、東京の杉並というところに生まれ、その界隈で、半世紀にならんとする人生のほとんど全てを過ごしているような人間であります。
 東京生まれであることを誇りに思うというような気持ちは、実は、ない。けれども、東京というか杉並というか、うちの近所というか、が、とても好きなのは確かですよ。愛着があり、執着もある。いや、ほんと、ここに生まれて育って良かったし、できることなら、このまま、この近所をうろうろ徘徊しながら生涯を終えたいもの。
 そんな私であるけれども、この東京というところにがっかりすることが、ごくたまにある。その代表的なものが選挙というもの。どうも、私が好む(少なくとも嫌うほどでもない)人というのは世間様の嗜好とは違うのだな、と。こういうことは、当然、ある。いや、寧ろ、私は自ら好んでマイノリティの側を歩いてきたような人間なのであるからして、それは当然のことだと言えるかもしれない。うん、そうなんだけれどね。

 ふとしたタイミングで、からす新聞、あるいは、カラーズのことを思い出す時に浮かぶのは、昔の生徒諸君の当時のままの顔、声、変なズボン、とぼけた言動、時には、真剣なまなざし、そんな種々。
 みんな今ではなかなかの年配になっているだろう。中には、新しい家族を持ち、親となっている人だって少なくないはずだ。彼らは、いや、馴れ馴れしく呼びかける体を取らせてもらうなら、君たちは、この淀んだ空を見上げて何を思っているだろうか。

 こんな世界がやってくるということに、私は気づいていなかったのだろうか。気づいていなかったのだとしたらあまりにも愚かだし、気づいていたのに、結句、今日のこの世界を迎えてしまったのだとしたら、それはそれで愚かである。まあ、実際のところ、私という人間はいろいろな点で相当に愚かな偏屈じじいである訳ですけれどね。だが、しかし、今、抱えているこの無力さの底にある愚かさは、引き受けきれない。消化できない。阿呆か。阿呆だ。

 また、都知事選というやつがやってくる。今度もがっかりすることになるのだろうか。その投票率の低さに、その結果に。いや、そんなはずはないだろう、という一握りの期待もある、今度ばかりは。だが、ううむ。

投稿者 zenta : 04:54 | コメント (4) | トラックバック

その昔、
空を見つめてボ〜っとしているだけで、
何も悪い事してないのに、
なんで怒られるの?
って言う歌が、心に響いた事があります。

歌のモデルの彼の方が、今の偉い人たちよりもずっと
偉い事を考えていた様な気がします。
怒られながらも、疑問に感じながらも、
僕たちよりも、ずっと色んな事を考えていた気がします。

今、もしかしたら誰よりも早く、
人の為に動いていたかもしれないなぁ。

なんて事を空を見ながら考えたりしています。


投稿者 piccolo : 2011年04月09日 22:17

前回選挙前、初選挙という学生くんたちとの花見の席、
 君が代歌うか歌わないか、自由でいいじゃん。
というと、
 君が代歌うのがふつうでしょ、なんで歌わないの?
って、噛み合わなかった。教師になって、どうしてることやら。

投稿者 shachi : 2011年04月12日 14:29

偏屈じーさん
引退すればいいのになぁ
私の好きな東京は、どうなるのだろうか?

投稿者 flint : 2011年04月23日 12:35

いやあ、東京は放射線の蓄積量も少なくはないし、どうなってしまうんでしょうかねえ。P.K.ディックの描いた近未来SF的な、そんな世界が浮かびますよ。

投稿者 Zenta : 2011年04月23日 12:53

2008年06月18日

もう

 22/31、もう70%余りが終わってしまったのだ。もちろん、EUROの話である。

 予選リーグの最終戦は平等を期するために二試合同時に行われる。それをずらして放送するわけで、テレビの前に座っている時間は大雑把に言えば三時半から九時というところ。夜中のうちに少しだけ仮眠を取り、二試合を見終わってから就寝することにしているのだが、興奮が静まってきてようやくうとうとし始めたところで、ピンポーンと宅急便が来る。寝呆けながらも階段を下り、玄関まで出て、判子を押したり何だりを済ませて、ううむ、再度就寝に挑む。まどろみ始めたところで、今度は電話ですよ。こんな時に限って、断りようのない相手からの小難しい用件であったりするもの。一段落して、時計を眺めて、うおぉ、目が回る。慌てて蒲団に潜り込む。ところが、どうしたことか、中途半端に目が冴えて、眠気が近寄っては遠ざかり、近寄っては遠ざかり……。

 22/31、もう70%余りが終わってしまったのだ。たったの9試合しか残っていないのかと思うと残念でならないけれども、身体のことを考えるなら、このぐらいがちょうどいいのかもしれませんなあ。いやはや、欠伸が止まらない。そして、時々、立ち眩み。

投稿者 zenta : 23:41 | コメント (2) | トラックバック

見たい見たいと思っていつも見るのは朝のニュースで結果だけ。情けない限りです。
学生の頃は時間なんか気にしないで見れたのになぁ。

投稿者 quwabara : 2008年06月19日 21:32

 その「情けない」って心境を味わうのも良い経験になるんじゃないの? もっとも、一生、そのままだったら、良い経験もくそもないってことになるのかもしれんが。

投稿者 zenta : 2008年06月21日 03:24

2008年06月11日

またやってきたのですよ。2

 またやってきたのは痛風ばかりではない。
 EUROの季節。EUROの季節がまたやってきた。うひひひひ。
 楽しいけれども、きつい。きついけれども、楽しい。いや、実際の話、肉体的にはなかなかに厳しいスケジュールが続く訳で、前にも書いたような気がするが、ブラウン管の前で観戦するのだって、グラウンド上で丸いボールを追いかけ回している人々に負けず劣らずきつい。疲労困憊。眠れない夜。ま、でも、楽しい。けれども、きつい。……って、堂々巡り。
 先は長いような短いような。

投稿者 zenta : 06:51 | コメント (0) | トラックバック

2008年05月28日

またやってきたのですよ。

 ご存知の人も少なくないだろうけれど、私はアメリカのDaniという萬年筆メイカーの日本代理店をやっております。数字や計算は決して苦手ではないけれど、ビジネス的なことを考えるのが嫌いなので、代理店という肩書きではあるものの、商売っぽいようなことではなく、実態としては、あちらこちらの人々の意見調整をしたり、ちょっとしたアイディアを提案したりというようなことが主な役割……なのだと思い込んでいる。

 アメリカから社長が来日するのは毎年のことであり、そんな場合、ミーティングとも宴会とも区別のつかない感じで、呑んで食べて。いや、呑んで呑んで呑んでちょっとだけ食べてまた呑んで、ぐらいか。兎にも角にも、そう気の張るようなイヴェントではない。懇親会とでも申しましょうか。
 ところが、今回の彼の来日にはかなり明確な目的があり、そのプロジェクトに携わる複数の人々とも個別に打ち合わせる必要もあった。そのおかげで、精神的にも肉体的にも相当に忙しなく、引きこもり的出不精の私であるのに多くの時間を外で過ごし、近所の人々が、あれ、どうしたの、どこ行くんだい、と尋ねたくなるようなネクタイ姿をしたこともあり、そして、勿論、打ち合わせの後には宴の席が設けられるわけで。

 個々のミーティングは概ねうまくいった(ような気でいる)。であるからして、このプロジェクトの未来は非常に明るいのではないか、という感触を得た(ような気でいる)。ありがたいことに登場人物全員が満足してくれた(ような気でいる)。
 ほほぅ、それはよろしおますなあ。いやはや結構なことである。まことに結構なことであるのだが、社長くんが離陸したその夜、思わぬところから、災いが訪れる。うひぃ。それは左足からやってきた。夕方ぐらいから微妙に痛いような気がしていたんだよねえ。んで、夜になったら、かなりの激痛。朝には歩行困難。左様。痛風様の再々来である。嗚呼。

 痛み止めを服んで、げんなりしながら、寝床でじっとしているばかり。無理して不慣れな外出などするものではありませんなあ。私のようなものは引きこもるに限ります。……いやいや、先ずは酒量をどうにかしろよ、このあんぽんたんが、って意見も聞こえてきそうではありますが。ぐふぐふ。

投稿者 zenta : 02:29 | コメント (0) | トラックバック

2008年05月21日

アシタバンの春

 佐藤ガーデン再開の頃合いとなりました。

 冬を乗り越えられたものは、結局のところ、パセリと明日葉のみ。パセリなんざ、キアゲハの幼虫に喰い荒らされ、茎だけしか残らぬ無様な姿になっていたのだけれど、暖かくなるに連れ、完全復活。寧ろ、育ち過ぎな勢い。
 明日葉は、杉並の寒さでは立ち枯れるのではないか、と言われていたのだけれど、緑を保ったまま冬を越した。大したもんだなあ。

 大したものなのは、彼らばかりではない。また、ですよ。例の軍団がやってきた。
 米粒よりも小さい黒い連中。キアゲハの極小の幼虫が明日葉の上にうようよ。パセリではなく明日葉に卵を産み付けるとは、その親は、やはり明日葉生まれ明日葉育ちのアシタバンなのか。
 今のところ、パセリには姿がない。ということは、うちの近所のキアゲハの食文化に異変が起きた、と言えなくもない。去年はパセリを喰い尽くしてしまったがために、しかたなく、明日葉に移動した彼らだったが、今年は違う。きっぱりと優先順位が変わったように思われる。明日葉の方が栄養がありそうだしなあ。

 摘んでも摘んでも明日には芽が出る、というところから明日葉と命名されたという話をたびたび耳にする。実際にはそこまでのスピードでもないけれど、それにしたって、成長の速さは並々ならぬものがある。もしかしたら、ベイビーズの食欲と張り合えるかもしれない。いや、無理か。連中の食欲、途轍もないもんなあ。

投稿者 zenta : 19:08 | コメント (0) | トラックバック

2008年05月14日

終着駅はグラハム・セントラル・ステーション

 難波田史男の『終着駅は宇宙ステーション』をちらほら読んでいる。まだ三分の一かそこら。なかなか面白いのは確かであります。幼稚なところも、背伸びしているところも、混乱しているところも、それなりに楽しめますな。もっとも、善くも悪くも、お年頃……って言ってしまうと、身も蓋もないんだけどさ。いや、でも、ほんと、おもろいんですよ。

 読んでいるうちに、猛烈にフェイクな日記を書きたくなってきたりして。史男少年の真摯に揺れ動いた心中を読んだところから、いんちき日記を書きてえ、なんて、貴様、ばかにしているのか、とお叱りを受けそうではあるけれど。

 私よりちょっと上の世代の、裕福な家庭に生まれた真面目な青年。幼少時から絵画の才能が高く評価され、将来を大いに期待されるも、哲学にかぶれ、女性に溺れ、誤解から犯罪に巻き込まれ前科を頂戴するなど、挫折を重ねて迷走。それにしたって、ええとこのぼんぼんですからね、さほど暗くもない裏街道を紆余曲折して燻っていたところ、来日していたジョージ・クリントンに拾われ、ボーヤとして渡米。あちらこちらを転がっているうちに、ヒップでファットなビッグ・ママの経営する美容院の使い走りに落ち着く。そこでファンキーなシスタ、エピファニと出会い、二人の男児を授かるも……って、こんな設定でどうですか。いんちき過ぎますか。左様ですな。

 兎にも角にも、まずは表紙に使うやもしれぬ、幼稚園の頃のお絵書き作品から始めようってんで、左手にクレヨン持って落書きしてみたりしたところ、ううむ、あまりにも酷い出来。これでは天才画家の幼少期というには無理があるってんで、利き手に持ち替えて書いてみた。ところが、それでも大した絵にはならんのである。画家という設定は無理だなあ。

投稿者 zenta : 01:05 | コメント (1) | トラックバック

 その息子の一人の名はもしかしてケンジでは。私の知るファンキーなケンジ、彼のうちにも史男ん家とおんなじ、というかどこのうちにもありがちな母との葛藤があって、つまり、家族の問題。

 史男の本、おもしろかったら大変とてもうれしいです。一言でいえば「青い」のかな。青いぶん、けっこう笑えちゃったりして、そのへんが私自身のめり込んだところでもあります。

投稿者 shachi : 2008年05月19日 23:58

2008年04月30日

駄目な私という快楽

 何か事件でもあったんですか、という問い合わせをいくつか頂戴した。からすのブログ、全然書いてないじゃないですか、なんてね。教え子からもそんな感じのメールをもらったりして、いやはや、何なんだ、おれって。教え子に心配されてやんの。
 事件などない。からす新聞社の編集部兼印刷所の引っ越し先が未確定のままであるがゆえ、紙からすの行く末が案じられておるということはあるにせよ、「からすの今」を書かない理由など全くない。たんに弛んでいただけ。ちょっとさぼっていたら、その深みにどっぷり嵌まってしまった、と。

 何と説明すれば宜しかろうか。
 ああ、また、からすのブログをさぼっちまった、いかん、いかん、などと思う快楽。そういうのわかりますか。わかりませんか。ああ、おれって駄目なやつだなあ、と溜め息をつく、そういう快楽。

 夏休みの前に、生徒たちが一夏の勉強予定表のようなものを作らされている姿を見て、わはは、結構、結構、若人はそれでよろしい。しかも、君らの多くが、実現できずに二学期を迎えるのであろうなあ、わはは、なお結構。そんな失礼な発言をぶりぶりと吐き散らかしていたことを思い出す。いや、本当にそれで良いのですよ。予定表を立て、その通りに全て実行できたら、そりゃ、それは文句なしに立派なことだ。素晴らしい。すごいよ、君は。
 けれども、一所懸命立てた計画があちらこちらで綻び、頓挫し、てんで実現できずに、落ち込んだりするようなことも、それはそれで素晴らしい体験なのだ。そして、その中に失敗する快感というものを感じられたら、ご機嫌だよね。
 そんな話をした場合、失敗したら喜べませんよ、ばかみたい、などという反論を受けるのが常であった。ま、そりゃ人それぞれだし、しょうがないんだけれど、でも、ねえ。

 人生の全てに成功できたら、それは結構なことだ。しかしながら、人というものは、時には……あるいは、頻々と……失敗するものではないか。場合によっては、成功など滅多に訪れず、失敗の往復びんたの百連発なんてことだってあるやもしれぬ。君たちはその時にただがっかりし、ただ落ち込み、ただ嘆き悲しむのか。そりゃご苦労なことだね。
 失敗の中にだって独特の快楽が潜んでいるんだけどなあ。成功の快楽、失敗の中にもまた快楽。どっちに転んでも快楽、快楽。うはうはだ。
 この感覚、わかりませんか。ま、いいんだけど。

 それにしても、さぼりまくっていただけのことはある。今日の文章は無駄に長い上に内容も酷いねえ。やっぱり、おれって駄目だなあ……って、これもまた快楽。

投稿者 zenta : 02:33 | コメント (0) | トラックバック

2008年02月13日

遡るや否や

 何だか気分が乗らねえなあ。ちょっと今日は休んどこう、なんてことで、からすのブログをさぼる。で、そうこうするうちに、締め切りタイトな案件に雁字搦められて身動きできぬまま、うわわわわわぁ、なんて、ばたばたしているうちに、また水曜(昨今の私の担当日ですな)が通り過ぎてしまって。そんな繰り返し。

 ああ、随分長いことからすブログをさぼってしまった。世間のみんなは、最近、野郎、さぼってばかりだなあ、などと、怒っておるのではなかろうか、などと心配になる。こうなったら、世に言う「逆ギレ」かまして、もっともっとさぼりまくってやろうかい、などと阿呆なことを思ってみたり。
 いやいや、冷静に考えれば、それほど楽しみにされていたりするほどのものであるはずはないではないか。きっと、私がさぼっていることに世間では気付いていないに違いない。なので、ついでだから、もう少し休んでやれ、なんて思ってみたり。

 然りながら、微妙に気弱な私は、ああ、私は何と長いこと休んでしまったのだろう。もう取り返しがつかないよ。軍パン少年堀口だったら、死をもって詫びろ、などと追求の叫びをあげるに相違ない局面だろうか。ううむ。
 唸ってばかりでは埒が明かんので、取り敢えず、まずは状況確認ってこてとで、暫く振りに、からすのサイトを開いてみる。何だよ、さぼったのはたったの三回じゃねえか。大したことないなあ。どうってこたぁない。こんなのを気に病むなんざ、俺って小物だなあ。トゥー・リトル、トゥー・リトル。

 さて、問題は、この休んだ三回を遡って埋めるかどうかってことですなあ。どうしたものか。

投稿者 zenta : 19:51 | コメント (3) | トラックバック

いや、前向きで良いのでは。あたしもそうですけどよく遡って書いてますが、書くにしても、書かねばならぬにしても、リアル日付でいいんじゃないかって気が…。読者の皆さんはどうなんでしょ。

投稿者 shachi : 2008年02月15日 23:56

一読者としては、リアル日付のほうがいいです。
遡って書かれたものは、気づかないこともありますから。

投稿者 RINGO : 2008年02月17日 22:03

 私の場合、ブログ読むのには新しくポストされたものは全部拾ってくる、というようなソフトを使っているので、日付がどうなっていても、読めるので気にならない、と言えば気にならない。
 リアル日付 (何だ、この変な日本語は!) で書くとする場合、厳密にはどうするのか、って問題が発生しますよね。取り敢えず、本当にポストした時間で暫くやってみますか? それでどんな混乱が生じるのかどうか。

 それにしても、停滞中のからす新聞のトップも、日付の遡りが面倒だったなあ。編集日程、投稿日程をみんなが守れるのなら、こんな問題にはならんのだが。

投稿者 zenta : 2008年02月17日 23:49

2008年01月16日

雪だるまのように

 寒さが苦手である。暑さは然程苦にしないけれど、寒がりっぷりは相当なもの。その一方で、団体行動が苦手だし、他人様の運転する乗り物は拒否するものだから、移動は自ずと単車からチャリ。あれ、何だか、チャリって響き、懐かしいな。チャリンコ。うーん、これはもっと懐かしい……って、そういう話ではなかった。

 それゆえ、防寒対策は最重要事項の一つなのである。先日のカウントダウン・ライヴの際にも完全防備。これからアラスカに降下する精鋭部隊のような勢いで。若いメンバーには、どんだけ厚着してんですか、と呆れられた。いや、そんな話でもない。

 そんな私が愛用するのは、ダウン・ジャケットであります。もこもことあったかいし、軽いし、大好き。下にはズボンの上からパラシュート・パンツを着用。ダークなカラーゆえ、薄汚れた雪だるまの如き姿。
 然るに、チャックが壊れただの、雑な保存状態のせいで背中にクリーニング屋の袋の柄の通りに焼けが出てしまったり、などなどと、いくつもあったものを次々に捨てていっているうちにダウンは一着しかなくなってしまった。パラシュート・パンツは行方不明になったり、お尻が擦り切れてきたりで全滅の直前。
 これから冬本番というところ、これでは如何にも心細いということで、慌てて買い物に出かけた私でありました。自転車で移動できる範囲ですけれど。

 店の中をうろつき回るが、もっこもっこのダウンがない。どうなっているのだろうか。店員のお兄ちゃんを呼んで、尋ねました。
「ぱんぱんに膨れ上がったダウン・ジャケットが欲しいんだけれど」
「いやぁ、今はないっすね」
 しまった。衣類の業界は既に春物に移行してしまったのか。と思ったけれども、ところが、そういうことではないらしい。「今時、厚手のダウンははやんないんすよ。ライトなやつでも十分あったかいんです。だいじょぶっすよ」などと宣う件の店員くん。羽の配合比率が何たらかんたらで、生地や縫製がどうにかこうにかなせいで、薄手でも昔の厚手のものと同等に暖かいそうな。
 いやや、いやや。私はぱつんぱつんに膨れ上がったダウンを猛烈に欲しているだ、と力説するも、ないものはない、という、ま、至極当然の返答。

 ほんじゃあ、ダウンは諦めるから、パラシュート・パンツを見せてくれ給え、と頼んだところ、「今時パラシュートはないっすよ」と即答する今時の店員くん。「そもそも今じゃ米軍でも使ってないし。アメ横でビンテージでもさがすしかないっしょ」というような今時の返答。
 仕方ないので、代替的な代物を購入してきたけれど、どうにもこうにももこもこ感が不足している。

 私は全身もこもこのもっこもこの薄汚れた達磨状になりたいのに、世間の流行りがそれを許さないのですなあ。ううむ。
 衣類に拘るのは中学一年生ぐらいで卒業したつもりだったが、こんな目に遭うと、反骨魂、あるいは、天の邪鬼魂的なものが、内側からふつふつと沸き上がってきて、こうなったら、お笑い番組で使用されるような、相撲取りの着ぐるみ様のぶくぶくぶーでー風味の全身ダウンウェアでも特注してやろうか、くそったれが、おらおら、などと、意味もなく息巻いてみたり……するほどでもないんだけどさ。でも、やっぱり、ちょっと釈然としないわけで。

投稿者 zenta : 19:56 | コメント (2) | トラックバック

先日、我が家の女どもに連れられて古着屋に行ったら、いくらでも有りましたよ、もっこもこのダウンジャケット。いいトコで大体2000yen位だったかな。
そちらにも有るかどうかは知りませんが、探してみたら如何?
因みに僕は、以前そこで買ったジャンパーがあまりに擦り切れたので新しい古着(?)を探しに行ったんだけど「まあ、これなら」というのが1200円で、半額セール中で600円。更にそのジャンパーのポケットを探ったら100円玉が出てきたので、500円で文句の付けようの無い紳士が出来上がりましたとさ。


投稿者 guffaw : 2008年02月05日 06:26

 結局、かなり雪だるまっぽい、にせのパラシュート・パンツがみつかり、入手しました。
 もこもこのジャケットはみつからないので、そこそこので手をうっておりまする。

投稿者 zenta : 2008年02月15日 20:00

2008年01月09日

九日ですなあ

 ぼーっとしているうちに世間様では正月が終わったようだ。ようだ、ってのも変な話かもしれないけれど。
 例えば、勤めや学校など、区切りが明確なところに所属しているのであれば、明日から仕事だなあ、などということで、正月が終わったということになるのだろう。けれども、私のような無所属のものにとってみれば、そういう限りは存在しない。

 三が日の内から仕事っぽい話を振られることは国内ではまずないものの、海外には二日から、当たり前じゃん、という態度で、やいやい言ってくる相手もいる。こっちは呑むのに忙しいんだよ、邪魔しなさんな、などと思い、面倒くさいなあ、と四日か五日まで放っておく。すると、返事がないので心配したぞ、などと言われたりするわけですよ。そりゃ申し訳ないことをしたなあ、という気持ちも少しは湧くけれど、基本的にはアメリカが世界の中心なのではないのだよ、君ぃ、日本の文化を少しは学びたまえ、こちとら阿佐ヶ谷のうまれよ、呑みねえ、喰いねえ、などと言ってやりたい気がしたりして。

 私のようなふわふわした立場の人間にはわかりやすい区切りがないのだからして、当然、15日までは松の内ってことでかまわんのでしょうね。っていうか、正月というのは、つまりは、月って括りですよね。そんなら、一月いっぱいは正月なわけで、正月なら昼間っからがんがん呑んでいても宜しいわけで……などということを思う。
 その理屈を採用し、じゃあ、早速、一杯やるか、と一升瓶に手をかけるものの、不思議なもので、九日にもなると昼間からってのは……ううむ……などと、ほんの少しだけ後ろめたいような気がしなくもない。こういうのってどうよ、と我が家の猫たちに声をかけてみるが、彼女らはカレンダー的なものに興味はなさそうで、振り向きもしない。さて、どうしたものか。

投稿者 zenta : 19:26 | コメント (0) | トラックバック

2008年01月02日

おいらはドラマー、ではございません

 あけましておめでとうございます。一応、形だけでも。

 何かの曲がふと思い浮かび、それが頭の中でリピートしてしまうってことがあるよね。多くの場合、ワン・フレーズか、せいぜいがサビ一つ分とか、その程度のもので。場合によっては、脳内で鳴り続けるだけでなく、口遊んでいたりして、町中ではっと我に返る、なんてこともありましょう。軽く赤面する場面か。
 何が切っ掛けで始まり、何が切っ掛けで去ってゆくのかはまるでわからんし、選曲の基準ってなものも判然としない。自分で好きだとは思っていない曲や、すっかり忘れていたCMの一節やらが、唐突に憑き物ののように離れなくなるような感じ。

 今年は早々にそのリピートがやってきた。毎度のことながら、思いも寄らない曲ざんす。Stormbringer。Deep Purpleの同名タイトルの11枚目、III期の最後のアルバムの初っ端。そう言えば、あれが初めて買ったイギリス盤だったような気がする。御苑のディスクロードかな。

 今回のリピートが今までと違うのは、短いフレーズではなく、イントロからエンディングまで通しで頭の中で演奏されるってところ。
 イントロのジャジャジャジャ、ジャジャーンと始まり、ワヤーンワヤーンワーという間の手あり、リッチーのギター・ソロの二本分の被りまで出てきて、エンディングのギターのビャッビャッビャッ、ビャッビャッビャッ、ビャッビャッビャッビャーン、ジャジャッ、ってところまでチリのバツ。で、ここまで来たら頭に戻って、また、ジャジャジャジャ、ジャジャーン、って。
 リアルタイムで聴いた音楽だし、それなりの回数は聴き込んだような気がするが、それにしたって丸暗記するほどではないし、ここ四半世紀以上もあのアルバムを聴いた覚えはない。ううむ、記憶とは、脳とは、何とも不思議なものだなあ。

 「Stormbringer」ってタイトルに何かのお告げが含まれているのかもしれん。日本語にすると裕次郎になってしまって、ジャブだ、ボディだ、チンだ、って、それじゃ、ちょいと意味が違ってしまいますなあ。

投稿者 zenta : 23:58 | コメント (0) | トラックバック

2007年12月26日

待合室にて

 暮れも押し迫ったところで、近所のN診療所にお世話になる。いかした駐車場に自転車をとめ、いかしたガラス戸を開けて、いかしたゆるやかなカーヴをそろそろと進むと、そこはいかした待合室。あ、やっぱり、満杯か。今年も一週間も待たずして終わろうとしている。しかしながら、相変わらずの大繁盛。毎度のことではあるけれど、相当に待つ覚悟が必要だ。
 診察券を提出し、さて、この混み具合なら100ページ、いや200ページは読めるんじゃないかと本を取り出したところで、あら、お久し振りね、と声をかけられる。見ると、そこには中学時代の恩師M先生。あ、ご無沙汰しています、と答えたものの、よく考えると、先週か先々週、道端で会ったよなあ。同じ団地に住んでいるもので、それなりの頻度で顔を合わせるのであります。

 長い長い待ち時間に、同窓の輩や恩師のみなみなさんの近況、思い出話を繰り広げることになったわけですな。この診療所は、同級の特派員Gくんが設計したものなのですよ、どうです。あら、そうなの、モダンな建て物になったわねと思っていましたよ、などとね。随分早くに亡くなってしまった理科のH先生、うちの親父と高校で同級だったんですよ。飄々として良い人でしたわね、などとね。音楽の目玉先生は戦後は米軍キャンプを転々としながら、クレイジー・キャッツと同じ板に乗ったりしてピアノを弾いていたそうですね。うふふふふぅ、面白い人でしたものねえ、などとね。

 長い長い待ち時間のことですから、あれやこれや、お互いの持ち根多をフルに披露しても、まだまだ時間はあり、ふぅと一息ついたところ、私はねえ、老老介護で疲れているのよ、とぽつりと漏らされたM先生。
 世情に昏い私でも、その語の存在は知っている。けれども、それを現実として引き寄せられていなかったんだなあ。突然の響きに、言葉に窮してしまった。もっとも、それは、飽くまでも私の手前勝手な反応に過ぎず、当の先生のご様子は、悲しいとか辛いとか、そういう気配なのではなく、そういう日常なんですよ、という日々の報告の一つであるように見受けられたのだけれど。だが、それだって、私の手前勝手な推測に過ぎないことは自明なわけで。

 今年も間もなく終わる。

投稿者 zenta : 18:48 | コメント (0) | トラックバック

2007年12月19日

師走ってものはだね

 何だかんだと忙しない年の暮れ。まあ、そういうものだと言ってしまえば、それまでのことだが。

 例年との最も大きな違いは、やはり、カウントダウン・ライヴというもの。寒がりで出不精な私のこと、何がどうしたという具体的なものはなくとも空恐ろしい感じがしますなあ。しかも、それは、その当日のみの問題ではないのでありますよ。くそ寒いですから練習減らしましょう、などと私が申し上げても、他のみなさんは熱心なので、その日に向けて何度となくリハスタに入る訳です。
 んで、スタジオの中で呑み、終わってからも呑み、呑み終わってからも更に別の店で呑み……って、何しろ、元が呑み屋を母体とするバンドであるだけに、止め処なくがぶりがぶりと続ける人々ばかりなのであります。結果として、明け方に相当のぼろぼろおんぼろになって帰宅するという、ああ、何をやっているのやら。

 そんなことだから、風邪が抜けず、中途半端な体力、中途半端な気力、中途半端な想像力、中途半端な妄想、中途半端な現実、何もかもが半端半端。半端半端。
 半端野郎が微熱と微宿酔でぼんやりしているわけだからして、雑事もちっとも捗らず、結句、ますます自らを追い込む羽目になる。

 まあ、でも、年の瀬ってこんな風にもやもやしているうちに終わっちまうものだよな、などと、心のどこかで考えている私がおるのも事実。何なんでしょうね。

投稿者 zenta : 23:38 | コメント (0) | トラックバック

2007年12月12日

予約の有りや無しや

 お焦げっておいしいよね、という人をよく見かけるけれども、私はさほど関心はない。我が家では土鍋や釜で炊くので、そんなものは珍しいというほどのものではないせいかもしれない。昨日の豆ごはんもちょっと焦げました。
 その、人々の好むところである焦げた部分が災いしたのですよ。微妙に粘度の高い焦げ飯に抱き込まれるようにして、右奥歯の銀の詰め物がぽかっと取れた。ああ、歯医者へ行かねばならんのか、と嘆息。うはぁ。
 付き合いの古い人は知っていることだが、私は嘗て「歯茎の周辺が全治一ヶ月の重傷」と医者に言わしめた痛手を被ったことがあるのである。それ以来、鬼門と化している……って、こりゃ些か大袈裟な物謂いに過ぎますがね。まあ、だが、しかし、あの時の痛さ、口も聞けず、固形物を食せぬ不自由、などなどのあれこれを思い出すと、うわぁ、鳥肌が立つ。
 まあ、でも、取れた銀歯を詰め直すだけのことだから、大事件になる筈はないよな、などと独り言つ。しかしながら、件の重傷事件の際だって、ちょっと虫歯を治すだけのつもりで出かけて行ったのに、帰路では口から止め処なく血が流れ続け、そこにはガーゼを押し込んだのみ、痛み止めをがんがん服むしか対処法はない、などという状態に陥ってしまったのだ。今度だって、侮っていたら大変なことにならないとも限らない。ううむ。ああ、何だか、お腹が痛くなってきた。
 家内によれば、人気のない薄ら暗いような医者に飛び込むからそんな目に遭うのであり、ある意味では自業自得ではないか、ということになる。御説御尤も。今時、予約制じゃない歯医者さんなんて信じられない、と言う。まあ、そうなのかもしれないけれど、私は、その隙間を縫うようにして、予約制ではない、待合室に人の少ない、歯医者に飛び込むのである。それは何故かというと、何時にどこへ、というような約束事が大きに苦手だからである。極力、人との待ち合わせなどせぬようにして生きているのに、何が悲しゅうて、歯医者に時間拘束されねばならんのだろうか。がりがりと口腔内を突つき削られ痛い思いをするのに、それに向けて約束などせねばならぬとは、何とも理不尽極まりなく思われますまいか。世間の皆様に置かれましては、そこんとこどうなのよ、と裕梨の口調で尋ねてみたい。どうなのよ?

 で、本日私はどうしたかと言うと、予約などせず、取り敢えず、旧ゲタ事務所の横を抜けて、青梅街道にでも向かってみますか、という、実にゆったりとした態度で自転車を漕ぎ出したのであります。午前11時。寒風の中ふらふらと進むと、おお、小洒落たデンタル・クリニックなるものが新しくできているではないか。
 頼もう、頼もう、と道場破り的な勢いで乗り込むと、あいや待たれい、と受付嬢に止められ、予約の有りや無しやを問われる。拙者、通り縋った武者修行中の身の上、まずは先生にお取り次ぎ願いたい、と申し入れるも、予約なき者ここを通ること罷りならんと通せん坊。可愛い顔して意地悪なおねえちゃんだなあ。しかしながら、こんなところで揉めても仕方がないので、今、予約すれば午後にはお目通り叶うのか、と尋ねたところ、何たることか、最短でクリスマス、25日になりますね、とにこやかに返される。おほほほほ、十日以上も先の話ではありませんか。阿呆か。
 では、出直して参ることにいたします、縁がありますればまたいつか。さらばじゃ。

 そんなこんなで、寒風吹き荒ぶ中、ふらふらと自転車紀行は続くのでありました。
 奥歯から零れ落ちた銀歯がポケットの中でかさこそと音を立てる。世知辛い世の中よのぉ。

投稿者 zenta : 23:06 | コメント (0) | トラックバック

2007年12月05日

ドンタッドーンタッドッドタンドーン

 大晦日をどのように過ごすかというのは、それは人それぞれでありましょう。当たり前だ。家庭でへれへれしながらテレビを見たり、蕎麦を喰ったりして過ごす。ま、これが日本での基本線でしょうか。
 私の場合、カッパギF. C. という名門フットボール・チームに所属しておるのであるけれど、そこの所属メンバーで晦日から元旦にかけて果てしなく麻雀をし続けるという時代も十年だか二十年だかはありましたなあ。で、合間には高円寺界隈の呑み屋に挨拶して回ったりして。寒いのに。

 近年は家族と猫と、家で何ということもなく過ごすというのが定番化しつつあったけれど、昨年は、ライヴをやっている呑み屋に呼び出され……寒いのに……客で行ったはずなのに、ギター弾かされたりして、妙な年の瀬、妙な年明けとなりました。

 今年はどうかというと、件の呑み屋のカウントダウン・ライヴとかいうものの、零時跨ぎの時間に出演が決まっている。寒いのに。
 『だよ〜んず』という呑み屋系バンドの十年振りの再生。復活祝い、正月祝いやさかいに、陽気なモータウン・ビート("You Can't Hurry Love"もの)のめでたい新曲を書きなはれ、という指令が下る。でまあ、やってみておりますよ。

Ah めでたいよね
Ooh めでたいよね
Oh めでたいよね

なんて歌詞を書いてみたりして。おめでたいのは俺のおつむか、おまえのおつむか、おほほほほ、などと呟きつつ……寒いのに。

投稿者 zenta : 15:15 | コメント (0) | トラックバック

2007年11月28日

&#8722

 「これってお宅で合ってますよね」と、顔馴染みの宅急便配達のおじさんがやってきた。差し出された荷物を見ると、タワー・レコードからのもので私宛てになっている。そう言えば、何日か前に、カツヒロシ絶賛お薦めのポルナレフの5枚組ベストを注文したんだったなあ、と思い出す。
 「ああ、うちです、うちです」
 「いやあ、変な住所になっているから、ちょっとだけ悩んだよ」と彼が指し示したところを見ると、番地の部分の数字の間の、本来ハイフンがあるべき場所が全て「&#8722」に化けてしまっている妙なラベル。「4&#87223&#8722……」ってな具合にぐしゃぐしゃと。何じゃこりゃ。
 「ここんちは毎日のルート配送みたいなもんだからさ、わかったけどね。じゃあ、判子、お願いします」

 ゆるやかな引き籠もり生活を送るためには、必然的に郵便や宅急便に大きに依存せざるを得ぬわけで、ま、その結果、配達関係の人々とは顔馴染む率が非常に高い。外……と言っても、近所だけどさ……で出会っても挨拶を交わすような仲になっている。加えて、この「全太」って名まえがね、住所特定のためには良かったんでしょうな。これが仮に「信夫」や「勇治」ってなものだったりしたら、ちゃんと届いたかどうか怪しいものである。

 タワー・レコードの伝票作成ソフトが壊れているのか、データを整理したおねえちゃんがハイフンを入れるべきところに全角マイナスを打ってしまったのか。兎にも角にも、いくら待っても注文していたCDが届かねえじゃねえかよ、こんにゃろめ、うぎゃぎゃぁ、と叫んでいる人が全国にはいくらもいるのではなかろうか、と心配になる。
 予約して心待ちにしている新譜がちっとも届かず、そのくせ、友だちからは、今度のアルバム聴いたか、まじくそかっこいいぞ、うしししし、なんて電話が入ってきたりしたら、そして、それが中学生の頃だったら、鼻血が出るほど悔しかっただろうなあ。今は……それぐらいじゃ鼻血は出ない。それは良いことなのか、悪いことなのか。

投稿者 zenta : 02:42 | コメント (0) | トラックバック

2007年11月21日

風邪抜けず

 ずるずるずるずるとなかなか風邪が抜けず、すっきりしない。ちょっと微妙に頭の中ももやもやするわけで、そうすると創作活動なんかももやもやするような、演奏なんかももやもやするような、カレーを作ってみても、ばか話をしてみても、何だかみんな微妙にもやもやするような。

 先月、知り合ってから30年に垂んとする古い友人の個展を覗いた。作風が著しく変化していることに驚嘆する。良い意味での裏切りだ。こんなに大きく変わったのは初めてではないかと思う。近頃、彼があれこれのややこしい病で体調を崩していたことを知っていた私は、体調の変化が作風の変化となって表れたのだなあ、うむうむ、などと勝手に思い込む。

 遡ってみれば、私が単車の事故で頭に罅を入れてしまった時にも、作風の変化は生じたのであった。その直前までは、パンク/ニュー・ウェイヴの中でもアヴァンギャルドに寄った側にいたのだが、漸く退院して娑婆の空気を吸えるようになってからかなりの間は、猛烈にポップな方向に傾いてしまい、過激な音楽は、書いたり演奏したりという以前に、聴く気さえしなくなっていた。様々な音楽をあれこれぐずぐずするようになってから30年以上にもなる。その時々であっちこっちに揺れながら、曲折し続けているわけだけれど、あれほど劇的に嗜好が変わったことは、ない。断言。

 そんなわけで、風邪でずるずるもやもやな場合、ずるずるなりにもやもやなりに曲や文章を書けば、それが自然な私の今なのですよ、ほら。そんなことを嘯いてみるが……。

投稿者 zenta : 00:44 | コメント (2) | トラックバック

「最近イギリスの若者の間ではパンクロックという音楽が流行しており、中でも『性手槍』という楽隊が人気だという。パンクロックなる音楽がどんなものかは知らないが、楽隊名からみてロクなものではないだろう」とは30年ほど前の、中国は『人民日報』の記事ですが、近頃では日中の違いこそあれ『赤旗・日曜版』に「ニルヴァーナ」だの「フー・ファイターズ」だのの活字が躍っております。ディランじゃないけど確かに時代は変っているのかもしれまへんな。

因みに勤労留学生の戴君に「性手槍」の意味を尋ねたら「おお、オチ*チ*」と嬉しそうに教えてくれました。

投稿者 guffaw : 2007年11月28日 03:31

韓国のパンクバンドがやたらとかっちょいいっス。

GUKDO

サビの部分が「気合いだーっ」と聴こえます。空耳?

投稿者 flint : 2007年11月28日 23:08

2007年11月14日

花見の終わる頃

 玄関脇の小庭と言えば、畳が一枚か二枚って程度の広さ、いや、狭さである。しかしながら、さる六月、泥酔の力に押されてクリック、クリック。そんないい加減なことで、気がつけば千二百坪余りの土地を持つ地主様となった私である。然れども、今年はそれを何に活かすことのなきうちに終わってしまいそうである。
 まずは、現場を見ないことには話が始まらないよなあ。当たり前だ。先日は、発起したはいいものの、寝惚けたまま飛び出したがために訳のわからぬ道行きとなり、目的地に辿り着ける筈もなく、空手で帰路につく破目に陥った。
 今回は、心を入れ替えて、ちゃんと土地の場所を確認してから、エンジンをかけ……って、今時、随分冷え込んできておりますからね、相当にキックにキックを重ねねばかからんのだろうなあ、嫌だなあ、と今から腰が引けている。何たる根性なし。

 兎にも角にも権利書を確認してみよう……って、あっ……あはっ……やっぱ、そんなことだよね、安かったもんなあ、そうそう近場に土地なんか買えっこないよ。子どもにだってわかりましょう。はは、予想通りですよ。驚くこたぁない。ない、ない。
 判明したことは、単車で出かける必要性はない、というか、単車では辿り着きようがないということ。じゃあ、電車を乗り継ぐのかというと、そんなことでもない。道路や線路があるような地所を小学生の小遣い銭みたいな金額で買える道理がない。では、船? 船で行くのかい? ま、広げて言えば、船なんだけどさ。燃料やらあれやこれやが微妙に違う船でね。NASAとかが作っているやつ。宇宙船ってやつが必要なようである。あはは。

 火星か。遠いなあ。気軽に出かけて、二、三泊して帰ってくるという距離ではない。少なくとも数年は住むような心意気でなくては難しかろう。人気もなくて寂しいところなんだろうなあ。人混みは嫌いな私だけれども、誰もいないってのも何ですなあ。ご近所付き合いもなくなってしまうのか。今日はカレー作りますけど、どうですか、なんて会話もなくなるのでしょう。
 旅は道連れなんて言葉もある。誰か、火星に土地を持っている人がいないものだろうか、とインターネットを検索してみたら、いましたよ。奇遇にも私と同じ杉並に住まっていらっしゃる美しいお嬢さん。その鳥居さんという女性は、中野から杉並に越してきて間もないようだけれど、事情があって、ここを離れたいので火星に土地を買ったと仰っているようである。仲間をひとり(一方的にとはいえ)発見しただけで、少しく元気の出てくるところが、戯けものの典型だよなあと自分でも思う。でも、率直に、嬉しい。

 家内と猫二匹を引き連れ、ご近所であるらしい鳥居嬢を誘い、赤茶けた星へ転居しようかなあ。年内というのではあまりに忙しいので、いつ頃にしますかねえ。地球での最後の花見を終えて、五月頃ではどうだろう。

投稿者 zenta : 14:36 | コメント (1) | トラックバック

現在、Z様ご購入の分譲地は早朝4時ごろ東の空にて御覧になれますが、そのやや右上に凄まじい光を放っているのが、皆様おなじみの土星でございます。
火星から区間準急で二駅という好条件、木星よりさらに格安のお値段で輪ッか付き。
小社と致しましては、こちらも併せてのご購入をお勧め申し上げる次第です。

          太陽系不動産 外惑星部

投稿者 guffaw : 2007年11月20日 03:02

2007年11月07日

カード、止められました。の続き

(前号までのあらすじ)
クレジット・カードを止められてしまったゆるやかな引き籠もり全太。カード会社に問い合わせるも、担当部署は激烈に混み合っているということで、先方からの電話を待つことに……。

 電話を切って、待つことさらに十分ほどかな。他のことを始めて、カードのことなど忘れかけていたところで、電話が鳴る。緊張気味の男性の声で、いきなり平謝りの連続。どういうことかというと、カード情報を含む私の個人情報が流出してしまった、という連絡が丸善からあったそうなのだ。で、慌てて、カードを停止させていただきました、とのこと。本人(私)に連絡なくカードを止めるなんてことがありえるのか、と問うと、あってはいけないことで本当に申し訳ありません、という平謝りの連続に戻る。で、平謝りの合間に、本日、速達でカード番号変更の申し込み用紙を送る(「送った」ではない)のでそれに署名捺印して送り返せ、と言う。そうしたら、一週間から十日程度で新しいカードを送ります、とな。その間、私はどないしたらええのん、と尋ねると、当社のカードは使えません、というわかりやすい回答。お宅のカードから自動引き落としになっているものもいっぱいあるんだけれど、そういうのはどうなるの、と尋ねると、お客様の方で、個別にお取引先の各社様に御連絡下さい、だって。ISPや電話やらレンタル・サーヴァやら、十件近くあるんだけどね。やってられんよ。
 一応、合間合間には、誠に申し訳ありません、という言葉が挟まれてはいるのだけれど、だんだん耳も麻痺してきて、心が籠もっているようには全く感じられない。先方の心だって麻痺して、ただ呪文のように繰り返しているだけに違いない。
 ちなみに、この連絡もないままにカードを停止する乱暴な会社は楽天カードというところ。ソフトバンクとか楽天とかUSENとかライブドアとか、そんなのを使っているから、痛い目に遭うんですよ。あなたは阿呆ですか……とK川が嬉しそうに言う姿が思い浮かぶ。あーあ。

 壊れた機械のように「申し訳ありません」をループする彼に、これって私だけですか、と尋ねると、丸善さんからカード情報までが漏洩してしまったのは十数万件(!)ですので他にもたくさんいらっしゃいます、というようなことをもごもごと呟くように教えてくれる。考えてみりゃ、カード会社も被害者の一部であるような構図なわけで、謝り続ける彼に少しは同情したくもなるけれど、だからと言って、本人に連絡せぬまま止めるなんざ、酷いよね。
 仮に、私が海外旅行中だったらどうなってしまっただろう。パリの街角で現金がなくなり、カードは止められてしまった。二進も三進もいかなくなり、気がつけば、裏通りで物乞いをする破目に。右や左の旦那様、とやっているところに、粗暴な白ギャルソン群が通りかかり、この腐れアジア人が臭えんだよ、なんて蹴られたりして、あひぃあひぃ、やめてください。嗚呼、神よ、私が何をしたと言うのでしょう、と天を怨む身の上に陥ることだって、ありえなくはない。
 あるいは、ホテルの最上階でマンハッタンなぞを傾けての顧客接待の場面。カードで支払う心積もりで何杯も何杯も、つまり財布の中身の何倍も呑んでしまっていたりしたら、どうなるのだろうか。泥酔するのは確実だが、それだけではない。いやいや、今日は私にご馳走させて下さい、なんてんで、カードを差し出すと、向こう側で蝶ネクタイが少しばたばたした挙げ句、お客様、大変申し訳ないのですが、このカードは使用不可になっておりますので、現金か他のカードでのお支払いをお願いします……なんてことになったりして、折角の酔いも醒めますよ。
 いやあ、ゆるやかな引き籠もりで本当に良かった。おかげで出先でのトラブルに巻き込まれずに済みました。それにしたって、インクを注文した文房具屋さんに、あの全太ってやつ、カード止められてやんの、うひゃひゃひゃひゃ、などと笑いものになっているかもしれないわけで、少しく名誉が傷つけられている可能性は否定できない。ま、いいんだけど。

 とにもかくにも、丸善からは何の謝罪もない。念の為に、ホームページを確認してみたら、クロールに残さないための対策なのか、PDFの書類がちっちゃく用意されているばかり。それをダウンロードして読んでみると、データベース管理を外注した先のNTTコミュニケーションズが悪いんだよ、と暗に言い訳しているようにも読み取れるような文章。丸善よ、本当に地に落ちたな。こういうのを隠蔽体質、責任逃れ、と言うのではないのかね。
 私が丸善の経営者だったら、何万年かかっても、お客様一人一人へのお詫びの行脚に出ますよ……ってのはさすがに無理だろうから、せめて、丸善とNTTコミュニケーションズの連名で詫び状を出すぐらいのことはするね。ウェブ上のちっちぇえPDFで謝ったつもりなんて、客をばかにするにもほどがある。真当な詫びがあるまで、丸善からは何も買わない、と決心しておる私です。まじです。

投稿者 zenta : 01:02 | コメント (4) | トラックバック

カードなんか持った事もないから、Z君のトラブルのいきさつが、もうひとつよく分からんが、「アンナ・カレー二ナ」ばりの大作での苦情から見て、どうも丸善が生意気らしい。(違ったらゴメン)
かくなる上は日本の青春芸術派の伝統に則り、今回私めが丸善の本棚に檸檬型のバク*ンを...。

投稿者 guffaw : 2007年11月08日 08:44

K川です。

zentaさん、それは災難でしたね。
ともあれ、勝手にお金を使われたとかの面倒な事件に巻き込まなかったのは幸いでしたね。

とは言え、ふふ、楽天カードですか。
だから言ったじゃないですか、ソフトバンクとか楽天とかUSENとかライブドアなんて、クズの集まりですよ。本当にアホばっかり。即、逝ってよし。

Vodafoneからソフトバンクモバイルに変わっても、そのままつい使い続けてしまう、その優しさが仇になりましたね。私がもしVodafoneユーザーであったならば、即auに乗り換えているところです。
次は、ソフトバンクモバイルで、zentaさんを激怒させるような事態が必ずや起きることでしょう。

そう言えば、先日のソフトバンクモバイル事件ですが、ゲイツ君でも取り上げてくれました(2007.09/25番外編)。それから、某ジャーナリストにも情報を流したのですが、そこでも取り上げてくれました。
やはり、IT成金の親玉とも言えるソフトバンクには、多くの人々が不信感を抱いているようです。

投稿者 K川 : 2007年11月08日 21:18

とんだ災難でしたね。カード会社もいきなり停めて連絡なしとは・・・クレジットー=信用じゃぁねえんですかいな?
>仮に、私が海外旅行中だったらどうなってしまっただろう。
家人の友人はカードも取得せず、インド方面へ旅行に行って、有り金を遣い果たし、現地でバイトをして帰国したらしいですよ。

投稿者 flint : 2007年11月10日 04:01

 そう言えば、私の友だちにも強制送還で返ってこさせられた人物がいたのを思い出した。

投稿者 zenta : 2007年11月12日 12:47

2007年10月31日

カード、止められました。

 私はゆるやかな引き籠もりなどと自称しております。単に出不精というベースの上に、汚れた世間のストレスの波が押し寄せて、ああ、嫌な世の中だ、外になんか出たくないやい、というような思いが重なり、押し入れの中に閉じ籠もり……って言い張ろうと思ったけれど、私の部屋には押し入れはなく、やっぱり単に出不精なだけか。

 ネットワークの進んだ現在では、家から出なくとも、用事の大半が済ませられるのはありがたいことでありますな。その場合、必要になるのが、クレジット・カードというもの。ネットでのカード払いっておっかないんでしょ、などと言われることがあるけれど、まあ、カードで支払う場合、ネットだろうが実体のある店舗だろうが大なり小なり危険であることに大差はないと思う。

 孰れにせよ、私の買い物の過半はネット・ショッピングで。支払いはカードで。

 先日も、知人にプレゼントするために萬年筆のインクなんぞを注文したのでありますよ。作業は手慣れたもので、すいすいすすいってなもん。あっという間である。これで一週間もすればモノが届くだろう。
 ところが、翌朝、件の店舗からメールが届いた。貴殿の入力したカードは使用不可なので、振り込みか代引きにするかどうにかしろよ、というような内容。はてな。へえ、俺って、カード止められてんのか。そりゃすごいなあ。何か不思議だなあ。誰かに自慢したいなあ。などと、えへらえへらしていたのだが、よく考えれば、笑っている場合ではない。
 カード会社に電話して、「あんたのカード止められとるで」的なことを言われたんですけれどどういうことでしょうか、と問い合わせる。最初に出た女の人は極めて丁寧な応対ではあるものの、心なしか、あんた、そりゃ、あんたが貧乏やからにきまっとるやないけ、というようなニュアンスを、口調の端っこから感じられなくもない……って、そりゃ被害妄想かもしらんけれど。
 番号や生年月日などを伝え、担当部署にお繋ぎするので少々お待ち下さい、と宙ぶらりん。間の抜けた音楽を聞かされ続けること数分。ぼうっと受話器を持って待っているのって、阿呆っぽいし、手が疲れるますなあ、などと思いつつ、余った片手で鼻毛を抜いて、いててっ、などとやったりしながら、なおも待つ。十分近く経過したところで、先のお嬢さんが出て、すみません、該当部署が大変混み合っておりますので、こちらから連絡させていただきます、と仰る。こういう不毛な待ちぼうけも「骨折り損の草臥れ儲け」と言うべきかどうか。
 カードが止められたからって何がどうなるというのか。リアリティがなく、よくわからぬ私であります。
(まだまだ話が続くので、次週へ)

投稿者 zenta : 16:47 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月24日

今時の広辞苑

 来春早々、広辞苑の新版が出るそうだ。111の一並びでめでたい、というか、おめでたい発売日。現代語をたくさん収録するってなことを嬉しそうに売り口上の一つにしているけれど、私のような古びた頭の持ち主にしてみれば、どこへ行くつもりなんだ、広辞苑よ、と、些か嘆きの気分。「いけ面」「さくっと」「クレーマー」「メル友」「IP電話」なんてなものが新収録語の見本の中にあるけど、どうよ? この「どうよ?」なんてのまで採録されていたりして……って、笑えないなあ。こんな路線で行くのなら、今後の広辞苑はてんで買う気がしない。
 今朝の朝日に、編者の言葉として、現代語を多く採用するのは高齢者の方から若者言葉わからないというようなご意見を頂戴しまして……的なことが書かれていたような気がするけれど、そんなことは新語辞典に任せるべきことでありましょう。広辞苑に載せることはない。百歩譲って、新語は分冊にするってなことなら、まだ許せるかな。いや、いかん、いかん。

 近頃、NHKや岩波が若者文化や流行りものに迎合しようとする傾向が極端に強いように見受けられるが、そういうの、嫌なんだよね。若年層には、つまんねえんだよ、とか、抹香臭えんだよ(勿論、連中が「抹香臭い」などという表現をする筈はないが)、と敬遠されるような、古臭い、硬派な路線を突っ走ってもらいたいのである。そう思うのは私だけだろうか。
 どうせNHKが作る娯楽番組や岩波が作る若向け書籍なんざ、中途半端で面白いわけがない。なので、狙っている若者たちにも素通りされ、古くからの御贔屓筋にはそっぽを向かれ、かえって、じわじわと首が絞まっていくのではないかと御忠告申し上げたいね。
 君ら、進むべき道を完全に間違えとるよ。

投稿者 zenta : 10:06 | コメント (3) | トラックバック

そーだそーだ、まったくだ。
と、思って調べたら、案外そーでもないみたい。

Q.次の言葉のうち広辞苑・初版に採用されたものはどれか?

「アプレゲール」「アルバイト」「PR」「パチンコ」「ブギウギ」「ナイター」「ワンマン」「斜陽族」「鉄のカーテン」「社用族」「闇市」「特需」「てんやわんや」「輪タク」「ノルマ」「八頭身」「裏口営業」「老いらくの恋」

A.全部

『プロジェクトX・広辞苑篇』によれば、編集に二十年掛けたこの辞書のコンセプト自体が「百科事典と国語辞典の要素を兼ね備えた辞書」だったんだけど、間に戦争が入った上に、戦後洪水みたいに新語、外来語、和製英語、流行語、が出てきたので新たにそれらを「2万語採用」を目標に収集し取捨選択したんだって。つまり最初ッから「新語・現代語辞典」の要素も積極的に入れようとしてた訳ね。上記の言葉も戦後のケーハクな新語だけど結構いまも使うもんね。
ついでに言えば「あじゃぱー」「さいざんす」は泡沫語と見て不採用だったと。
新村先生はそれより戦後の漢字制限と旧仮名遣い廃止に大反対だった、というもっともな話。
OEDクラスの日本語辞典編纂を念願とされた先生にとって広辞苑ではとてものこと「夢いまだし」の思いだったでしょうが、編纂の経過を読むとそぞろ涙ぐましくなってしまいます。

「辞書は一部の人の役に立つだけのものでなく、最多数のいろいろの目的を持つ人に役立つものであって痒い所に手が届くようにありたいのである」
                    新村出

「ナイター」を見つつ先人の偉を思う
                    一笑庵   

投稿者 guffaw : 2007年10月29日 06:46

 確かに、広辞苑の初版はそうだったのだろうし、そのことに意味があったと思うんですよ。
 しかしながら、その後、おれたちは硬派だぜ、日本語の見本だよ、みたいな態度を漲らせてきたわけじゃないですか、広辞苑って。
 で、それに対抗して、大辞林や何やかやが百科的なものや新語で殴り込みをかけてきた。
 その結果、広辞苑は「うちはお堅いのが売りですから」的な空気を漂わせ、ユーザたる私たちも、堅苦しいけれど、日本語のひとつの基準にはなっているんだよね、などと思い込んできたわけで。
 いまさら、新語がんがん入れてますよ、なんて宣伝文句は、片腹痛いし、そこで勝負したら、他社に勝つ見込みはないんじゃないかなあ、と。

投稿者 zenta : 2007年11月05日 18:06

まったく同感ですな。
新村父子亡き後はね、どうしてもね。なにやらジョンの音源を好き放題やってるヨーコみたい。
いずれにせよ、僕は一生かかって第二版を使い込むことにしませう。

投稿者 guffaw : 2007年11月07日 18:12

2007年10月17日

ザ・ラスト・アシタバン

 明日葉生まれ明日葉育ちのキアゲハの幼虫たち、生粋のアシタバンズ。その食欲は旺盛でがんがんががんと喰い進む。秋休み気味だった葉が、その刺激でやる気が出たのか、負けてたまるかとどんどん育ち始めた。世の中、うまいことできておりますなあ。むぐむぐむぐむぐと齧られまくり、一つの枝が茎だけを残した棒状になる頃には、あちこちから新芽が出て、全体的には喰われた量よりも明らかに大きく育っている。しかも、若い葉は彩りも瑞々しく、見るからに活気に溢れ、おお、何だか気分いいぜ。わはははは。
 しかしながら、何事にも終わりはあるのであります。アシタバンズは、十分にでかくなると、一匹、また、一匹とどこかへ消えてゆく。貪欲烏に啄ばまれたのではなく、蛹化を前に、安心して冬を越せる場所を求めて旅立っていったのだと思う。そうじゃなきゃ嫌だよ。

 金曜の朝、まるまると膨らんだラスト・アシタバンが、頭部を下にして、顔をあちこちに巡らしているのを発見。最初は、寒さに弱って落ちそうになっているのかと思ったけれど、考えてみるに、ああ、おいらもいよいよ旅に出る頃合いだ、さて、北へ進むか南へ行くか、はたまた未開の西を目指すか、と案じていたのではないか。だとすると、こまめに観察しておれば、遂に地面を移動する姿、及び、その目的地を確かめることができそうだ。うひうひうひ、なんて、阿呆っぽい笑いを浮かべて喜んだ私です。ま、でも、連中の足てぇものは数ばかりは多いけれども、相当にのろそうだからね、このままずっと見張っている必要はなかろうぞ。小一時間おきにでも覗けばいいやね。

 その日、午後からどうしても外せない打ち合わせがあり、外出に不慣れな私はばたばたばたばたばたんばたんと、猛烈にどたばたしていたのであります。しかも、夕方にはまた別の用事もあるもんで、スムーズに進行せねば収拾がつかなくなる。忘れ物などないように。ハンカチは持ちましたか。爪は切りましたか。お菓子は200円まで。バナナやミカンはお菓子には入りません。などということをやっておるうちに、すっかり忘れてしまい、小一時間どころか、二時間以上が経過していた。うがぁー、と叫んで、慌てて、表に飛び出し、しかしながら、万が一、キアゲハの幼虫がのろくさ歩いておるのを踏みつぶしては大変なので、表に出てからは、慎重にあちこちに目を配りながら、明日葉を眺める。いない。周囲を眺める。いない。捜索範囲を広げて、あちらこちらを探すけれども、やはりみつからない。しまった。しまったなあ。

投稿者 zenta : 18:20 | コメント (0) | トラックバック

2007年10月10日

キアゲハ・ベイビーズ、ザ・ニューボーン

 明日葉に移動したキアゲハの幼虫たちは、食べ物が尽きることがなくなり、がんがん育っていった。そろそろ蛹になる頃合いですなあ、と思っていると、次の朝にはいなくなる。この時期に蛹化するものは、当然、そのまま越冬することになるだろうから、頑丈で、しかも、外敵からの攻撃を受けにくいような場所を探して移動したのだろう、と思っている。想像と願望。いや、きっとそうだ。随分とでかくなって、そろそろだな、というところでいなくなるのだから。
 カアカア烏がいくら賢いといっても、蛹になる直前というほどに大きく育つまで食するのを待ち、さあて、そろそろよろしかろう、と呟いてパクリといく。そんなことがあるだろうか。ううむ。ないとは言い切れない。あるかもなあ。連中はなかなかの知能を秘めておりますからな。
 わりと間近いところで訴えるようにアーアー鳴いておる奴を見つめていると、もしかして、どこぞの王子が魔女に呪いをかけられて烏に変身させられてしまっているのではないだろうか。助けてくれたまえ、我が呪いが解けた暁には、貴公に領地を少しく与えてくれようぞ、と訴えかけている……なんてなことは思いませんが、しかし、それでも、何か人間的なものをアピールしているように思えることは、ある。ふむ。

 明日葉移動組の二匹が十分な大きさになっていなくなった。どこか安全な場所で蛹になってくれているといいな、と思う。さてさて、これで、今年の幼虫騒ぎもおしまいだな、と、安心したような、それでいて、何だかちょっと寂しいような気がしなくもない。いや、気がしなくもなかった。
 その翌朝。うひゃひゃひゃ、何たることか、新しくちっこいキアゲハ・ベイビーズが明日葉の上をうろちょろしているではありませんか。いやぁ、10月だってのに、また産卵ですか。マザー・キアゲハも頑張るなあ。
 もしかして、今度のベイビーズは、ここの明日葉出身のキアゲハの子どもたちなのではないだろうか。羽化までの最短の日数ってどれほどなのかな。わからない。

 孰れにしても、今度のベイビーズは明日葉生まれ明日葉育ちの、根っからの明日葉っ子である。彼らにとっての食草と言えば、当然、第一に明日葉ってことになるのだろう。そろそろ止めようかな、と思っていた、このタフな草を来シーズンも育てなければならんのぉ、という気になりますな。
 我が家のガーデン的なものの本来は、自分たちが食べるようにと思って始めたものなのに、キアゲハのために育て続けるってのも、何だか微妙な感じではあるけれど、ま、しょうがない、しょうがない。これも一つの巡り合わせでございましょう。

投稿者 zenta : 00:36 | コメント (4) | トラックバック

何で読んだか忘れたけど、蛾とか蝶って蛹の中で一度ドロドロに液化するんだってね。
目玉とナントカ?以外は一旦溶けてその上で成虫の格好に変身して出てくるんだそうなが、あたしゃテッキリ蝉みたいに脱皮するだけだとばかり思ってたからビックリしました。あたし以外の人には常識なのかも知れないけど、ともかく自然の偉大さ、不可思議さを感じた次第。
それにしても「モスラの繭」さ。成虫になってたからよかったけど、液化の途中で原子熱線砲を当てられてたら芝一帯、エライことになってたなあー。
いや、よかった、よかった。

投稿者 guffaw : 2007年10月11日 04:26

 蝶や蛾に限らず、クワガタやカブト、蜂や蝿なんかも、同じく完全変態ですよ。
 いわゆる芋虫から蝶への変身もすごいけれど、クワガタの変わりようも強烈ですよね。小さい頃、ものすごく不思議に感じた。まさに驚異。

 考えてみりゃ、人間だって精子と卵子から始まって、こんな戯言を撒き散らすような存在に辿り着くわけで、これはこれで十分に自然の神秘ですけれどね。

投稿者 zenta : 2007年10月11日 09:36

甲虫類も?
と思い検索して納得。
ヘラクレスオオカブトなんか凄いね。
あれ福島の山ん中で捕まえたよ。あんなの日本に居ていいのかなあ。

投稿者 guffaw : 2007年10月13日 04:35

 ヘラクレスオオカブトが福島の山ん中にいてはいかんですよねえ。生態系が壊れること必定です。
 この場合、捨てたのではなく、逃げられたってことなんだろうけれど、どっちにしても困ったもんです。

 小笠原のグリーン・アノールなんかもとんでもないらしいですよ。

投稿者 zenta : 2007年10月23日 18:41

2007年10月03日

キアゲハのロング・ウォーク

 我が家のパセリにキアゲハの幼虫軍団が到来したのは七月のこと。こうなっちゃしょうがねえ、ってんで、彼ら(あるいは、彼女ら)の気が済むまで喰ってもらった。その後、無事に蛹になれたのかどうかというのはわからない。パセリの枝で蛹化するようなあほなものはおらんのであるからして。どこかで無事に立派な蝶となっていてくれることを祈るけれども、自然界はそうそう甘くはないわけで、外敵や悪条件によって命数尽き、羽開くことなく終わってしまったものたちも少なくないだろうな、と思われる。ああ。
 連中の食欲はものすごい。結局、丸坊主になるまで喰い尽くされてしまった。しかしながら、パセリの生命力も大したもので、その、殆ど茎しか残っていない状態から見事に復活して、次第に葉を広げていき、先月半ばぐらいからは、それなりの豊かさを見せ始めたのでありますよ。おっ、良い感じに育ってきたじゃん、祝復活、ってな感じ。ところが、そう思ったのは私だけではなかったのであります。界隈を飛翔するキアゲハ嬢も同様に感じたのでしょうな。すかさず、卵が産み付けられたようで、あっという間に、またもや幼虫軍団が犇めく有り様となった。
 しかしながら、今回は全然葉の量が足りない。復活途中のパセリですもの。あっという間に葉は喰い尽くされてしまった。食草を失った彼らはどうするのだろうか。ううむ。天命尽きたりと死を待つばかりなのか、それとも……と案じていた。何日前のことだったかな。思い出せない。ライヴ連発、従って、過度のアルコール連発のため、記憶回路に難あり。もやもや。
 とにもかくにも、その翌朝、茎だけになった残骸のようなパセリの周辺に幼虫たちの姿はなかった。これが世に言う自然の定めというものなのだろうよ、とは思うものの、些か暗い気持ちにならざるを得ず。不似合いな溜め息なんぞ吐いてみたりしながらうろうろしていたところ、おおお、あああ、ううう、えええ、いいい、連中発見。わずか二匹だけだけれども、発見。
 彼ら、明日葉に移動しておりました。直線距離にして1メートルほどのものだと思うけれど、地べたを歩くようにできていそうにない彼らの吸盤様の足を思えば、ものすごい距離に相当するだろう。私の足に換算するならここから中野区新井一丁目ぐらい? それとも、稲城の矢野口ぐらい? それとも、坂戸の高麗川ぐらい? などとなどとなどと、知っている地名を列挙して比較してみても詮無きこと。とまれかくまれ、いやはや、大したもんだ。すごいぜ、キアゲハ・ベイビーズ。

 それにしても、連中が明日葉を喰うなんざ知らなかったよ。念の為に、調べてみたところ、明日葉もパセリと同じセリ科の植物。キアゲハの幼虫が食するのは当たり前のことのようである。
 だとすると、パセリを守りたかったら、彼らをはなから明日葉に移住させてしまえば良かったのだな。あの葉っぱはがんがんがんがん育つから、がっつきの激しい彼らにとっても明日の糧を心配する必要がなくなって、結構なことなのではなかろうか。昨夏、パセリを喰われまくってしまった友だち(シンガー・ソング・ファーマー?)にも教えなくちゃな。

投稿者 zenta : 14:05 | コメント (0) | トラックバック

2007年09月26日

あさがやんずのライヴだったが

 あさがやんずの今年初めてのライヴが終わった。年内にもう一度あるかないかは微妙なところ。だって、寒いの嫌じゃん。

 嘗ては、ライヴを一本終えるとそれなりの達成感と喪失感が、少なくとも数時間、長ければ数日の間続いたものだが、最近は、そういう感覚は殆どない。理由は極めて簡単なことで、泥酔甚だしく、ライヴの前後の記憶の多くがどこかに飛んでいってしまうからである。
 翌日、たいていは気持ち悪さとともに目覚め、ああ、昨日はライヴだったんだよなあ、と思い出す。しかし、ライヴの内容を思い出せることは滅多になく、前の方の席に○○と△△が来てた気がするな、打ち上げでは××たちと喋ったようであったなあ、とか、曖昧な記憶がもやもやするばかり。酷い時には、本当に昨日ライヴがあったのだろうか。もしかして、今晩なんじゃないか。いや、だが、しかし、記憶は有耶無耶でもこの気持ち悪さは間違いなく本物であり、つまり、昨日ライヴがあり、打ち上げがあったのでありましょうなあ。うげうげ。
 そんな感じ。阿呆である。

 そんなことを何年も繰り返しているのは、学習能力の欠片もない愚か者である証拠である。そして、また、学習できぬまま、今度の土曜もトラでライヴ。阿呆のレペティシオン。現時点で、曲目も知らされていなければ、当然、構成編成なども何もわからず、コードの一つすら知らないものがたくさんあるのだけれど、大丈夫なんでしょうか、私。

投稿者 zenta : 00:17 | コメント (1) | トラックバック

年上(`62年生まれ)の友人の談によると、

酒、煙草、カフェインを習慣にしている者は
成功者にはなれないと、何かの本に書いてあるそうです。

3種とも止められない私、
そして、お酒をグロングロンに飲むzenta様の
明日はどっちだ?

投稿者 flint : 2007年09月29日 03:24

2007年09月19日

全国デビュー


 『猫めくり』という、ほぼ日めくりになっている小型のカレンダーがある。タイトルのとおり、次から次へと猫の写真、猫の写真。土日は兼用なので、週六枚、年にしてざっと三百枚強というところ。ここ数年、我が家ではトイレにて愛用中。可愛い猫のみならず、これって、どうですか、ちょっと微妙じゃないの、というようなものもたくさんあるのだけれど、そんなものさえも何となく楽しめてしまうところが、呆けた猫飼いの悲しさか嬉しさか。兎に角、ここ数年のお楽しみとなっている。

 その『猫めくり』、ふと気づくと、写真を公募しているではないですか。いやあ、気づかなかったなあ。早速、要項を読んでみた。なるほど、一人五枚まで応募できるわけだね。幸いなことに我が家には猫が二匹とカメラマンが二人いる。そこで、心の中で天才カメラマンと自称する私はでぶ猫様と、普通のカメラマン殿はちび猫と、という具合にチーム分けして、それぞれ応募することと相成った。
 わくわくしたり、じたばたしたりしながら、どうにかこうにか、お気に入りの五枚に絞り込み、申し込んだのでしたよ。それが春三月のこと。参ったな、来年はでぶ猫様が表紙になっちまうぜ、へへへ、などと北叟笑んでいた私。

 先日のこと、我が家のサンデー・カメラマンくんが帰宅早々何やら騒いでおる。何と、ちび猫写真の一枚が掲載されるという連絡が来たそうな。これで、ちび公も全国デビューじゃないですか。
 ところで、私の方に連絡が来ないのはなぜだろう、と疑問が湧くのは当然のこと。少しく慌てて要項のページにアクセスしてみると「採用不採用にかかわらず、結果通知をお送りいたします」という文言が載っていた。私への連絡が遅い理由、それは、ずばり、表紙にするかどうかで揉めているからに違いない。大賞になるのか、表紙賞になるのか、あるいは、運悪く金賞止まりか、そういう鬩ぎ合いの渦中にあるのだろうな。そんなことを思ううちに数日がたった。ふむ。また更に数日がたったが、なかなか連絡は来ない。混戦模様なんだね。競争相手はどんな写真なんだろう。そんなことを思う。
 さらに、数日たったところで、漸く連絡が来た。結果は、まあ、ご想像の通りですよ。ふふ、世の中、そんなものさね。

 私は傷む心を抱えて、今から旅に出ることに致します。みなさん、ごきげんよう。さようなら。あばよ。

投稿者 zenta : 02:25 | コメント (5) | トラックバック

たっ、たまらん♡

投稿者 flint : 2007年09月19日 14:35

これは笑いましよ。

ところで、この写真はデブさんのほうですよね?

投稿者 RINGO : 2007年09月20日 00:25

>ところで、この写真はデブさんのほうですよね?

 そりゃそうですよ。私はでぶ猫様担当だから。

 ちなみに、左側が広くあけてあるのは、表紙になった際に『猫めくり』というタイトルを入れやすくするための配慮です。そこまで気を遣ったというのに……。

投稿者 zenta : 2007年09月20日 00:43

おお〜!
グレッグ・トーランド張りの見事なパン・フォーカスではないですか。
あたしとしてはサムネイルの白黒の方が好みですな。 
ま、いずれにせよ、そんな失礼な会社相手にしないで「からす」で出すなり、NET配信するなりした方が早いんじゃない?
タイトルは『猫んでるた』..?

投稿者 guffaw : 2007年09月20日 02:50

やはりここで敗因を分析しておかなければ、次の甲子園も難しくなるでしょう。

全体として捉えると、紅葉色の秋の静かな朝、その猫はいつものように警戒を怠らず、いま見つけたばかりの獲物に対して野獣のような視線を注いでいるのだった、というイメージです。

しかしながら、細部を観察すると、写真右下に前脚が2つちょこんと写っています。このリラックスした前脚が、静と動の紡ぎだす危ういばかりの緊張の糸を引き裂いてしまったのかもしれません。
猫ばかりではありません。このように前脚が写り込むということは、おそらく猫は何かの上に乗っていて、それはもしかしたら自転車のサドルかもしれないとも思わせ、そうであるならば撮影者はちょっとしゃがんで下からのアングルにしたのだなと邪推させてしまったのかもしれません。
ここは、弾丸飛び交う戦場で匍匐前進する兵士の如く、命がけで猫の下部に近づき、撃たれる前に撮ったぜ、という緊張感が欲しいところでした。

投稿者 RINGO : 2007年09月20日 19:33

2007年09月12日

カメラマン

 威張るようなことではないが、私はカメラを持っている。もっとも、ちょい型落ちの、オーソドクスな並のデジカメだけどさ。んで、威張るわけではないが、写真を撮るわけである。もっとも、被写体ってのは、近所の風景とでぶとあほの二匹の猫だけなんだけどさ。して、威張るわけじゃないけど、おっ、これってちょっといいんじゃないの。俺ってもしかして天才かも、などと呟いたりするのであります。阿呆か。

 天才とは何か、と大上段に構えるつもりはない。だって、私が私の心の中だけで俺って天才かもって思う分には、どうだっていいじゃん。放っておいてくれたまえ。
 そう、心の中で私が何を思おうとも、一応、それは勝手ではある。いや、たとえ心の中だけであってさえ、悪を抱いてはいけない、というような考え方もあろうけれども、我輩は天才写真家なんじゃいと自己満足な独り言ってなことは、厳しく善悪を問うべき問題ではなかろう。ははは、笑っちゃうね、とか、そんな態度で温かく見舞っておくれよ。

 ところで、我が家にはもうひとりカメラマンがいる。そちらは、天才写真家などと自称することはない。……とは言っても、人の心の裡は知る由もないわけで、もしかすると、あたしって大天才かも……などと北叟笑んでいないとも限らないけれど、少なくとも、私ほどに自惚れてはいないように見える。

 一つ屋根の下に、自称天才カメラマンとサンデー・カメラマン(?)が共存しているわけですよ。ははは、それがさ、はは、笑っちゃうよ。ははは、俺ってもしかして天才カメラマン? わはははは、泣けちゃうよ。
(次週に続く)

投稿者 zenta : 18:37 | コメント (0) | トラックバック

2007年09月05日

ダイ・マチュイ

 からすのブログで松井に触れたのは、かれこれ二年ほども前だろうか。ジーコ・ジャパンとかいうものが、ワールド・カップを遠くに近くに眺めながら、人試しを行っていた頃合。結局、松井は選に漏れ、ほとほとがっかりした私であった。その嘆きは、当時の世間ではあまり相手にしてもらえなかったけれど、ここに来て、流れが変わり、随分、大きく扱われるようになりだした、ダイ・マチュイ。結構なことである。今日の夕刊にはカラーの顔写真入りで囲み記事だぜ。二年前にそれぐらい応援してほしかったよ。と、愚痴っても何も始まりはしなけれど……。

 ロナウジーニョも真似したがるにちがいない、先日の変態サーカス、ジャンピング・ヒール・ボレーでの得点が効いたのか、オシム・ジャパンにやっとこ招集されることとなった。代表に定着するのかどうかわからんけれども、直感としては、オシムとの相性は相当に悪そうではある。私が川淵某ほどの権力を持っていたら、オシムと松井のどちらかを、という段で、当然、松井を取りオシムを切る。高齢に過ぎるという問題もあるわけだし。しかしながら、現実はそうは進まず、松井が代表から外れることになるのでしょうな。くそぉ。
 オシムくんが2010年まで頑張り続けていたら、松井のチャンスは薄いまま。その時すでに29歳。うはっ。その次のワールド・カップってのはいくら何でも無理だろうな。嗚呼、哀れなり、松井大輔。結局、礒貝と同じように、私の心の中だけでのスーパースターで終わる運命なのか。

 今日の時点で、2010年の代表候補から松井が外れてしまうって嘆き悲しむのもどうかとは思いますがね。でも、何というのか、そういう星の巡り合わせってものはあるのであります。ネッツァー様々なんぞを引き合いに出すまでもなく。
 ううむ、何だか、微妙に滅入ってきました。しかし、それでも、頑張れ、松井よ、ほどほどに。今後ともへらへらプレーでよろしく。

投稿者 zenta : 20:09 | コメント (0) | トラックバック

2007年08月29日

困惑の道行き

 地主だというのに、私は未だに自分が所有するその土地を訪れたことがなかった。全く以て地主の風上に置けぬ有り様ではないか。寝起き早々発起した私は、取り敢えず、R1-Zに跨り、キック、キック。夏だというのに、一発ではかからない悲しさがあったけれども、兎にも角にも火が入り、発進。
 青梅街道をびゅうびゅう走って、四面道を右折、谷原で左折して、気がつくと関越に乗っている。目的地はどこなのか、判然とせぬまま、直走る。
 何となく鶴ケ島インターで下りてみたものの、田舎と言うほど田舎ではなく、かといって、勿論、都会である筈もない町並みを漠然と走るばかり。いくつかの川を越えたところで、信号など存在しない辺鄙な通りに辿り着いた。放置されたログハウス様の空き店。中途半端な空地。小さな図書館、町役場、高校。人気はない。忘れた頃に、軽車両と擦れ違うだけ。
 路傍に単車を停め、ふと目を上げると辺り一面に山並が広がっている。昔ならここで一服というところだが、煙草はやめてしまった。自動販売機が見当たらず、缶コーヒーを飲むことも能わず。ヘルメットを取ると髪の毛がぺたんこ。生温い風が頬を撫でる。こういう感じは実に久し振りだ。
 ところで、私はここに何しに来たのだったろうか。

 なおも闇雲に走るうち、気の利いた和カフェなるものを発見して、湯呑みで珈琲を頂戴する。寝惚けた記憶を解いてみると、そうだ、地主様たる私は、広大なる我が土地を一目見ようと家を出たのだったではないか。然るに、その場所を知らぬままに飛び出し、びゃーびゃー走って、立ち止まって、さて、私は何をしに来たのだったろうか、などと呟いている。阿呆である。

 無事で何より、と思う他はない。この珈琲を飲み終えたら、とっとと帰ろう。そして、少し眠ることにしよう。みなさん、睡眠不足は正常な思考を妨げますよ。
 ああ、夏が終わる。

投稿者 zenta : 11:32 | コメント (0) | トラックバック

2007年08月22日

ガーデン的なものの近頃

 今年の我が家の狭隘きわまりないガーデン的なものは、食べられるものばかりが占めているのは、以前書いた通り。

 青紫蘇とバジルは、ショウリョウバッタの類に齧られたりしているものの、ぼうぼうと育ち放題。

 パセリはキアゲハの幼虫に派手に食われて大幅に縮小してしまった。先月のこと。その後、徐々に勢いを取り戻しつつあるも、まだまだ小ぢんまりとした状態で、食すのは憚られる。がんばれ、パセ公。

 トマトは結構な数の実が生るのだけれど、低いところのものは赤くなり始めると烏の餌食となってしまう。彼らはなぜか高いところのトマトは突いたりしないなあ。ちょっと不思議じゃありませんか。

 茄子はかなり早い段階からたくさんの実をつけ、瑞々しい味で食卓を賑わせてくれた。その後暫くは花が咲くこともなく、休息に入った様子だった。
 誰が喰うのかしらんけれど、葉のあちこちが穴だらけ。もうこのまま終焉を迎えるのでありましょうか、と少し悲しく思っていたところ、先週辺りから、数多の花が咲き始め、早いものは既に小さな実となっている。二度目の豊作の予感。
 茄子の葉の裏に小さな蟻がたくさん集まっている姿を度々見かけるが、茄子の葉っぱってうまいんでしょうかね。

 唐辛子二株はどちらも極めて順調。というか、食べるのが追いつかない。辛いもん好きの私ではあるけれど、そんなに大量には喰えないものだ。
 最初の頃は、この唐辛子辛くないけどどうなってんだ、というような戯けたことを書いたりしたけれど、あれは待つ心が不足していただけでありました。いや、普通に辛いよ。時々辛過ぎるぐらい。
 一時期、種類不明の地味なカメムシがたくさん集まってきていることがあったけれど、実も葉も齧られている気配はない。茎から樹液のようなものを吸っているのかもしれない。

 明日葉は、明日には生えるから明日葉ってぐらいだからね、と調子に乗って刈り込み過ぎたのか、成育が悪くなりかけていたけれど、暑くなってからは完全復活。

 そんなこんなが、佐藤家ガーデン的なものの近況だ。もうちょっと広いと良いのにね、などと思わなくもない……って、おい、忘れかけていた大ガーデン用地があるではないか、地主様よ。一度は見に行かないと何も始まらないよなあ。

投稿者 zenta : 12:42 | コメント (0) | トラックバック

2007年08月15日

規格統一、なぜかその五

 片面無地のちらしを折り、切り、束ねる。相変わらずの朝である。
 実際問題、ちらしの裏を使用する場面はあまりない。今書いている文章の下書き。新曲の歌詞の下書き。T氏からの連絡待ち(Kさん経由)、などというようなメモの類。あとは、封筒を糊付けする時の下敷きにしてみたり。孰れにせよ、消費がまるで追いつかず、このちらしの束は増え続けているのであります。

 ちらしの標準的なものは、つるつるの紙。萬年筆のインクはのらなくもないけれど、乾きにくい。鉛筆の類には不適。たまに、藁半紙のものが入っていると、小中学生の頃を思い出したりして懐かしくなくもないけれど、萬年筆には向かない。それ以外にも、インクジェットプリンタで印刷したような再生紙があったり、黄色いちょっと厚手の紙があったり。
 サイズもこれまたまちまち。新中野の例のパチンコ屋の特大のものもあれば、B6の極薄藁半紙もある。A系でもB系でもない、変形ものも少なくはない。ちょっとだけ幅が広いやつがあるかと思えば、いやに細長いものが登場することも、時には正方形のものが入っていることさえある。
 なので、程好い大きさに切っていっても、束は一種類におさまらない。頻繁に登場するものに限っても大きさだけで三種には分類せねばならぬし、極端なものは極端なもので、またいくつかに。初期の頃は、紙の種類、つまり、つるつる、ざらざら、厚手、薄手、なんてことまで気にしてみたこともあった。「白紙は白紙、からすはからす、線香紙は線香紙、陳皮は陳皮……」という『紙屑屋』に登場する若旦那みたいな有り様。孰れにせよ、限りがないので完全な細分化は早々に断念。ふむ。

 何でも彼でも規格統一された世界なぞ味気ないのは想像に難くない。完璧なのは理念の世界だけで十分だ。現実世界では、辻褄の合わないどたばたとした多様性は大歓迎。ちょっとした手違いや失敗さえも受け止めよう。そんなつもりでいる私だが、ちらしに関しては、サイズ、用紙を統一しては如何がだろうか、と提案したい。
 小中学生が使うノートのサイズにできるようにB5かB4、巨大な広告を望むのであればB3やB2でよろしく。つるつるの紙は鉛筆ののりが悪いのでコピー機やプリンタ用の再生紙を使用すること。それを各家庭で折って切ってを繰り返し、近所の学校に納める。んで、計算や漢字の練習用に各自に配布、プリントを印刷するのに使ってもいい。授業中、やる気がしねえなあ、というような生徒は裏側の印刷部分を眺めて暇潰しをすることもあるだろうし、持ち帰ったプリントを保護者に渡した際にも裏を眺めてもらえるかもしれないわけで、折り込みのように一瞬にして通り過ぎるだけではない可能性を期待できる。そういう意味では、広告主にだってメリットがないわけではない。

 文化区杉並からそんな改革を始めてみてはどうかしら。

投稿者 zenta : 22:15 | コメント (2) | トラックバック

ぼくの父親も昔、そうやって几帳面にメモ用紙を作りながら「なぜ裏にまで印刷するか」と怒っていましたな。広告主にしてみれば「紙を無駄にしないため」なんでしょうが。

落語の紙屑屋といえば、あの紙屑は集めてどうしてたのかね?当時も漉きなおして再生させる技術があったのかな。

ちなみに中国歴代王朝きっての賢帝、清のヨウ正帝は手紙も反古紙の裏を使っていたそうです。

投稿者 guffaw : 2007年08月23日 19:29

 紙屑屋で集めているもの中では、からす以外は再生ではなく、単純に再利用だったんだと思います。

 ここんとこ、なぜか裏白のちらしが減っています。

投稿者 zenta : 2007年08月31日 14:04

2007年08月08日

規格統一、なぜかその四

 相も変わらず、片面印刷の折り込みをみつけては、折っては切り折っては切り、サイズを揃えて大型クリップで纏める。そんな作業を毎朝繰り返す私であります。先日書いたように、裏が白紙のものの大半はなぜかパチンコ店の広告。新聞の折り込みという性質上、当然のことながら、再々同じ店舗のものが入ってくる。新装開店とか、新機種導入とか、そんなことなのかね。こんなに宣伝費をばらまいても元が取れるなんて、儲かっているんだなあ、などと思う。余計なお世話ですが。
 珍しく、その大判の広告の表側を眺めてみた。そこには、さとう珠緒さん来店!、などとでかでかと書かれており、満面の(作り?)笑顔で彼女がこちらに目を流している。この女性はお店にやってきて一体何をするのだろう。例のぶりぶりな口調で場内アナウンスでもするのだろうか。それとも、単なる一人の客として……そんなわけねえな。謎だ。もしかしたら、私が知らんだけで、パチンコ業界では泣く子も黙る重要人物なのであるぞ、なんてことがあるのかな。

 それにしても、この不思議な店はどこにあるんじゃいな、と地図に目を落として仰天した。うおぇっ。そこに書かれていたのは、カラーズ(旧シーアス)があった場所ではないか。まじすか。本当かなあ。少なくとも、ちらしの下段に位置する略図を見る限り、間違いなさそうな。うはぁ、びっくり。
 そう言えば、近頃あの辺りを通ってないもんなあ。そりゃ、町並みも変わりましょうよ。雑草伸び放題の空地があったりして、ちょっと寂れた感じだったものね。あの一帯が勢いのある業種に買い取られたりしていても、おかしかないか。塾をたたんでから、かれこれ何年になるんだろう。などと、些か感傷の念の混じった思いの断片がもやもやと脳裡を渦巻く。

投稿者 zenta : 20:09 | コメント (3) | トラックバック

いやまじっすよ。わたし見たことあります。あの4階の東向きの窓、いま開けると30センチ向こうに壁なんですぜ。

投稿者 shachi : 2007年08月09日 11:44

入院中の母に双子の姪が、コーダクミの台の広告を利用してペン立てを造って病室に飾ってあります。一見、パチンコ店の広告には見えないみごとな出来です。
数年前にイノキの台が出た時、近所のパチンコ屋の店頭にイノキが来て、ビンタとかして盛り上がっていましたよ。

投稿者 flint : 2007年08月15日 13:27

 パチンコ屋のイベントでびんたですか。ある意味、すごいなあ。

投稿者 zenta : 2007年08月15日 20:32

2007年08月01日

規格統一、なぜかその三

 どんどん話が逸れるのは昔からのことで、驚くようなことではないけれど、最近は、ちっとも元に戻れず着地しないまま、書きっ放しで投げ出す私ですが、今日は大丈夫だろうか。……なんて、自分で心配してりゃ世話ねえな。

 近所の小学生がうちにやってきた際、ちょいと紙に漢字の練習や、あるいは、単なる落書きなどを致したいのであります、というような場面がある。当然、紙を提供することになります。私は萬年筆おたくを自称しているので、紙やノートの類は常時大量に用意してあります。そう言えば、そんなに在庫して商売でも始めるのかね、というほどに、紙やインクやホチキスの芯やクリップなんぞを溢れ返るほど常に手元に置いていましたね、うちの親父も。紙やインク好きって遺伝するのだろうか。
 まあ、そんなことはどうでも宜しい。
 小学生に紙を提供するにあたって、当初は、制限の一切ない無地のものが良かろうか、あるいは、横書き縦書き作図などのあらゆる用途に対応できるべく方眼ものが良いのかな、などと思案。しかし、そんなことよりも、子どもたちにとって大事なのは、紙を無駄にせぬことは森林保護に繋がり、結果、地球環境を守ることになるのであるぞよ、ということを伝えることではないか、と閃いた。
 で、早速、新聞の折り込み広告のチェックを始めたのであります。
 裏は真っ白ってなものが意外にある。主にパチンコ屋のもの。なぜか、特大で片面印刷のものが多い。まあ、それをせっせと折っては切り、折っては切り、すると、B5からA4程度の大きさの紙にして十枚近くが用意できた。次回からは、がきどもには、これらを使用させ、紙を大切にして君も地球を防衛するのだぞ、ということを伝えようと思う。

 で、翌日もやりました。翌々日もやりましたよ。いや、結局、毎日毎日、強迫観念に取り憑かれたように、白い広告をみつけては折って切ってを続けている私です。とてもじゃないが、消費しきれず、各部屋の紙の束は厚みを増すばかり。もう十分にストックされているんだから、取り敢えず、一休みすればいい。そうなのですよ。しかし、止められない。この辺りに私の性格の壊れ気味な感じを見出す人がいるかもしれんが、いや、あるいは、実際そうかもしれないのだが、こういうことをきちんきちんと続けるということは、なかなかどうして気持ちの良いことなのであります。もう後戻りはできない。これは神に与えられた天命ではないか……などとは思わんが、朝起きたら、まず、これをやらないと気が済まない。
 ほほぅ、今日は珍しくも杉並警察からの折り込みが片面印刷ですよ。あとは、パチンコ屋ものの特大が一枚、普通のが一枚。それに不動産屋の妙に黄色いのが一枚か、なんて。

 紙を大事にするということは素晴らしいことだし、それが巡り巡って世界平和に繋がっているのだと信じて疑わない私であるけれど、これをこのまま続けていくとどうなるのだろう。もしかして、これって、ワイドショーで取り上げられるゴミ屋敷のおっさんへの道なのではないか、と思い至る。あわわわ、あわわわ。大いにはっとして、紙を折る手が止まった。まじすか。儂もいずれはゴミ屋敷のおっさんか……。
 いや、だが、やはり、やめられない。今日も私は紙を折って切って、そして、きっと明日も折って切って折って切って……。

投稿者 zenta : 20:21 | コメント (0) | トラックバック

2007年07月25日

規格統一、なぜかその二

 デジタル化が進むに連れ、ペイパーレスな社会になっていくことでありましょう、というような予言めいた物謂いが屡々為されていたことがあった。紙を使う度合いが減り、それは森林資源の保護にも繋がるのであって素晴らしいことですわよん、というような筋の話をする人もいた。
 もっとも、ペイパーレス化がデジタル化の進行を前提にしているのであれば、電気依存が弥増すであろうことは必至であるからして、一概に阿呆面下げて喜べることでもない。どちらがより地球に優しいのか。というか、少しはましなのか。
 それは専門家に任せるとして。

 御存知のようにMacおたく……情熱減少気味だけれど……を自称する私なんざ、ペイパーレス大賛成、紙媒体など滅びるが宜し、などと思っているに違いない、と想像する人もいるかもしれんが、豈図らんや。寧ろ、しぶとく紙に執着して、時代に乗り遅れ気味の私がいる。
 ひとつには萬年筆おたくでもあるということがありますな。手は二本。しかも、ペンを持って書ける手は一本しかないのに、必要以上にあれこれと購入し、インクだって使い切る前に傷んでしまうでしょうよ、というほどに大量に入手保存。半歩下がって我が身を眺むれば、エコを目指す御時世にそれって、まさにモッタイナイんじゃないの、と一言声を掛けたくなる。でも、やめられん。
 んで、萬年筆を使うとなると、どうしても紙が必要になるのですな。モニターに書くわけにはいかないので、紙に書いてからコンピュータに打ち込んで……などという二度手間をやったりもして、軽く阿呆である。
 あとは、新聞です。今時、新聞なんか取っている奴がいるのかよ、と驚く人さえおるかもしらんけれど。コンピュータつければダーターで読めることばっかりじゃないすか、と言われるかもしらんけれど。まあ、実際、概ねその通りでございますけれどね。やっぱり、紙で読みたいの。前からざらっと読んでいって、最後に番組欄に到着して、お、今日はギャル曽根は巨大オムレツに挑戦か、なんて。
 それに、新聞以上に本、本全般(辞書も含む)。
 純粋に調べるという行為だけに専念するのであれば、デジタル化されたそれの方がはるかに便利だということは歴然だし、実際、そうする場面も多々ありますよ。しかし、それでも、紙の本を読む、紙の辞書を引く、という行為は捨てられない。iPod全盛の昨今でもダウンロードなんて嫌々々やわ、自分はCDを購入せずにはおられんのです、というのと少し似ている。

 ここまででの説明で、私が斯様に紙媒体にへばりつき気味だということは理解してもらえたと思うのだが、ここで私は驚いた。「規格統一」はどこへ行ってしまったのか。またかよ。またどこにも着地せぬまま終わってしまうのか。タイトルを決めて書き始めても毎度毎度それをすっかり忘れてだらだらずるずる迷走するって、これは痴呆化の始まりなのではないでしょうか。大丈夫なのかね。

投稿者 zenta : 19:21 | コメント (0) | トラックバック

2007年07月18日

規格統一

 私(たち)の知覚は、相当に非力である。
 我が長屋の周辺には、少なくとも七匹の黒猫がおり、黒首輪、赤首輪、病弱のでぶちん、この三種は毎度同定できる。しかしながら、残りのものたちに関しては、顔付きや体格の、あるいは、尻尾の太さ長さの違いなど、ごくごく僅かしか差が存在せぬように見え、こいつは昨日の黒猫と同じだろうか、違うかな、ううむ、などと、悩むこと必定。しかも、黒首輪くん、最近、ちょっとでかくなったのか、おやまあ、などということもあるのは当たり前。何しろ、先様は生き物であるがゆえに。しょっちゅう混乱。
 そこへいくと、猫同士というのはしっかりしたもので、私の目には全く同じに見える黒猫であってもきちんと区別ができている。おっ、君の友だちの黒猫くんが来ておるよ、なんて、我が家のちび公に声をかけてみたら、御当人は尻尾を膨らませて威嚇作業に集中していたり。いつもの暴れ者の黒助が来やがったな、などと睨みを効かせたつもりだったのだけれど、猫違いも甚だしく、ぼく、こちら方面は初めてなものでよろしく、的な愛想の良さで近くまでやってきて、私から程近いところを暫しうろうろしてから静かに立ち去っていったり。左から小振りの黒猫がやってきて、ああ、夜半にちび公と遊んでいる彼だな、なんて思っていたら、同じ大きさの同じような黒猫が右からもやってきて、あれ、こっちかな、と思う間もなく、両名は猛烈な取っ組み合いを始め、黒い団子のようになって広場を転げ回って……両方違うのかもしれん。まあ、要するに、私の黒猫識別能力は相当に酷いってこと。二匹を並べてじっと眺める機会があればその差異をきちんと把握することもできるのでしょうけれど。

 黒猫に限らず、凡そこの世にあるものは、仔細に眺むれば、どんなに似ていようとも二つとして同じものはない。この黒猫とあの黒猫、エビちゃんと妹嬢、ななとりり。似ているけれど、やはり相異なる。それがいい。
 製品と呼ばれるようなものに関してだと、まるで同じ(ような)ものを作り続けなければ、クォリティ・コントロールがなっとらんよ、などと批判されたりする場面もなくはないのだろうが、いいじゃん、ちょっとぐらい違ったって。小洒落た蒔絵の猪口を二つ並べて、微細な差異を楽しむ。手作りならではの味わいと受け止める。

 違いというか間違い。
 例えば、ぺんてるの2Bの鉛筆を買ってきたつもりなのに、封を開けてみたらBが入っていた。寝惚けた店員さんですなあ。が、OK、OK。ノー・プロ、ノー・プロ。例えば、カランダッシュのHBが入っていた。大丈夫だぜ、ベイビー。次からは間違えないでくれよな。ほな、ファーバーカステルの油性色鉛筆のペインズグレーが入っていたら、どうだろう。ま、ま、良いんじゃないの、ぎりぎりセーフってことで。じゃあ、それが赤だったらどうなのか。黄色だったらどうなのか。ううむ。色鉛筆じゃなくてピンクのラインマーカーが入っていたらどうなのか。赤いダッジチャージャー(1969デイトナ)が入っていたら……って、あんた、そりゃいくら何でも違い過ぎますがな。そんなもん間違えるものはおらん。

 何が何だかわからなくなってきたが、違いがあるって良いことじゃん。間違いがあるってのも、程度問題ではあるけれど、悪くない。
 念の為に申し上げると、権利や義務の平等というようなことに異を唱えるつもりはない。そういうことは寧ろ等しくあるべきだと思う。いや、ほんと。
 そういういことではなく、個々のモノ(生き死にを問わず)はそれぞれに違っていて当たり前だし、その方が良いではないか、ってなこと。

 あれ。「規格統一」ってタイトルで何を書くつもりだったんだろう。論旨滅茶苦茶なまま着地することなく終わってしまいますが。

 ちょっと鉛筆を買いに行った筈なのに、まちがえて深紅のダッジチャージャー買ってきちゃったよブオーッて、万々が一、そんな奴がいたら、どこまで阿呆なのか、と思う反面、恰好いいバカっているよな、なんて……そんなことはない。

投稿者 zenta : 06:14 | コメント (1) | トラックバック

あんたバカァ? 家の鯖猫3兄弟の区別も解らないわけぇ?
解らないよ。だってflintは何も云ってくれないじゃないかっ!

投稿者 flint : 2007年07月22日 14:13

2007年07月11日

地主様かく語りき

 先日、友人のバンドのサポートでちょろっとピアノのようなものを弾いてきた。その現場でも、よっ、地主様、などと声をかけられる。山梨から遠路はるばるやってきた知人に、大地主様ぁ、などと呼ばれる。ゴミ捨ての際には、相も変わらず、おはよう、地主の旦那、などという挨拶を頂戴する。これらのことに何か問題があるだろうか。いや、ない。問題などない。
 そうなのだが、私は見抜いております。何をかというと、人々の目が猜疑心に満ち満ちているということをね。地主、地主って、あんた、本当に土地買うたんかい、と、そういう目ですな。疑うような、嘲笑うような。
 人気商売をしているわけではないので、他人様にどう思われようと、そんなことはかまわない(程度問題ではあるけれど)。私は私。これが、私は誰、などとなったら大変だ……って、そんな話ではない。
 仮に、私が私ではなく、読者であったなら、酔っ払ってクリックして土地買っちゃったよ、うがぁ、なんて話を読んだら、どう思うだろうか。あのおっさん、また嘘ついてはるで、などと敬語系の大阪弁で思うのは、ある意味、当然のことである。
 しかしながら、無闇に疑われた私は、人間というのは疑ってばかりの悲しい生き物だね、ははは、などと嘯いて、このまま旅に出てしまおうか、と思わなくもない。いやいや、私は旅は嫌いだ。それに、デカルトという、私よりも365歳も年上の先輩が、何でも彼んでも疑うが宜し、などと宣っていたのを思い出したまえよ。先輩の言うことは多少理不尽でも聞かねばならんのが、サッカー部の辛いところ。何でも彼んでも疑えばええやん。嗚呼、一体、私は何の話をしているのだろう。

 兎にも角にも、疑いたき者は疑いたまえ。但し、そこいらの国会議員などと違って、私は疑われるようなことは本当にしておりませぬぞ。

投稿者 zenta : 01:23 | コメント (3) | トラックバック

「超人とは現世の一切に対してよしという勇気を持ったものである」
ってフミオもニーチェを引用しとります。ただ、それが誰の訳なんだかわからないんで図書館に行きます、私。

投稿者 shachi : 2007年07月13日 01:24

この人を見よでニーチェにすっごい共感してしまった葉月です。
共感したなんてら言ったらおこがましいですけど。

投稿者 葉月 : 2007年07月13日 14:49

 ああ、いいですねえ、共感。ニーチェはまだまだ生きてるんですな。

 というわけで、お詫びと訂正です。中野区立中央図書館行きましていろいろ当たっていたところ、上記「超人とは現世の一切に対してよしという勇気を持ったものである」はニーチェ本人のではなく、研究者阿部次郎によることが判明、たいへん失礼いたしやした。

投稿者 shachi : 2007年07月14日 01:43

2007年07月04日

本年の園芸の系

 園芸的なことを始めて何年になるのだろうか……って、悩むほど長くやっているわけではないので、指折り数えてみたって片手で足りる。あれっ、足りないかな。いや、足りる。

 今年は花の類は一切なく、世に言う菜園ってやつですか。と言っても、所詮は、一坪、つまりは二畳ほどの狭さゆえ、たいそうなことができるわけではない。3茄子、2唐辛子、2トマト、2明日葉、2バジル、3青紫蘇、2パセリ。こんなラインナップ。これで目一杯。

 知人のシンガー・ソング・ファーマー(何だそりゃ?)の女性から、簡単なのでおすすめですよ、とアドヴァイスを頂いただけのことはあり、早くも五月の末に収穫が始まった茄子。ぽっこりぽっこりとでかくなるので、ちょこちょこ刈り取っては食しております。八百屋のものより水気が多くしっとりとしているような印象。

 マンションのヴェランダでも光さえ当たっていれば嫌ってほどなりますよ、とマダム・ダーツ・クイーンから教えられた唐辛子。すごい勢いで実がなっております。ぎゅうぎゅう詰めの狭いスペースの中、天に向かってびゅんびゅんびゅんびゅん。で、でかくなったのを刻んで、サラダ的なものに振り掛けて恐る恐る喰ってみた。何たることか、全く辛くない。見掛け倒し。辛さの充実までには未だ日数が必要なのか。よく判らない。

 パセリやバジルはイタリアン方向のものに、紫蘇は蕎麦や素麺、奴なんぞにってな具合で、良い感じで収穫して消費。明日葉はおひたしか天麩羅しかねえかなあ、と思っていたが、微塵切りにしてパスタと一緒に炒めるのもありでございます。
 トマトもたくさん実っているが、まだまだ青い。待つが宜し。

 全体にうまく回っているので、少々浮かれ気味の私は、もっと面積を増やせんものか、と画策。画策すれども、如何んせん、貧乏長屋住まい、これ以上のスペースなどあるはずがない。……ないと思う。……うん、ないない。……ないね。……あっ、そんなことないよ。だって、俺って地主様なんじゃん。うっかりしていたぜ。
 まあ、問題はその遠さですなあ。嗚呼、未だ見ぬ千二百坪余りの土地。そんなにあったら、どんなもんでも植えられそうではないか。っていうか、小さな農家が経営できそうじゃん。するってえと、愈々、しゃち家と農家対決と相成るのだろうか。おお、いぇー。

投稿者 zenta : 14:51 | コメント (5) | トラックバック

唐辛子は風通しの良い所で乾燥させると辛くなりますよ。スーパーとかの香辛料スペースで売っている赤い輪切りの品種であれば。
実家のばーちゃんは、枝ごと切って葉っぱをむしり取り、ある程度の本数を軒先に吊るしています。

投稿者 flint : 2007年07月06日 00:56

 にゃるほど。そんな業があるのか。研究してみないといかんですなあ。

投稿者 zenta : 2007年07月06日 09:42

むろん、受けて立ちますぜ。本市場新田の名にかけて。

投稿者 shachi : 2007年07月06日 10:47

そういえば前にハバネロがどうとか言ってましたよね。出来上がったの、もらえたりするんですかね?

投稿者 quwabara : 2007年07月06日 20:12

 うちのは普通の唐辛子ざんす。
 ハバネロは知り合いから大々的に作っているので、収穫時期には大量に送ってもらえます(多分)。なので、その折に、お裾分けというのは可。但し、取り扱いには注意が必要。

投稿者 zenta : 2007年07月06日 22:08

2007年06月27日

夢落ち

 朝のゴミ捨ての際などに近隣の人と擦れ違えば、一通りの挨拶を交わすのは当然のことであり、礼儀を重んじる私がそれを欠かすことはない。先方の返答はと言えば、多くの場合、「おはようございます」というものであるけれど、「今日も暑くなりそうですなあ」などという時候に関わるフレーズが織り交ぜられることもあるし、相手が古くからの知り合いのおばちゃんなんぞの場合、「お母さん、お元気かしら」などと尋ねられたりすることもある。
 ところが、例外発生。生まれて初めての新鮮な呼び掛けに出合った。昨日のこと。おはようございます、地主の旦那。突然の言葉に動揺したが、「地主の旦那」って、あんた、おっ、おっ、俺様は貧しい小作人を虐げるロシアの悪徳豪農かぁーっ、と、のけ反りながらも、辛うじて応じることができた私である。
 早朝から何とも不思議な攻撃を仕掛けてくる隣人がいるものだなあ、と顔を洗いながら不思議に思う。全く何なんだ、あのおっさんは、と歯を磨きながらなおも不思議に思う……うわっ、そこで気づいた、俺って、先週から地主になったんだった、と。先様はからす新聞の愛読者なんだろうな……っていうか、それ以外ありえん。
 地主様ねえ、と思いながら、髭剃り後の顔を眺める。何かちがうなあ。何だろう。ううむ。髪形かな。そうだ、そうに違いない。ってんで、すぐに床屋に飛び込みましたよ。
 どうしますか、お客さん。あのぉ、地主カットっていうか、地主的なカットっていいますかね、とにかく、そんな風味でお願いします。しくよろ、しくよろ。床屋のあんちゃんは怪訝そうな面持ちながらも、承知致しました、と答える。偉い。それでこそプロフェッショナルというものだ。トレードマークのアフロともお別れか、と寂しい気がしなくもないが、兎にも角にも、あとのことは職人業に任せ、眠らせていただく。
 程なく起こされて、寝呆け眼で鏡を見れば、何というか、これって普通の五分刈りな感じじゃん。そうは思うものの、如何がですか、と問い掛けるあんちゃんの笑顔を見たら、苦しゅうない、と答えざるを得ず。私ってどうなんでしょう。

 のろくさ歩く帰り道、目が醒めきってはいない感じがして、これって全部夢だったりしてね、なんて。地主だの何だの、ってのも、じぇーんぶ夢だったりして。全太さん、安易な夢落ちは駄目ですよ、って津田くんに怒られそうだな。ふふふ、などと薄ら笑い。擦れ違った人、みな、気味悪がりますがな。
 夢だったのか。これで支払いの心配もいらねえや。助かったよ。なんて、救われた気持ちで家に辿り着く。おや、書留が届いておる。書留なんて珍しい。はてさて差出人は、って、あっ、こないだクリックしてしまった土地屋ではないか。中には、中には、中には、当然、権利書のようなものが入っており、うわぁ。うがぁ。

投稿者 zenta : 19:50 | コメント (0) | トラックバック

2007年06月20日

Mac依存症からの脱却?

 Macが不調になったおかげで、我が身を省みることとなりし先般、心中にどんな変化があったかというと、まあ、例によって、大したことはない。
 確かなことは、物は壊れる、ということでありますな。なので、それで困るなら、端から二つ用意しておくが宜しい。今後は大事なものは何でも二つずつ購入することにします。Brand Xの全てのアルバムを日本盤、イギリス盤、アメリカ盤と、各種取り揃えずにはいられなかった友だちのことを思い出すが、それはまた別の機会に。

 同じMacを二台買いさえすれば、これならもう安心だ。さて、一杯やるべえ、と呑み始める。同じMacが二台ある、というのは何とも心強い。そうだ。大事な本も二冊づつ買っておいた方がいいんじゃないか。珈琲を零したり、ばか猫に齧られたりするってことはあるでしょう。あとは、何ですか。バイクか。出かけようとしてエンジンがかかんなかったりすると大変ですからね。しょうがねえ。バイクも二台買うことにするか。安心を得るためには、何かと物入りだね。然りながら、安居休心には代え難く、出費止むなし。
 これで明日からは枕を高くして眠れるわい。めでたい、めでたい、と杯を重ねるうちに、ふと疑問が胸中を過る。待てよ。停電があったり、善福寺川が溢れたりした場合、Macだってバイクだって二台とも使えなくなってしまうではないか。何たること。
 しかし、私の頭脳は泥酔していたって、それなりには回るのであります。ふふ、別の場所に保管しておけば良いではないか、とね。いざって時のために安全に置いておけさえすれば良いだけだから、ちょいと遠かろうがそれは良しとしなくては。というか、近くては一網打尽になってしまうわけで、遠さは必須条件でありましょう。はは、再安心、ってことで、どんどん呑む。安意にまさるつまみなし、と。
 二台云々を始める前に、まずは土地を買わねばならぬ、ってんで、早速、インターネットで調べ始めましたよ。東京なんてところは、無闇に高いけれども、遠く離れてしまえば、存外、手頃な売り物があるものですな。素晴らしい。これなら、私のような下々の中の下の方の者でも買えないこともない。うふふ、などと、酔眼を揺らめかす。

 世に言う、悪魔の水、別名、気狂い水の力を御存知の方も少なくないでしょう。この力を以てすれば、あり得ないようなことが実現することだってあるのであります。というか、あってはいけないようなことが図らずも実現してしまうってことさえある。怖いよ。まじ,怖いよ。やばいよ。まじ、やばいよ。
 気がついたら、私、千二百坪余りの土地を購入ってボタンをクリックしてしまっていました。うわぁ。
 まだ、権利書なんぞは届いていないけど、どうなってしまうのか。俺のせえじゃねえ。みんな、お酒様が悪いのです。うがぁ。

投稿者 zenta : 16:49 | コメント (1) | トラックバック

きちがいみずでとちかって〜けんりしょとどいてあぱぱぱぱ
作詞/flint
作曲/みなさまにおまかせです。

投稿者 flint : 2007年06月22日 21:01

2007年06月13日

Mac依存症

 御存知の通り、私は大きにコンピュータに依存した生活をしている。Mac抜きでやることと言えば、飯を喰う、酒を飲む、シャワーを浴びる……加えて、庭仕事やら朝のゴミ出し、電球の交換……そんでもって、猫と遊ぶ、本を読む、音楽を聴く、映画を観る、などなど……それから、単車に乗って末廣亭を覗き、自転車に乗り鳥一で鶏肉を買ってからとらいち商店で野菜を買う、田中屋さんでは蕎麦や缶詰を仕入れて、ついでに銀行と郵便局に寄る……などなどなどと、事程左様にたくさんあるわけであるけれど……って、違う、違う、違う。私がどれほどMacに依存しているかという話をするために始めたのに、おかしいなあ。

 兎にも角にも、コンピュータが壊れて、私は呆然としたのであります。如何にこいつに依存していたのか、思い知りましてね。メールが打てない、データベースが弄れない、という二点だけでもかなり参りますな。で、慌てて、音楽用のマシンを無理矢理設定して、最低限のメールの送受信だけはできるようにしてみたけれど、やはり、付け焼き刃相当のことしかできない。
 結局、修理に出している一週間ほどは、音楽ばかりやっておりました。自主制作映画の音楽制作も山積みになっているので、それはそれで良かったようなところもあるけれど。

 Macというのは、便利で楽しく、ええ、私は好きですよ。相当に好きだ。けれども、こうやって、いざマシンが壊れてあたふたしてみると、こんなことでいいのかね、という疑問が過る。

投稿者 zenta : 15:38 | コメント (2) | トラックバック

僕もメールが使えなくなったりした時に同じような事を感じました。「何をそんなに心配してるんだ?」と我に返ってみたり。

今週は○○週間。 などと言って好きな音楽を聴いたり、本ばかり読んだりするように、アナログ週間を作って、ネット、パソコンなしの生活をしてみようかなぁ、、とか思いつつ未だ実現はしておりません。

投稿者 鍛冶や : 2007年06月15日 00:10

 私は図らずも膨大な土地を購入してしまったので、そろそろ、この機械文明を見限って、遠くへ移住しようかと思います。

 みなさん、ご機嫌よう。

投稿者 zenta : 2007年06月21日 16:56

2007年06月06日

まだ休養

 長い風邪が概ね片づき、山積したあれやこれやに取り掛かり始めたところ、何たることか、メインで使っているマシンが壊れてしまった。ソフト上の問題であるならば、じたばたじたばた、齷齪齷齪する余地もあるのだが、如何せん、ハードが壊れた様子で、これでは手も足も出ない。出るのは溜め息ぐらいのものだ。
 慌ててアップルに電話する。電話に出たお嬢さんは非常に丁寧に、そして、ぼちぼちスムーズに対応してくれる。あまりにすいすい話が進むので、非公表だけどMac miniのよくある壊れ方のパターンなんじゃねえのか、と訝られるほどである。いやいや、疑いの心は宜しくない。有能で親切な女性に運良く出会えたのだと思うべき。しかしながら、この出会いは運が良かったとしても、そもそもコンピュータが壊れた時点で運が悪いじゃん。いや、だが、幸いなことに、ぎりぎり一年未満だったから、無料で修理される訳だから、保証期間が切れてから壊れる不幸を思えば、十分に運が良いとも言える。でも、一年未満で壊れるってののどこが運がいいんだよ、あほか、という至極当然の考え方もある訳で……。

 しかし、体調が悪くなると、つられるようにMacも調子悪くなるよね、などということを思う連中が数多存在する。全く以て、ばかげた非科学的な迷信に過ぎないわけで、Macの信者はしょうがねえなあ、と思う。そうは思うものの、まだ体調が万全じゃないんだから、もう少し休んだ方がいいよ、というMacの思いやりなのではないか、などと考えなくもない私も、やはり、立派なMacの盲信者なのでありましょうな。

 兎にも角にも、復活したマシンの到着を待つばかり。急ぎの案件、連絡などをお待ちいただいている諸兄、今暫くの御辛抱をお願い申し上げます。

投稿者 zenta : 08:54 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月30日

風邪をひきました

 ぞくぞくっとして、これは風邪の予兆に違いない、と思い、早々に床に就いたのは先々々週の土曜。予感は全く正しくて、日曜朝からくらくらでどうにもならない。ひたすら大人しく日曜を過ごし、週明けの午前中、とっとと診療所へ。診てもらったところ、風邪です、ってことで、薬をもらって帰宅。安静。

 こないだ、饂飩なんざ病人の喰いもんだ、なんてなことを書いたから、んじゃあ、病人になってどんどんうどんを喰ってもらおうじゃねえか、おらおら、という、うどんの神様の八つ当たりの所為に違いない、などと軽い譫妄状態。枕頭に現われ出でたるうどんの神は、ハクション大魔王が帽子だかターバンだかの代わりに、真っ白でもちっとした饂飩を巻いているような姿。貧困な妄想だ。

 うじうじと床で過ごし、うどんの神様に詫びる心で素うどんを喰い、薬を服む。そんなサイクルで暫く過ごすも、病状はなかなか快方に向かわない。当初は微熱やら関節痛が主だったのだが、それが和らいできたと思ったら、今度は激烈な咳、咳、咳。発作的に出始めると止まらない。咽喉内が千切れて血が噴き出すのではないか。そんな勢い。ま、本当に血が出たりはしなかったけれどね。
 止まらない咳てぇものは、何とも苦しい上に、著しく体力を消費し、よく眠れんし、結果、気力も衰え、私はするめのように干涸びてへれへれになって力なく横たわるのみ。哀れなり。ああ、哀れなり。

 気力が沸かないとはいえ、しかし、するめのままで生涯過ごすわけにはゆかぬので、ぺろんぺろんの身体で自転車に跨がり、風に吹き飛ばされそうになりながらも診療所を再訪。こんどは咳をターゲットにした薬をお願いする。
 なるほど、薬が効いている間は、咳の頻度もヴォリュームもそれなりに抑えられる。おかげで、すやすやと眠ることも叶い、あれこれが上向き。結構。
 けれども、なおも微熱は続き、微咳は続き、微関節痛は続き、微偏頭痛は続き、って、あらゆる症状がしつこくしつこく付き纏い、結局、ほぼ完治の状態に至るまで、二週間以上、十七、八日もかかってしまった。いやあ、風邪も侮れんよ。いや、ほんと。

 普通の生活に復帰するとなると、やらなきゃらならんことが山積。この鬱陶しい現実に眩暈がして、風邪はなおったのにくらくらですよ。ああ、どこからどう片付けてゆけば良いのやら……。

投稿者 zenta : 20:04 | コメント (1) | トラックバック

ご快癒なによりです。饂飩も侮れませんのですなあ。

投稿者 shachi : 2007年05月31日 01:44

2007年05月09日

うどんとそば

 東京人というものは蕎麦を喰うのだよ。饂飩なんてのは、関西だとか四国だとか、とにもかくにも、何となく"以西"な気配のある食べ物ではござんせんか、などと狭い心で思っている私である。
 だって、ほら、出前を取る時でも、ちょっとそこらで飯でも喰うかってな時でも、小さい頃から「おそば屋さん」「蕎麦屋さん」という呼び名で慣れ親しんでいる店はたくさんあるけれど、「うどん屋さん」というのはなかなかみかけないでしょ。今でこそ、たまにそんな店に出会すこともあるけれど、ほとんど間違いなく「本格関西風」だとか「讃岐」だとか銘打たれているのであり、単なる町のうどん屋さんというものは少なくともうちの近所には存在しないと思われる。あったら御免。ま、謝るほどのことではないような気もするが。
 そうですか、それじゃあ、東京の人、少なくとも、杉並界隈の人々てえのは、うどんが喰えなくて可哀想ですなあ、と心配頂く向きもあるかもしれんけれど、御無用で御座る。町の蕎麦屋さんというところの大半ではうどんも供してくれるのですよ。うどんが喰いたい人も蕎麦が喰いたい人も蕎麦屋に入れば宜しい。で、まあ、席について、品書きを眺めて、さて、何にしようかな、と悩んで、結局、板わさとお酒を注文してしまったりするわけだ。
 いやいや、そういう話ではなかった。蕎麦屋でうどんもオーダーできますよ、という話。けれども、そもそも私は圧倒的に蕎麦が好きなので、冷たいのもあったかいのも蕎麦。百パーセントに近く蕎麦を誂えるのであります。
 ここで細かいことを気にする読者は「百パーセントに近い」ということは「百パーセントではない」という意味だな。この野郎、蕎麦蕎麦蕎麦蕎麦言ってるくせに、こっそりうどんを喰う時もあるに違いねぇ、なんて。いやいや、御明察。そんなあなたの推測は全く以て正しい。蕎麦っ喰いの私だとて蕎麦ではなくうどんを喰いたいって時が稀にあるのであります。どんな時かというと、病気あるいは二日酔いのおり。肉体的に弱っている時には、素うどんを欲するのです。何を隠そう、今日の昼も素うどんを喰いましたよ。病気ではない方の理由で。食後、少し、気持ち悪さがぶり返したような気がしたけれど、もう大丈夫、大丈夫さ……って、自己暗示。

 うぎゃぁ、ブオーッ、ブオーッ、て光化学スモッグ注意報発令だって。毎度のことながら、宿酔ヘッドには辛い、嫌な音だなあ。

投稿者 zenta : 15:36 | コメント (0) | トラックバック

2007年05月02日

グルグル・アース

 連休の中休み的な本日、たまにはちょっとそこらを回ってこようってんで、駒沢を目指し、ここまで来たついでだってんで下馬へ。勢いがついてまいりまして、この際だから一息にジャンプ、なんて叫んで八丈に寄ります。で、しめには小笠原の母島を訪れた。ちょっとした東京観光ですな。
 と申しましても、御存知の通り、柔らかな引き蘢りの私ですから、旅と言っても、グーグル・アースを利用してのものでございます。アレンジで行き詰まって、どうにも気分が乗ってこないなんて時の気分転換には悪くない。地理なんぞには殆ど興味のない私であるけれども、小半時遊んじゃったりして。コンピュータのパワーやネットワークの速度が向上するに連れ、すごいことができるようになったなあ、と思う。こうできることが大事なことなのかどうかって判断は抜きにして。
 あまり脳みそを働かせることなく、マウスでぐりぐり、クリッククリック、ぐりんぐりん、なんてんで、建物を3Dにしてみたり、その上、そいつを傾けたり、びよよ〜んと引っ張ってみたり。何だか目が回ってきたよ。気分転換で疲れてりゃ世話ねーぜ……って、これは実際の休日の外出にも言えることかもしれませんなあ。

 連休に出かけるなんざ、野暮ってもんですな、などと近所のおばさんと世間話をした。昨日のこと。盆暮れ正月黄金週間なんぞに遠出しようなんてのはローカルな杉並人的ではない、なんてことを思うけれども、私は杉並の全ての民を代表するような立場にはない。当たり前だ。なので、あくまでもこれは私見に過ぎない。ま、こんなことはいちいち断るまでもないことでしょうけれども。
 とにもかくにも、高速道でのすんごい渋滞や駅や空港における常軌を逸した混雑を報じるニュースを目にするたびに、日本のみなさま、今年もご苦労様です、と一声掛けずにはいられぬ私であります。お蔭様で、うちの界隈はいつもより少しだけ静かですよ。

投稿者 zenta : 18:49 | コメント (0) | トラックバック

2007年04月25日

わが祖国

 ここだけの話ですが、私はスウェーデン王家の落とし胤の成れの果ての一つでやんして……そんな自己紹介をしたことが幾度かある。その度に、いろんなものを買ってきましたよ、失笑やら顰蹙やら。そんな反応にちょいと寂しいような情けないような気がしたりもしたけれど、そものそもが、自分が嘘をついていたことに問題があるわけであり、しかたがない。ああ、しかたがない。
 縁もないのにスウェーデンなどと称したりしてすんませんでしたなあ。私の本当の故郷が水の都であることに、引っ掛けた、水エデン(すいえでん)、というしょうのない駄洒落でね。阿呆阿呆のてれつくてんてんな私で、本当に申し訳ありません。

 とうとうみつかってしまったので、白状するけれど、私の本当の母国はグリーゼ581の周りを回る惑星の中の一つなのですよ。近頃、新聞なんぞで話題になった、あれです。
 ここからだと、R1Zを良い調子で飛ばしていっても、結構かかってしまう。何せ20光年も離れておるのでね。遠いけれども、水もあるし気温もぼちぼちだし、悪くないところだから、君たちも一度遊びに来たまえ。着いたところで門番に「地球から来たんですけどぉ」などと言ってもらえれば、ああ、王子様のお友達ですか、ささ、こちらへ、ってんで、うちに案内してもらえると思います。
 狂牛病だの温暖化だので地球も随分ばいやーな感じになってきておるから、何だったら、いっそのこと越してきちゃってもいいかもね。桜で花見ってわけにはいかないけれども、一年がたったの13日しかないので、最初の一週間は新年あけましておめでとうってことで呑めるし、最後の七日はもう今年も終わりますなあってことで呑めばいいし、要するに、年中無休で呑み続けてりゃいいわけで、って……

投稿者 zenta : 14:41 | コメント (2) | トラックバック

581cですね僕は他の星系なんだけど581cは住めないょ惑星の出来上がる工程がちがうんだょ?      出来上がる時間が長くても短くても駄目だし空間に色々な原子が有りすぎても駄目なんだ?       偶然では惑星や恒星は出来ないし一つの銀河に少ない数しか出来ないんだ?  渦の中の端、それもかすかな部分で惑星どうしがぶつからなく決まった原子が集まる部分があるんだ惑星によっては水素や硫酸しか持たない星、氷しか持たない星、様々なんだその恒星や惑星が出来る部分は縦と横に五角形や六角形になるんだその部分が同じ型の星が出来やすい部分なんだ、しかし僕の惑星は酸素が沢山有りすぎて細胞の出来上がるプロセスが違うし人間の形をした別の生きものかな僕の星は………?

投稿者 ランダムMK : 2008年12月05日 19:48

581cですね僕は他の星系なんだけど581cは住めないょ惑星の出来上がる工程がちがうんだょ?      出来上がる時間が長くても短くても駄目だし空間に色々な原子が有りすぎても駄目なんだ?       偶然では惑星や恒星は出来ないし一つの銀河に少ない数しか出来ないんだ?  渦の中の端、それもかすかな部分で惑星どうしがぶつからなく決まった原子が集まる部分があるんだ惑星によっては水素や硫酸しか持たない星、氷しか持たない星、様々なんだその恒星や惑星が出来る部分は縦と横に五角形や六角形になるんだその部分が同じ型の星が出来やすい部分なんだ、しかし僕の惑星は酸素が沢山有りすぎて細胞の出来上がるプロセスが違うし人間の形をした別の生きものかな僕の星は………?

投稿者 ランダムMK : 2008年12月28日 06:48

2007年04月18日

本能ってやつ

 我が家に二匹の猫がいることは御案内の方も少なくなかろう。一匹は2000年梅雨生まれのちょいでぶ猫。もう一匹は2006年秋生まれの、今のところ、ちょいでぶではない若猫。どちらも近所に捨てられていたものである。多少の差こそあれ、共に飼い猫化しており……って飼い猫なのだからして当たり前と言えば当たり前だが……野性を失ったかのように思える場面が多々。その一番は肥満ですな。自然界では肥満猫や肥満ライオンなどというものがある筈はない(多分)。夏場など、ひっくり返って腹を出して寝呆けおる姿などを目にすると、こんなことでいいのかね、と思うものの、憎めぬものよのぉ、などとも思い、まあ、要するに、ばかな飼い主の典型である。腹が減ったら、狩猟に出かけるのではなく、人間につきまとってにゃぁにゃぁにゃぁにゃぁとくどくどしく鳴き立てたり、出された喰い物が気に入らなければ、ふんっとそっぽを向く。こんなことも飼い猫としてのうのうと暮らしている故のものであろう。

 然りながら、彼女たちの中の野性がすっかり消えてしまったということでもない。暖かくなってきた昨今、御用じゃ、御用じゃ、捕物じゃあー、と、彼女たちはなかなかに忙しい。
 でぶ猫様の方は、ネズミのみならず、ヤモリやカナヘビなどの這い回る系に加えて、ヒヨドリ、ムクドリ、メジロにコウモリなんぞの飛び回る系をも捕獲する。頭のちょい悪なちび猫くんの方でも、ゴキブリやミミズ、芋虫、ガガンボなんぞをくわえて勇んで帰ってくる。生後七日、わずか300グラムの時から人間の手によって育てられているのに、である。
 ゴキブリやコウモリが家の中を飛び回るとなると心の余裕などまるでなくなるし、他のものたちに関しても何とか生きているうちに逃がさねばならんという使命感もあり、家の中はどたんばたんと大騒ぎになる。獲物と猫と人間が狭い家の中を駆け回るわけですから。
 一段落したところで、まったく阿呆猫どもは余計なことばかりしてくれるぜ、などと、些か憤慨してみたりすることもないではないが、考えてみれば、これは彼らの持って生まれた本能によるものであり、猫を憾むのではなく、文句ならそのように連中を作った神に言うしかない。尤も、神というものがおるのかおらぬのか、あるいは、いたのに死んでしまったのか、寡聞にして我輩は存じ上げませぬけれども。

 四月も半ばだというのに、本日はいやに冷え込む雨模様。おかげで猫たちは家に籠もりきりである。今日は捕物騒ぎは起きそうにない。やれやれ。

投稿者 zenta : 16:48 | コメント (1) | トラックバック

「猫のゆりかご」の作者への思いを綴った文章、期待してます。

投稿者 guffaw : 2007年04月21日 10:07

2007年04月11日

君は選挙に行ったかい?

 前評判では75%の有権者が投票に行くのではないかと報じられた瞬間さえあった都知事選挙が終わった。私は午後からは多忙であったために、朝一で母校に足を運び、票を投じた。で、昼過ぎからは、残り桜で花見である。そんな多忙かよ。また花見。まだ花見。兎にも角にも、桜舞い散る中、がんがん呑む。がんがん呑みつつ、その合間に小学生と蹴球ごっこなどしたもので、泥酔甚だしく、かなり早い夜から役立たずと化した。ま、いいんだけど。

 阿呆な政治家、悪な政治家が蔓延る主因は国民が阿呆だからであるというようなことを度々書いた。阿呆な国民が阿呆な投票(あるいは、阿呆な不投票)を繰り返すから、阿呆な連中、悪な連中がのさばるんじゃい、と。例によってへらへら風味だったかもしれんけれど、実際問題としてはかなり絶望的な気分で書いたのでありました。
 さて、そして、また選挙。既にして失望しているのなら、どんな結果になろうとも、この国の人々てぇのは相変わらず阿呆ですなぁ、と思うぐらいで、憤慨や悲嘆などというものが沸き起ころうはずはないよね、なんて思っていたのだが、然ならず。翌朝、宿酔のくらくらヘッドで結果を目にして、もう一段深い失望に陥った。絶望というにはまだまだ私の嘗ての失望は足りなかったのでしょうなあ。ははははは。

 慎太郎とかいう手前勝手なじいさんをみんなはどう思っているのだろう。私は全く好きになれません。仮に、個人的に知り合って、高い酒や高い飯を公費で奢ってもらったり、高い旅費や高い宿泊費を負担してもらって海外を公費で豪遊、自称アーティストの私に魂消るような高いギャランティーを公費で支払ってくれたとしても、それでも、あのおっさんとは仲良くなれないだろうな、と思う。そういう直感。ま、私の好みというのは偏っておりますからね、世間の人とはずれがあることは認めますよ。認めますとも。然りながら、選挙の結果をみると、あのじいさんがいい、野郎でかまわん、という人があんなにあんなにあんなにたくさんいたんですぞ。いやぁ、驚いた。東京ってところも随分な所になってしまったものだ。いやぁ、本当に驚いた。っていうか、これを読んでいる大半の人が慎太郎に投じていた可能性があるわけで、そう思うと、何となく微妙にへこたれる私がいます。何なんだろう。あはあはあは。

投稿者 zenta : 19:42 | コメント (2) | トラックバック

江戸時代に完璧に風水で押さえていた所に、ビルとか建てちゃったりして、結界がバシバシ切られているという様な事を最近読んだので、その影響も有るのでせうかねぇ。

投稿者 flint : 2007年04月22日 04:19

 かもしれませんなあ。
 人工物がどんどんどんどん世界を壊しているってことはありましょうねえ。
 こうやってキーボードをかたかた叩いているのも、突き詰めれば自然破壊へ繋がるんだろうなあ、などと思い始めると……

投稿者 zenta : 2007年04月26日 14:49

2007年04月04日

辻褄2

 辻褄が合わないのが現実世界。自然界で生きる上で辻褄がきっぱりあったりしたら、その方がおかしいぜ、なんてなことを思ったりもしなくない。
 けれども、こういうところはきっちりしてもらわなきゃ困りますがな、ということも、世の中にはたくさんある。

 デアゴスティーニというところから『週刊アーティスト・ジャパン』というようなシリーズが出ている。日本絵画の巨匠様々60人というような触れ込み。ちらっと広告を眺めたところ、蒔絵のデザインのアイディアを求めるには悪くないな、なんて思って購入を始めた。忘れた頃に次の号が届くのもいいし、有名どころの有名な作品は一通り収められるのだろうし、運良く何か拾い出せれば儲け物、ぐらいのつもり。不勉強な私にはお手頃かもね、なんて。
 で、ぱらぱらと数冊が集まったところ、専用のバインダーというものも購入してみた。いやあ、これがいけません。酷い作りでね。大変苦労してもきちんとは収まらず、冊子を傷めてしまう。私が不器用なせいかもしれんからなあ、と家人にも試してもらったが、やはり、話にならない。こんなものが商品として罷り通るのかね、と疑問に思い、読者サポートのようなところに電話してみると、「多少はきつかったりするかもしれませんが、社内では問題は発生していないし、他のお客様からの問い合わせも一切ありません。問い合わせがあった、ということは製作設計のほうに伝えます」と電話を切られそうになる。自信満々の様子であります。正直な話、そんなに胸を張って自社の製品を自慢できるなんて羨ましいなあ、と思ったほどである。しかしながら、私の手元にあるものは、そのような彼女の態度とは裏腹に、どうにもこうにも使い物にならない代物。

 こういう場合、どうやってお互いの心情、事情の辻褄を合わせるのが正しいのだろうか。高い代物ではないんだから、なかったことにしてしまうべきだろか。いやいや、過ちは過ち、先方の将来のためにも正すべし、とも言える。しかし、効率を重視するならば、こんなところで時間や労力を消費している場合ではない……などなどと。
 確かなことは、こんなことを頭の中でくるくる考えているだけでも、不毛な精神エネルギーの甚大なる浪費。その結果、私は今日一日のやる気を失って、かったりぃなあ、などと嘯きつつ、酒に逃避する。


……というようなことではいけません。

投稿者 zenta : 11:18 | コメント (0) | トラックバック

2007年03月28日

能登半島地震

 能登半島で非常に大きな地震が起きて、大変な被害を齎している。ニュースで一報を目にしてから、あの一日は、付き切りというと大袈裟に響くだろうけれど、そんな気持ちでテレビやインターネットを注視し続けた。
 杉並というローカルな世界に閉じ籠もっている私だが、輪島には蒔絵師である友人がおり、彼を起点としていろいろな蒔絵師、塗師、沈金師の人々とのつきあいがある。直接足を踏み入れたことはないものの、私の中では輪島というのは特別な大きさを持った存在だ。その町が激しく揺すぶられた。物理的な揺れが治まったあとでも、心理的な揺れは続いている。疲弊した人々がぐっすりと眠れる日はまだまだ先になるのだろうか。

 件の友人から無事を知らせる連絡を受けた。ほっとした。僅かなやり取りだけれども、そこから感じ取れるものはたくさんあった。物は壊れても、技術や藝術や人の心が壊れたわけではない。一休みすれば、彼はまた素晴らしいものをどんどん作ってくれるさ、と。

 テレビで見た一言、「じっくりとということになろうけれど、輪島塗の伝統は復興できるので、その点は心配ない」というような。漆器組合の人だったろうか。ここに大きな救いがある。たとえ、建物が壊れ、道が割れ、水や電気が止まろうとも、人が失われさえしなければ、人はまた立ち上がる。心はまた立ち上がる。文化はまた立ち上がるのだ、ということ。

 自然の前では人間は無力である。けれども、同時に、人間というのは存外しぶといもので、輪島の文化はじわじわと復興してくるに違いない、痛みを知った分、より強くより美しい何かを加味して。
 そう、大丈夫だ。

投稿者 zenta : 21:06 | コメント (1) | トラックバック

「災害の地にもやがては桜かな」

投稿者 guffaw : 2007年03月30日 02:54

2007年03月21日

御用の方は

 近頃いやに呑む用事が多い。厳密に言えば、呑む用事なんてものはないわけで、ちょいと打ち合わせで人と会う。すると、まあ、一杯ってことになりまさぁね。ちょいとライヴを観る。んじゃ、まあ、一杯ってことになるのは当然。ちょいと友だちの家にお呼ばれする。そりゃ、まあ、一杯ってことに……という具合であり、厳密には呑む用事などというものはないことは明々白々であるけれども、感覚としては、近頃、何だか呑む用事が多いなあ、という気がするわけで。
 で、呑むとどうなるかというと、そりゃ、酔う。酔います。アルコールを摂取すれば酔う。これは当たり前のこと。どうということはない。誰にでもできる。難しいのは程好く酔うってことですよ。先日もちょろっと書いたけれど、どういうわけか、私は程好く呑むということができない愚か者なのであります。呑み過ぎるか、すごく呑み過ぎるか、あるいは、ここ暫くは酒のサの字も聞きたくねえぜってほどに呑み過ぎるか、はたまた、呑んだ量より吐いた量の方が多いのではないかというほどに呑み過ぎるか……というようなことになる。で、ごく稀に、呑み足りないなあってことが挟まるってな感じ。

 先日、またもやちょろっと呑み過ごし、友だちんちに携帯電話を置き忘れてきてしまった。まあ、考えてみれば、ちょっと前までは携帯電話などというものはこの世に存在しなかったものなのであるからして、そんなものがなかろうと本当の意味では困ることなど、当然、ないのである。件の友だちんとこに電話して、私は携帯電話なぞ使用しなくとも全く困らないので、君、すまんが暫く預かっておいてくれたまえ、と頼んでおいた。何だかすっきりした。ちょっと昔どころか、もっと昔には、固定電話だってなかったわけで、用事があれば、手紙を認めていたのであります。そうだ、ついでだから固定電話も外しちまえってことで、おお、ますますすっきりした。妙な達成感。この際だからってことで、メールも使えなくしちまおうってんで、光の回線を根元から抜いてやったぜ。はは、すっきりすきすき、ああ爽快ってなもん……なんて、書いたところで、この文章がここに掲載されている以上、回線を抜いたなどという話はでっち上げだということは、これ歴然。

 いや、しかし、携帯電話を忘れてきてしまったってのは本当のことなので、ここ暫く手元にはない。何度かけても出やしねえじゃねえか、この野郎、拒否ってんのか、クソクソクソガキがぁ、などと御立腹なさらずに、用事がある方は筆を執り、手紙で御一報下さいますよう、お願い申し上げます。

投稿者 zenta : 06:06 | コメント (0) | トラックバック

2007年03月14日

辻褄

 もはやマスターではないが未だについついマスターと呼んでしまう友人というか先輩のような人から電話があり、底辺と高さがわかっている(直角)三角形の斜めの線の長さを知りたいんだけど、どうしたらいいんだろう、と質問された。
 底辺を二乗して……という具合に教えていき、出てきた答にルートをかけるんですよ、などと。黒板がないとちょっと不便なものでありますなあ。手元に電卓があるというので、結局は、その操作法を伝えることで決着。だらだらと小数点以下が続くのが気にならなくもないようだったけれども、取り敢えずは、ちゃんちゃん。
 それがどう用をなすのかはよくわからないのだけれど、これで計算してみるよ、ということだったので、少しは役に立てたのであれば幸い。

 そう言えば、随分昔、大工の棟梁から三平方の定理と三角関数を教えてくれ、と頼まれたことがあったなあ。きちんと計算できると相当に便利なのだ、というような話であった。
 ルートやサイン、コサインなんてことをあれこれする場合、たいていの場合、きっぱりした数字になりはしないわけで、几帳面な彼としてはすっきりしない気がするようであった。心情的にすっきりしなかろうとも、右下の材木と左上のそれとを斜めに繋いだり、妙な角度で二本の木材をくっつけたりせねばならない現実が存在するわけで、このコンマ何とかかんとかの端数を云々……などと固執することなく、当否は別として、辻褄を合わせなくては家は建たない。

 計算通りにびしびしに辻々褄々が合ったりはしないのが、この現実世界。論理の細部を丸めて、合ってはいない辻褄をやりくりしてその場を凌ぐ。柔軟と評すべきか、いい加減と言うべきか。大雑把な懐。ばさっとつかむ感覚。凄いような、狡いような、美しいような、単に雑なだけのような。兎にも角にも、人間が得意とするところでありましょうなあ。

投稿者 zenta : 10:26 | コメント (0) | トラックバック

2007年03月07日

新記録かもしれない

 近所の友だちんちで、軽く呑む……つもりだったんだけれど、調子に乗ってずるずると居続け、終いの方では、些か脂っこい話に巻き込まれる形となり、時計を見れば六時。自転車を漕いでいるうちに陽が昇る。
 何だかんだ言っても、無事に家に辿り着けて、ああ結構、結構。しかしながら、泥酔甚だしく、横になれば少しはうとうとするものの眠れはしない。阿呆である。そのうちにじわじわと気持ち悪さが増してきて、やがて悶絶。阿呆である。床の上で反転を繰り返す。阿呆である。取り敢えず、体内のアルコール濃度を薄めなくては、と、水をがぶ飲み。がぶ飲みし過ぎて悪心が増す。阿呆である。しかしながら、このまま頑張っていれば吐かずとも何とか凌げるのではないか、という気がするもので、輾転としながら、録り溜めてある映画や落語を眺める。しかしねえ、こんな状態では楽しめるはずなどない。阿呆である。うぐうぐ。

 昼近くになって、何か少しぐらい食べた方がいいかな、という気がしてきたものの、いやいや、水以外のものを摂取したら吐くこと必至ではないか、と推測され、食事は中止。只管にだらだらごろごろずるずるごろごろを繰り返す。阿呆である。
 そして、四時。転機が訪れた。突然、猛烈な嘔吐感に襲われ、堪え切れずに吐く吐く吐く吐く、吐く。体内の全ての水分を放出し尽くすのではないか、という勢いで。ついでに、鼻水と涙もごっちゃになって。
 一段落したところで、嗽をしたら、水がいやに甘く感じられた。最後の方は胃液ばっかりだったものなあ。

 酒に弱いというのは哀しいもの、吐いたからといってすぐに立ち直れるわけではない。気持ち悪さは軽減したものの、まだまだ正常な生活に戻れるはずもなく、とうとう八時過ぎまで床でごろごろ反側反側。ああ、これは宿酔の最長記録かもしれん。実に恐ろしきはお酒様の魔力よのう、と呟いたところで力尽きた。

投稿者 zenta : 15:10 | コメント (5) | トラックバック

これは笑いましたよ。
うーん、もしかすると本当に「阿呆」ですか?
どこか壊れているに違いありません。

小生の場合、宿酔で気持ち悪く、夜まで何も食べられないということは、20代にはしばしばありました。

最近、酒に強くなったかと思っていたら、また弱くなりました。去年の今ごろは紹興酒を1本飲んでもケロッとしていたのですが、今はとても無理。もし頑張って飲んでも、翌日悶絶するに相違ありません。酒とは不思議なものです。

ところで、文中の「只管」が読めず、辞書で調べたところ、「ひらすら」と読むのですね。勉強になりました。みんなも読めなかったと思いたい。

投稿者 りんご : 2007年03月07日 18:06

>もしかすると本当に「阿呆」ですか?

 そう申しておる人間が我が家にも数名おります。
 その一方で、賢者をも阿呆にしてしまうとは、お酒様の威力とは何とも恐ろしいものであることだなあ、という見方をしている人間も一人いることを付記しておこう。

投稿者 zenta : 2007年03月07日 19:21

昨夜、缶ビール(350mL)を4本飲んだら今朝ちょっと気分が悪く、正午まで寝てしまいました。
会社に着いたときには13時半を過ぎていました。

お酒様とは、げに恐ろしきもの。

投稿者 りんご : 2007年03月08日 23:19

うちにもアホなら1人。

投稿者 quilt : 2007年03月09日 00:37

>うちにもアホなら1人
のアホどえーす。
しかし、高校時代にも朝一杯引っ掛けないと登校する気になれなかった私としては今更アホと言われても軽い眩暈に似た戸惑いを覚えてしまいます。
大体人間の発明品で酒と煙草に勝るものが有るんでしょうか。有るって言うなら挙げてみてください。(インスリンはまた別な話よ)
このブログを見たってお酒の話だと盛り上がってるでしょ?これだけでもお酒がどれだけ人を幸福にするのがわかるじゃない。嗜好品は全て人を幸福にするものでなくてはならない。ヘロインではこうはいかないし、たとえば米中首脳会談で会食中、カミソリで刻んだコカインを鼻で啜りながら会食してる風景なんて想像できますか?やはりここはマオタイ酒でなくてはいけません。そんな訳で、お酒に関しては長くなるのでまた稿を改めて。

投稿者 guffaw : 2007年03月10日 09:10

2007年02月28日

タミフル

 タミフルを服んで亡くなってしまった人々が54名。そのうち年少者16名。厚労省では、年少者の異常行動と服用との間に特別な因果関係は見られない、との発表。「今のところは」という言葉が行間に隠されているのではないか思ってしまうのは私だけだろうか。疑わしきは罰せず、ではないけれど、命に関わることであるのだから、疑わしきは服用させず、というぐらいの対応が必要だろう。誰かが身近に監視できる場合にのみ服用可、などというようなことでもよい。
 タミフルに関しては、数年前から副作用があるのではないか、と囁かれてきているけれど、対応があまり変わることなく、結局、また死者が出てしまったわけで、ミドリ十字の例を持ち出すまでもなく、こんなずるずるだらだらな対応こそが薬害の元凶なのではないか。人というものは過去の経験から何も学ばん、阿呆たれな生き物なのか。尤もそれは役人や政治家に限ったことなのかもしれないけれど。

 タミフル。おそらくは、Taming Fluなどというあたりから命名されたものなのだろうけれど、これでは、民が震えるタミフルなどと勘違いされてもおかしくはない。年少者諸君、あるいは、身近に年少者を抱える諸兄、お気をつけ下さいますよう。

投稿者 zenta : 20:23 | コメント (0) | トラックバック

2007年02月21日

七不思議のひとつ

 この世には七不思議というものがある。と、まあ、そんなことが言われることがたまにありますな。時代や状況に応じて、取り上げられる根多は変わっていくものの、七不思議という表現は今も続く。狭い地域でのローカルな七不思議などというものもたくさんある。

 先日のこと、軽く呑むつもりながら、あちらこちらに引っ掛かりながら帰ってきたもので、気がつけば酩酊。昏倒するには至らねども。家に辿り着いたは良かったが、明け方から非常に気持ちが悪くなり、眠れもせず、かといって、起きることも儘ならず。むむむむと唸りながら、時間を潰す。阿呆である。
 阿呆である、と思っていたのは、私ばかりではなかった。翌日、家内に、何で気持ち悪くなるまで呑むわけ、と問い掛けられる。ほんと不思議。あたしだったら、気持ち悪くなるぐらいならお酒なんか飲まない、と明言。お説、御尤も。恐れ入り入り。
 私自身も、ほんと不思議、と思ってはいるのでありますよ、何故、適量てぇものを見極められないのか、と。何十年ものつきあいであるにもかかわらず、ああ、今日は丁度良く呑めたなあ、となった例が一度とてない。物足りないか、気持ち悪いか、の二つに一つ。何十年やそこらでは底が知れぬほど、お酒様の世界は深いのか。あるいは、私の知恵が浅いのか。
 孰れにせよ、私はこの謎の現象を全太の七不思議のひとつに数えることにいたそう。

投稿者 zenta : 19:55 | コメント (0) | トラックバック

2007年02月14日

流行り廃り2

 また、流行り廃りの話かよ。そんなの流行りませんよ、旦那、と仰る向きも御座ろうけれども。

 イケメンという言葉がありますな。未だにぼちぼち耳にする。まず、その言葉自体が気に入らない。ほな、あんさんならどない言わはるの、などと偽京都弁で質問されたとするなら……って、まあ、代替すべき言葉がみつからないのであるけれど、イケメンなんて言葉は気に入らないのであります。
 そして、その近頃のイケメンたる対象人物たちの御面相にも納得できずにいる私がいる。例えば、中田(ヒデの方ね)って、もはやイケメンなのですよね。釈然としない。例えば、韓流、例えば、ジャニーズ系……と考えていくと、思い浮かぶその大半には全く同意できないですなあ。

 では、あなた様にとってのイケメンとは何ぞや、との問いには如何に答えるかというと、私が考えるイケメン……ああ、いけねえ、自分で使っちまった……外貌の素晴らしい男性というのは、ジュリーですよ。カールスモーキー石井ですよ。ああいう、何というか、些かいんちきくさいような、何ともバタくさいのがね……って、ここまで書いてきて、結局、そんなことはどうでもいいことだよなあ、と書きつぐ意欲を失って。

投稿者 zenta : 18:50 | コメント (0) | トラックバック

2007年02月07日

流行り廃り

 いつの時代にも世に流行り廃りというものはあるものなのでしょうかね。情報の受け渡し速度が進むに連れて、何だかわからんうちに、あっという間に流行る(あるいは、流行っていることになった)ものが増え、そして、凄まじい勢いで、消えていく。たいていのものは何故こんなもんが流行るんじゃいな、と思わずにはおられぬもののような。
 昨今のものの中で不思議だなあ、と思うもののひとつが「ちょい悪」というもの。近頃はちょい下火になりつつあるか、という印象だが、ちょい前までは、ちょいちょい耳にせずには日が送れぬ、というほどでありました。「ちょい」なんて頭にぶら下げているところが何ともいやらしい。男らしくねえぜ、なんてことを言うと、差別的との謗りを頂戴する破目になるのかな。よくわからない。
 人口に膾炙されておるのだから、さぞかし、流行っておるのだろう、とは思うものの、なぜか、私の周辺には「ちょい悪」系のおっさんはちっともいない。不思議だなあ。金鎖、金髪、金時計の「ちょい」の取れた「悪」ならいるけれどね。
 「ちょい悪」「ちょい悪」と言っても、悪いのは頭だということであれば、そういう者は身近にも少なからずおるし、悪いのは性格だといういことであれば、私もその一員に入れそうではある。しかしながら、所謂『レオン』的な「ちょい悪」はとんと見かけない……と、書いたところで、はっとした。俺ってば、『レオン』なんて一度も眺めたことすらないじゃん。もしかしたら、「ちょい悪」の定義を根本から間違っている可能性があるではないか。まあ、でも、問題ないっしょ。すぐに廃って、みんな忘れちゃうんだから。

投稿者 zenta : 19:17 | コメント (0) | トラックバック

2007年01月31日

事務処理だってちゃきちゃきやるぜ。

 あれこれとやらなければならんことが溜まって溜まってしかたがない。ま、世に言う貧乏暇なしってやつ。貧乏暇なしってのは、貧乏だから暇がないのか、貧乏なのに暇がないのか、どっちの解釈が素敵かしら、ううむ、などと、漠然とくるくる考える。こんな愚にもつかぬことを玩んでいるから、気がついてみれば、鯔の詰まって、うわわわわ、あれもこれも、どれも片づかん、どうしたらいいのだろう、うぎゃぁ、などということになるのであります。このばかたれが。

 私、自分では、俺様ってば、やる気になれば、実務もしゃきしゃき理路整然、ってな人間である、と思っていた。事務処理能力は高いんだけれども、やる気がしないから、結局、あれもこれももやもやしたままになり、霧の中を手探りで歩く毎日になってしまうのですなあ、ははははは、なんてな風に思っていたのである。
 ところが、父の著作権関連の事務作業であちらこちらに電話していたら、その思い込みがぐらぐらと揺れ始めた。理路整然たるはずの我が頭脳の理解を超越した奇々怪々な契約や未契約などに次々に遭遇するのでありますよ。それに加えて行方不明や忘却が絡み合い、はたまた登場人物たちの各々の立場による理解の違いが錯綜し、結果として、あたしゃ、ここ二週間ほども迷宮の中をぐるぐるぐるぐるもわもわと歩き続けているのであります。さすがに、目が回ってきた。へこたれてきた。しかし、ここで放り出してしまうわけにもいかず、ああ。

投稿者 zenta : 23:03 | コメント (0) | トラックバック

2007年01月24日

どこかで聴いたことがあるような

 自主制作映画の音楽、十曲強をまとめて書いているところ。取り敢えず、現状はスケッチの段階なので、ぱっと思いついたものを、ちゃりちゃりり〜ん、だの、じゃんじゃんじゃじゃっじゃ、などと鍵盤を叩いてコンピュータにメモしていく。気の向きようでは、リズムを足したり、ストリングスを入れてみたり。そんな具合。
 作業が一段落したところで、順番に聴きながら、ああでもないこうでもない、なんてなことを思ったり、立ち止まって修正したり。何ともええメロディやおまへんか、うちはほんまに天才どすなあ、などと似非京都弁で阿呆な自讃をしたり。結構なことである。ただ、そんなおり、ふと、これって何だか聴いたことないかな、などと思うことがあるのである。そうなると収拾がつかない。どこかで聴いたことがあるのではないか、あるのではないか、あるのではないか、と呪文のように考え出すと、気になって止むことがないし、そんな疑わしきものを発表してしまったら盗作の誹りを受けることになってしまう訳で、大変だ。大変だ。ああ、大変。
 而して、脳みそをフル稼働させ記憶を耕したり、気になるアルバムをひっくり返したり、友だちに電話して唄ってみて、おめだばこったら曲ば知らねか、などと似非津軽弁で質問攻めにしたりして。それでも埒が明かない。気のせいかもなあ。まあ、一息入れますか、なんてんで、珈琲を飲みつつ鼻歌なんぞ唄っていたら、何だよ、よく考えたら前に書いたあさがやんずの曲に似てるんじゃん、なんて落ちだったり。
 自分の曲に似ているんなら、まあ、大きな問題ではない、取り敢えずは、良かった、良かった……とは思うものの、可惜エネルギーを消費してしもうた、という思いもあり、一気にトーン・ダウンして、今日はもう音楽はやめややめややめや、と三連符で三連呼したのち、酒もってこい、なんてんで、昼間から呑んだくれて、もう正月も終わりだなあ、そろそろ「あけましておめでとうございます」で呑むのも仕舞いにせんとお天道様に申し訳ない、などと、愚にもつかぬことを呟いたりして。まあ、しかし、まだ一月だしね。はは、明日も、おめでとうございます、と言ってみよう、なんて。

投稿者 zenta : 10:05 | コメント (0) | トラックバック

2007年01月17日

携帯でweb

 携帯のへっぽこな機種からでも読めるようにしやがれ、という要望が、読者からのみならず、複数のからすライターやからす特派員からもあがってきたので、「からすの今」はリニューアルして携帯対応版になった(多分)。さて、どうですか、読めてますか。全キャリアの全機種でのチェックなどできるはずもないし、そもそも私の携帯はwebなど見られるようになってはいない。今まで一度としてその必要を感じたことはないし、今後もないんじゃないかなあ、などと思っているけれど、まあ、コンピュータやインターネットの界隈の進化の速度や方向は、予想を裏切ることも屡々なので、絶対にない、とも言えませんか。とにもかくにも、携帯でのテストは一つも行なっておりませぬ。で、どうよ。大丈夫かね。

 webの制作では、どの程度の汎用性を持たせるのか、つまり、古いマシンや数の少ないブラウザなんぞをどのくらい切り捨てますか、というところがポイントというかネックというか、そんなことになることが少なくない。これに加えて近頃じゃ携帯対応サイトにしてくだせえ、という注文が来たりするわけで、自分じゃ携帯でwebを見られもしないのに、机上の知識のみで制作はしてみました、大丈夫かしら、おほほほほ、というような事態も生じていて、何だか自分でもふわふわした心持ちでちょっと気持ち悪い。しかし、全ての可能性を試すことは端から無理なので仕方がないと言えば仕方がない。

 携帯サイトを作ってみて、一つだけ確信したことがある。みなさん、御注意めされ、ということ。いとも簡単に電話をかけさせることができるサイトが作れてしまうし、かかってしまえば、先方に番号が判明してしまう。すると、当社ウェブサイトの御利用料金の支払い期限がきております、などという詐欺ものの電話がかかってくる、ということは簡単に起きうる話であります。ま、結局、その手の怪しい督促は無視してりゃ済むそうではあるものの。

投稿者 zenta : 11:24 | コメント (0) | トラックバック

2007年01月16日

携帯対策で

 携帯だと読めねえじゃねえか、この野郎、という要望があるということで、急遽、「からすの今」を新しくしました。
 これで各キャリアで読めるようになったのではないか、と祈念しつつ……。

投稿者 zenta : 16:19 | コメント (0) | トラックバック