2007年01月10日

正月には呑む

 正月には呑む。わざわざ書くほどのことではない。当たり前のことである。これには異論はあまりあるまい。朝から呑み、昼にも呑み、夜にも呑む。そういうもの。
 さて、では、こんなことをいつまで続けていて良いのだろうか、と考えるに、いつまででしょうね。こうなると、世間と私、あるいは、世間と呑み助との間には、大きな溝ができる可能性がある。
 ちなみに、我が家では、四日の朝、席について、自分の分だけ日本酒をコップになみなみと注ぎ、さあ、いただきますか、というところで、おめでとうございます、と言ったところ、もうおめでとうじゃなくていいんじゃないの、という意見を頂戴した。数秒考えたのち、まあね、などと答えた私である。
 確かに、三箇日という括りが世の中にはあるわけで、四日目にはもうお屠蘇気分ではなかろうもん、という考え方があるのは致し方ない。然れども、松の内という言葉もあるわけでありますよ。辞書なんぞに当たれば、近頃では七日までを、昔なら十五日までを指す、などというようなことが書かれている。私てえものは、こう見ぇても昔気質の人間でござんすからね。当然のこととして十五日までを松の内と認定致します。世間と言わず、家族にさえ白眼視されながらも、おめでとうございます、ってんで、盃を、こう、くいっとね、煽るのであります。ああうまい。ふふふん。

 本日もおめでとうございます。
 お天道様の高いうちから呑む酒てぇものは、あれだね、うまいってだけじゃなく、やたらに効きますなあ。すっかり御機嫌な私。御機嫌じゃ。苦しゅうない、苦しゅうない、もそっと近う寄れ……などと猫に呼び掛けてみるものの、無論、相手にされることはない。ま、相手は猫ですからね、などと独り言ちたりしているうちに、うたた寝。して、日が暮れる。ま、これが正月というものなのである。

投稿者 zenta : 18:44 | コメント (0) | トラックバック

2007年01月03日

33%増し

 あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。こんな月並みな挨拶で始めて良いのだろうか。こんな文句を誰も私には期待してはいないのではないか、と思いつつ。

 正月ですからね、まあ、呑んでますよ。はは、今日も朝から呑んでます。一息ついてまた呑んで、また休んでまた呑んで、なんて具合。そういうだらだらずるずるな感じの呑み方が、少なくとも私にとっては、極めて正月的なあり方であり、誰にも文句は言わせん……って、誰も文句なんぞ言ってはいない。

 例によって、日本酒だ、ワインだ、何だ、とあれこれいただいておるのだけれど、弟夫妻が持ってきてくれたにごり酒が三箇日のメインでありました。ちょっとべたつく感が無きにしもあらずだけれど、口当たりが柔らかく、こう、何ですか、和のつまみ、洋のつまみ、華のつまみのどれにもうまいこと寄り添う。なかなか結構。味は結構なんだけれど、問題が一つ。アルコール度数20度なのである。通常の日本酒は、まあ、ざっと15度ほどだろうから、それから考えると三分の四倍、33%増し。なのに呑み口柔らかく、くいっ、くいってなもんで。そして、御想像の通りですよ。度数が33%増しなら、酔いも33%増し。いつもの調子で呑んでいたら、あっという間に、ふらふらくらくらで、炬燵に半身突っ込んだまま眠り込んで、はっと気がつくと、ああ、いつの間にかサッカーは終わったんだなあ、なんて具合。ちょっともやもやした頭を抱えながら、あれこれして、また呑んで、また一休みしてまた呑んで、今に至る……って、一体、私は何が言いたいのだろう。33%増しの酒には注意しなさい、などと言うつもりはないことだけは確かだが……。
 兎にも角にも、陽が昇り陽が沈み、じわじわと正月は終わっていくのであります。

投稿者 zenta : 22:56 | コメント (0) | トラックバック

2006年12月27日

2006年が終わりそう

 間もなく2006年が終わろうとしている。世間では「この一年をふりかえる」的な企画が目白押し。毎年のことで常套化しているということもあるし、実際、こういう限りの良いところで纏めたり回顧したり慰め合ったり罵り合ったり、兎にも角にも一段落してみようよ、という気持ちはわからなくはない。私だってそうしたい。けれども、なかなかそう都合よくはいかないのが世の現実、少なくとも私の現実ってもの。結局、あれやこれやと晦日を跨いで持ち越す案件ばかりの私であります。ま、しかしながら、こういう限りのない霧の中の自分というものも嫌いではないので、不満があるわけでなく。

 さてもさても、本年もおつきあいいただき、ありがとうござんした。そして、来年もおもろいことをやりたいね。そして、たまには、ちょびっとつまらんことなども。

投稿者 zenta : 14:42 | コメント (0) | トラックバック

2006年12月20日

年の瀬の忙しなき

 年の瀬の忙しなさがひしひしと押し寄せる。いややわぁ。

 御存知のように、何時にどこへ、ってことになると、途端にやる気を失いがちな私であるから、普段からあまりきちんとした約束などせず、のらりくらりと暮らし、ばったりそこいらで出会したら、おっ、しばらくだね、一杯やるか、というような、まあ、そんな乗りが望ましい。なんだけれども、そうとばかりも言っていられないのが、人間というもの、社会的存在というものなのでありましょうか。
 で、忘年会のスケジュール調整などする訳ですよ。みなさんのご都合は如何がかしら、などと。あるいは、事前に予定を尋ねられた記憶がないのに、某日某所で忘年会やるので来てちょんまげ、などと一方的に通告されることもある。そろそろ昼飯かってな刻限に、親戚の叔母上が乗り込んできて、行き掛かり上、ささやかな忘年会になってみたり。忘年会の最中に新年会のスケジュール調整始めたりして。

 忙しい忙しいっていうけどさ、結局、呑んでばっかじゃん。そんなことを仰る方もおられるかもしらんけれど、いや、決してそんなことはないんです。呑む以外の用事だってもちろんある。あるんなら言ってみろ、と宣いますか。そんなこと言われちゃこっちも引っ込みがつかん。教えて進ぜよう。猫の注射である。何だ、君、今、鼻で笑っただろう。猫の注射てえものは大したイヴェントなのだぞ。
 もっと、他にないのか、と。あるよ。あるとも。ありますよ。どうしても知りたいというのなら教えなくもないが……ううんと、ええと、単車の修理。また、笑いやがったな。ばかもの。動かなかったら単車なんざ、巨大な鉄屑である。直さないでどうする。あほか。
 もう他にはねえのか、と……君も大概しつこいねえ。そんなことではワイドショーのレポータのおっさん連中と変わらんよ。能書きはいいから教えろ、だと。それが、人にものを尋ねる態度か。まあ、しかし、用事がないと思われるのも業腹だ。教えてやろう。末廣亭だよ。末廣亭。今月末までの招待券があるのである。口開けて笑いやがるとは、失礼な。
 おい、君、どこへ行く。帰るのか。何だよ、他にも用事があるんだぞ。聞きたくないの。ばかばかしいからもう結構だ、とおっしゃるか。まあまあ、ちょっと待ちなさい。まだあるんだから……って、行っちゃったよ。くそぉ、この忙しいのに、あのような愚か者の相手などしなければ良かったわい。

投稿者 zenta : 19:57 | コメント (0) | トラックバック

2006年12月13日

お猫様のワクチン注射

 先週はちび猫のワクチン注射。
 何にでも興味津々のお年頃ゆえ、外出用の籠を目の前に置けば、喜んで飛び込む。閉じ込められてもまだ余裕。肩に背負われて、自転車で出発してもまだ余裕。5分ほど走行し、病院まであとわずかという辺りになって、ちょっと鳴いてみたりするものの、まあ、大したアピールではない。診察台の上ではびくつきながらも注射に脅えることもなく、あっさり完了。で、とっとと帰宅。結構。

 本日は先住のでぶ猫様の番。
 まず、鞄に入れるまでが大騒ぎ。経験上この鞄が出てくるとろくなことはないと知っているのか、あるいは、人間どもの気配から良からぬ企みがあるに違いないと察知するのか。孰れにせよ、大騒ぎですわ。難儀なことよのう、お互いに。
 兎にも角にも、悪戦苦闘して、鞄に収める。この瞬間から哀れな鳴き声が止むことはない。たすけて〜、というような、ね。しかし、そんな叫びに惑わされている場合ではない。行動あるのみ。よっこらしょっと肩にかけると、非力な私には辛いほどのどっしりとした重量感。さすがである。
 泣き言を吐いてもしょうがないので、えっちらおっちら病院を目指してペダルを踏む。図書館に向かう辺りの坂が辛いね。嫌やわぁ。まじくそ息が切れますがな。そんな阿呆な愚痴を零しつつ進む。その間も、物凄い悲鳴をあげつづけるおでぶ様。みなさ〜ん、この人は私を拉致監禁しているのです、助けてくださ〜い、というような。憐れの極限という感じ。擦れ違う人の視線が冷たいのはなぜだ。君、君、君ぃ、私は、君のためを思って、注射に連れて行くのですよ。それを何だい、その悲鳴は。人聞きが悪い。堪忍しておくれなます。などと、ばかな独り言を続けているうちに、どうにか辿り着く。そして、ここで叫びは頂点に達するのである。そのあまりに悲痛な声に呼応して、病院内の他の猫たちも鳴き始めたりして。
 著しく手間取りながらも何とか済んで、家路につく。すると、急に大人しくなるのです。病院に連れていかれるということを察知するだけでなく、もう帰れるのだなあ、ということも理解しているようである。

 孰れにしても、私は精神的にも肉体的にも疲れ切って、おまけに懐具合も少々疲弊して、何なんでしょうなあ、と思わざるをえず。毎年のことだけどね。まあ、しかし、この程度の苦労で、お猫様の健康のお役に少しでも立てるのなら、ありがたき幸せ、と思うべきなんでありましょうな。下々の身とはそのようなものさね。お猫様に使える御同輩の皆様ならお判りいただけましょう。

投稿者 zenta : 19:49 | コメント (2) | トラックバック

家のガキ猫5名様も今月、ワクチンです。
毎年の恒例行事になった大仕事でございます。
猫連よ、来年は風邪ひかないでくれろ。

投稿者 flint : 2006年12月14日 01:45

 五匹かあ。すごいなあ。
 二匹で泣き言いっておる場合じゃありませんねえ。

投稿者 zenta : 2006年12月14日 08:11

2006年12月06日

Life is RE.を観てきた?

 なかの芸能小劇場で行われた扇好師匠の独演会に出向く。大きに楽しんだ。終演後、現場でばったり遭遇した友だち(美女二人組)と卓を囲み、軽く呑む……はずだったのに、調子に乗って小泥酔。駅に向かって歩く彼女たちを背に、私は中野通りを北上。からす新聞とも馴染み深い「kanna」で『Life is RE.』などという展示を行っているということを聞き及んでいたもので。
 店に入ると、件の展示の作者が二人揃ってカウンターに座っていたような気がする。で、おっ、とか、ようっ、とか、要するに、どうでもいいような挨拶をしたんじゃないかと思われる。で、小泥酔に日本酒を追加して大泥酔に変じていったのではなかろうか。ありがたく作品を拝見したであろうし、多分、憎まれ口を叩いたりして楽しんだんじゃないの。きっとそうだ。そうに違いない。

 斯様な具合で、残念ながら、『Life is RE.』の記憶は模糊模糊。まあ、でもですね、何にせよ、無事に家に辿り着いて良かった、良かった。無事なおかげでREがあるってなもんで。

投稿者 zenta : 16:37 | コメント (1) | トラックバック

まあレギュラーと言いますか、リピートと言いますか、無事がなによりっす。

投稿者 shachi : 2006年12月08日 02:20

2006年11月29日

辛みそぐらい?

 普通の味噌250gぐらい、黒糖100gぐらい、水150ccぐらいを鍋に入れて溶かします。ハバネロ15個ぐらいの種とか取って、適当に細切りにして、これを鍋に入れて、掻き混ぜながら中火ぐらいで沸騰させて、10分ぐらいから20分ぐらい煮立てますっ。その後、放ったらかすぐらいして、人肌ぐらいに冷めたら、塩大匙一杯ぐらい入れてみたりして、また掻き混ぜるぐらいして。完全に冷めたら、酒小匙一杯ぐらい? それと酢小匙一杯ぐらいぐらいとか入れてみたりして、またよく掻き混ぜたりすると、特製ハバネロ辛みそとかできたりするわけ。ぐらい?
 せっかくなので、小皿とかに盛ってみたりして、割り箸とかの先っぽにちょびっとつけて舐めてみたりすると、やっぱり、酒とか呑みたいしぃ、とか言って、日本酒をコップに一合ぐらい注いで、呑んでみたりして。ちょー辛いから、お酒とか言ってどんどん進んじゃったりして。お代わりしちゃう?とか呟きつつ、自分への御褒美とか言って、ますます呑んじゃうわけ。で、また辛みそとか舐めると、やっぱちょー辛いのでずんずん呑んじゃって、へろへろのくるんくるんになって、一升瓶抱えてぐびぐびとか始めちゃったりして、あまりの辛さに汗がだらだら落ちてくるから、ねじり鉢巻きとかしちゃって、これって新橋の酔っ払いおやじぐらい?って、もうわけわかんない。

投稿者 zenta : 21:03 | コメント (0) | トラックバック

2006年11月22日

虚実混淆

 えーっ、あれって嘘なのかよ、と、そんなことを言われることがある。その代表が、以前ここに書いたアフロ云々、日サロ云々、なんてな話。嘘なのかよ、と問われた場合、私は何と返答すべきなのか。嘘を書いたつもりはないのだけれど、事実に反することを書いたのは確かなわけで、それを人は嘘と呼ぶのだよ、ということであれば、そりゃ、やはり、私は嘘を吐いてしまったのだということになるわけで、小さい頃から言い囃されてきたように、嘘吐きは泥棒の始まりなのであるからして、もう私も泥棒まであと一歩、いや、始まっているということであれば、既に、泥棒である。正義を旨とする私としては、泥棒であるのにのうのうと巷を闊歩するわけにはいかない。とっとと杉並警察に自首しなければならん、と思うのだけれど、果たして、その場合、罪状や如何に。短髪であるにもかかわらずアフロだなどと嘘を吐いてしまいました、よって、御縄を頂戴致したく、などと申し出たら、この忙しいのに警察舐めとんのか、こら、などと叱責されることになるのではないか。どうでしょう。何がどうでしょう、だ。机上の空論という言葉があるんだよ、君。紙の上でへらへら理屈を捏ね回していても埒が明かない。さっさと実際に自首してきて見給え、と、そう言われれば、それは全く御尤も。早速、今から杉並警察に自首してきます……って、書くと、また、一つ嘘が増えてしまう……。

投稿者 zenta : 20:35 | コメント (1) | トラックバック

う・そ・つ・き...

投稿者 Anonymous : 2006年11月27日 05:02

2006年11月15日

羞恥の基準

 何ですか、人間というものは、興奮するとついついでかい声を出しちゃったりするものであります。中には、いやいやぼくはそんなこたないね、だの、あたくしはちがいますことよ、うふふ、などという人もいなくはないだろうけれど、私の場合、おれって何やってんだろうなあ、と、ふと思わざるをえぬほどに、大声を出している場面がある。

 そう遠くないところでは、ワールドカップ。うぉー、だの、うぎゃぁー、だのという奇声をあげること屡々。おまえのねえちゃん何とかかんとか、とはさすがに言わなかったけれど、てめえ、ジダン、ふざけるな、というよりは、もうちょっと汚い言葉で怒鳴り散らすなどしたのでありました。考えてみれば、というか、考えてみなくても、ヨーロッパで行われていた大会、日本では深夜。決勝の、問題の場面なんぞは早朝であった筈であり、うちの近所を散歩、ウォーキングなどしていた人々には、朝から大声で雑言を放つ品のない者が近所に住んでおるのだな、ああ、嫌だ嫌だ、などと思われたに違いない。そう思われても致し方がないほどの騒ぎようではあるわけで、まさに致し方なし。でもまあ、ワールドカップで熱狂できないようじゃ人間お終いだ、ぐらいのことを嘯いて。なので、少なからず気恥ずかしい気がしなくもないのだけれど、許容範囲内……ということにさせて下さい。

 近頃、女子バレーをやっておりますな。世界選手権。何を隠そう、私は女子バレーもなかなか好きなのであります。古くは、白井が全日本に入った頃合いから。近所の商店街で彼女と擦れ違い、その迫力に圧倒され、女子バレー侮れねえ、となったのですよ。近頃は弱くて応援しててもなかなか辛いところではあるけれど、弱ければ弱いほど応援が必要なわけで。
 最初のうちは、まあ、木村沙織はどことなく小高笑子を彷彿とさせるところがあるね、などと、ちょっくらそっくり返りつつ、一応、冷静風味で眺めているのだけれど、競り合いになってきたりすると、よし、上がった、などと叫び始め、気がつくと、高橋、高橋があいてる、竹下、高橋だって、などと咆哮。終いには、ただただ、サオリン、サオリン、サオリン、よーしっ、などと絶叫。
 試合終了後、我に返り、赤面。赤面。赤面ですよ。何気ない風を装いながら、窓を開けて、近所に人はおらぬか、と確認してみたりして。阿呆や。

 サッカーの狂躁は許容できる私なのに、何故、女子バレーでのサオリン連呼には恥ずかしさを感じてしまうのだろう。人の心の彩というのは、まっこと謎に満ちておるものでありますなあ。
 今宵はオランダ戦か。こりゃ、ますます大きな声援が必要だな。

投稿者 zenta : 19:07 | コメント (0) | トラックバック

2006年11月08日

BGM

 BGM。つまり、積極的に聴くのではなく、流れているものを耳にする、というようなシチュエイションでの音楽とでもいいますか。
 来月オープンするダーツ・バーのような、ダイニング・バーのようなお店でかけるCDのセレクションを任されているので、気合いを入れるのではなく、ぼちぼちと選ぶ作業を行っている。ま、ちょっと気分転換的ですかね。然りながら、あの店の音楽ってなかなか良いよね、などと言われるぐらいではあってほしい。メジャーなものばかりではうるさい客に舐められたりしかねないしなあ、と思うし、だからといって、マニアックに走るのは筋が違うだろ、などと逡巡。逡巡。いやいや、なかなかどうして、選曲の道も深いものだ。

 ダーツってんだから、イギリス寄りだな……小洒落た風味ならスタカンなんてどうよ、ってなもん。しかし、今時、スタカンなんて呼ぶ人がまだいましたか、などと自嘲しつつ、やっぱちょっと古いかなあ……いや、しかし、古さの問題ではないでしょう、とスタカンは候補に入る。一人でふらっと入ってきて一杯やるなんてことなら、Olivia Himeの然りげなさなんざ良ござんしょう。そんな店なら俺様が呑みたいぐらいだぜ、なんて。しかし、あれだね、このぐらいしっとりしちゃうと酒が進まないか。それは営業的にいただけませんな。もうちょっとテンポのいいところで、がばがばグラスを干させるのが良かろう。それじゃあ、ってんで、Paris Comboを持ち出してくる。あ、良いな。良いね。これこれ。取り敢えず、今から一杯いくか……って、私は何をやっておりますのやら。

 こんなことであれこれと頭を捻っている昨今、小洒落た音楽を……などと言いながら、猫に攻撃されまくり、手に足に生傷の絶えぬ日々。何なんでしょう、私って。

投稿者 zenta : 18:33 | コメント (0) | トラックバック

2006年11月01日

学校というところでは

 学校というところでは、昔から摩訶不思議なことが罷り通っていた。それは、私たちが子どもだった時にもそうであったし、その後、家庭教師や塾屋、高校の講師なんぞをしていたときにもそう感じていたし、きっと今でもそうなんだろうと思う。
 学校で教えている人々も完璧なんぞではない。当たり前だ。管理する人々も完璧なんぞであるわけはないし、学校に関わる規則や法を云々する人々だって完璧なわけはない。それは昔からそうであったのだ。だって、所詮は、人間という、完璧からは程遠い不完全な存在がやっていることなんだからさ。
 だが、しかし、それでも昔の方が少しはましだったぜ、と思う。そう感じている人は少なくないはずだ。何が違うのかと考えるに、一番の違いは心意気でしょうな。人間は完璧なんぞではありえないけれど、せめて、矜恃だけは高く持っていてくれよ、と。そういう意地さえもないのなら、教育に関わる仕事なんか選ばないでほしい。いや、ほんと。

 昨今のニュースを目にし耳にし、うんざり。うんざりの百倍。うんざりの百倍の百倍。吐き気がする。
 この社会が歪んでいるのは御承知の通り。そして、そういう歪みは弱者のところで弾けるのである。こんな在り来たりなことを呟かずにはいられない今日この頃。明日はどっちだ、とジョーの主題歌を口遊む。ああ。

投稿者 zenta : 16:59 | コメント (2) | トラックバック

『モッタイナイ』の次ぎは『ミットモナイ』が採用されそう。

投稿者 guffaw : 2006年11月03日 05:36

と思ったら、今日の新聞では、BONOが「ホットケナイ」を提案しているんだって。
BONOさあ、あんた夕張の事情なんか知らんだろ?
外面ばっかり美しい見栄っ張りの国なんだから、あんまり煽んないでおくれな。この冬、北朝鮮ばりにアブナいんだぜ。
アベちゃんがその気になったらどうしてくれるんだ。
 


投稿者 guffaw : 2006年12月01日 17:54

2006年10月25日

深夜の訪問者の続き2

 その後、件のちび猫は順調に成長を続け、現在1.1kg。縦にも随分長くなっており、先住のちょいでぶ猫の幼少時の姿と比較して、いずれはとんでもない巨大猫になるのではないか、と思ってみたり。よちよち歩きから、短時日のうちにここまで来るなんざ、動物の世界の成長は早いものだということを実感する。

 近頃は、暴れ振りも凄まじく、だんだんと高いところにも出没するようになった。で、まあ、余計なことを仕出かすわけであります。本を突き落としたり齧ったり。頑丈なものが好みのようで、昨日はラルースの二巻本が被害に遭った。言葉が通じないので、諦めるしかありませんな。目撃すれば、頭を軽く押さえて、くうぉらー、おどりゃぁー、などと怒鳴りつけたりして、指導を試みてはいるけれど、多くは期待できない。何しろ、相手は猫なのでね。で、自衛の策として、大事なものは段ボール箱に詰めて……なんてことをやってみたりもするけれど、そうすると必要な時に取り出す手間が煩わしい、と。
 机の上も普通に歩くようになっている。いつの間にか音楽専用のMacが起動していて、しかも、画面には「、、、、、、、、、、、」などと入力ウィンドウが出ていたりして、一体、君は何をしたいんだい、と……ま、問うても無駄なわけですが。

 昨日、萬年筆関係の仕事上のメールを数通まとめて返信したところで、尿意を催し、ちょいと用足しに席を離れた。戻ってきてみると、何たることか、先程送信したメール、返信した元のメール、そればかりか、ここ数日間にやり取りしたその仕事関連のメールがすぱっと消えてしまっている。如何なる幻術使いの仕業か、と見回すまでもなく、机の上をちび公が胸を張って歩いている、と。恐らく、「delete」の上で立ち止まり、画面を眺めたりしていたのでありましょうなあ。参った。ああ。幸い、バックアップを徹底しているおかげで、大きな支障は生じなかったけれど、これからはコンピュータを離れる時には、何か対策を考えないとなあ、と、ため息一つ。

投稿者 zenta : 18:29 | コメント (1) | トラックバック

家には御存じの通り、そのような暴走猫が6人居ります。
特に生後1年半の5人の非道な所業ったらもう・・・
家人は家来と化しています。
猫を叱る時は、目を見て、普段見せない恐ろしい顔をして、声のトーンも変えて叱り、猫やんが得心するまで頑張れば、いたずらは減りますよ。
うう、しかしこのコはかわい〜♪

投稿者 flint : 2006年10月26日 18:47

2006年10月18日

これは言い訳でしょうか?

 ライヴもじわじわと近づいてきているのに、新曲の歌詞が書けない。これは偏に、ちび猫に生活を拘束されているからである。半ば言い訳、半ば真実。しかしながら、このミニミニ乱暴猫の自立までの道程は相当に遠いわけで、あれこれと目配り気配りをしなくてはいけないのは歴然。加えて、なかなかにかわいいという現実もあり、自ら好んで拘束されているという側面があるのも否めない。
 そんな生活を送っているもので、ふと思いつくフレーズは自ずと猫に関わるものとなる。しかし、ですな、またもや猫ネタで歌詞を書くのもナニですなあ、ここは硬派ぶって社会ネタですか、などと呟きつつ、新聞やニュースに目をやると、これが何とも酷い。醜い。この国はどんどんどんどん狂っていく。陰惨、悲惨な事件ばかりが目につき、とてもではないが、歌詞にする気にはなれない。
 こんな、病み、歪んだ社会では、荒んだ人心を少しでも癒せるような明るい夢や希望を唄おうではないか、と思いたち、ハッピーハッピーな、ファンタスティックファンタスティックな、目がきらきらした王子様が出てきた時代の少女マンガのような世界を描こうと、言葉を模索していると、うおぉー、右足の親指に激痛が走る。ああ、またもや痛風なのか……というと、そうではなく、ちび猫が猛烈な勢いで飛びつき噛みつき猫キックをかましているのであった。

 嗚呼、こんな環境で落ち着いて歌詞が書けるはずがない。

投稿者 zenta : 16:27 | コメント (4) | トラックバック

『どたばた悲劇』
         中村保男

投稿者 guffaw : 2006年10月19日 21:35

『猫だの悪魔だのは、招く家にやって来る』
               ウェールズの古諺

                     

投稿者 guffaw : 2006年10月20日 16:33

わしの芸術が10年遅れたところで「永遠」に比べれば何でもないぞよ。
    G.B.ショウ

投稿者 guffaw : 2006年10月23日 19:31

おじゃまします。ネコさんいるのですね。
まさか貴方様が猫にキックをされる日々を
おくっているとかは想像できませんでしたが
楽しそうでなによりです^^
 昨日はPCの事どうもです。感謝!!
真面目に困ってしまいまして。
会社ではあぁいう状態ではどうするか?はやってるのですが
それが全部上手くいかなかったから・・。
ありがとうございますぅ。本当に☆
 ではでは。私のブログにも遊びにきてくださいませ。あっその際は絶対にコメ宜しくお願いします!
ハリアイニナルカラ~~♪早く曲出来るといいね。

投稿者 しちょんこと、とし・・・ : 2006年10月23日 19:53

2006年10月11日

深夜の訪問者の続き

 予想されていたことだけれども、信頼できる貰い手は現れぬまま日々が過ぎ、そうするうちに情は増すばかりで、とうとう我が家で飼うことを決断する。しかしながら、懸案である、先住のちょいでぶ猫様との折り合いはまだついていない。まだついていない、というより、接近遭遇に至っていないのだ。あれこれと研究……というほどのものでもないが……した結果、じっくり時間をかけて、お互いの存在に慣らしていくのが一番のよう。で、そのために、今はまだほぼ隔離した状態。少しずつ接近していくように仕向けているというところだけれど、如何んせん、先方は気紛れですからね。そう期待通りに行動してくれやしない。
 ちょいでぶ猫様の機嫌は少しずつ改善されつつあるようにも思うが、警戒モードが解除されたわけではなく、不貞腐れ気味であることに変わりはない。
 一方、ちび猫の方はこの一週間で二倍ほどの重さになり、暴れ回れるほどに元気になった。寧ろ、暴れ回り過ぎ。

 いずれにせよ、猫を中心に回る生活が、まだま暫く続くことになるのでありましょうな。

投稿者 zenta : 09:21 | コメント (3) | トラックバック

うーん、これはほんとに可愛いな。
大きくなる前に遊んでもらおう、と思う私。

投稿者 りんご : 2006年10月13日 21:30

お察しします。
実はうちの娘もこの夏「子猫3匹拾った」と学校からTEL。聞けば炎天下、人気のない道に紙袋に入れて捨ててあったそうなが、まだへその緒付きだという。東京時代は7匹も育てた拙者もそんな初乳も飲んでない新生児にはお手上げだから猫病院行きを指示。親切な医者が1匹あたり1日千円也で引き受けてくれたはいいが、誰か貰い手を見つけて引き渡せるまでざっと1ヶ月・・「9まんぃえんまんぃえん!!そんなカネがどこにある!」ってんで娘は落ち込みこっちは頭を抱え、仕方がないから八方手を尽くして当たってみたら娘の中学時代の友達が「2匹だけなら」と手を上げてくれた上、病院に見に行って「残されたら可哀相」ってんで結局全部貰ってくれた。今はその社長令嬢宅でみんな元気にやっているらしいが、そのスッタモンダでこちらはヘトヘトになり、生命には確かに重さがある事を実感した4日間であったよ。

投稿者 guffaw : 2006年10月13日 23:24

 私が連れていった医者は、飼うことが決定するまでは無料でいいってことで診てくれました。ちょいでぶ猫がずっと世話になっているってことがありますけど、それにしても、心意気だなあ、と。

投稿者 zenta : 2006年10月14日 23:46

2006年10月04日

深夜の訪問者

 深夜に突然玄関のベルが鳴る。何事かと飛び起きて出て行くと、近所のおばさんが子猫を抱えて立っている。すべり台の下にいたんですよ、とのこと。見てみると子猫というより幼猫と呼ぶべき、辛うじてよちよち歩きができるかどうかというほどの様。雨上がりで辺り一面の草はびしょ濡れなのに、かの猫は湿ってさえいない。ほんの何分か前に誰かが運んできてそこに置いたとしか考えられぬ。深更、人気なき団地の闇に満足に歩けもせぬ幼き命を放置する者の心境や如何に。
 とにもかくにも、そのままにしておいては、無事に朝を迎えられるかも怪しい。陽が昇る頃には、子猫にとっては天敵とも言うべき烏も活動を始める。選択の余地はなく、私の部屋で保護することと相成った。
 病院に連れて行き、健康状態を診てもらったり、子猫用のミルクなんぞを用意したりして、できる限りのことを。甲斐あって、すっかり元気になって、今では所狭しと部屋中を走り回り、傍若無人の乱暴狼藉。

 信頼できる貰い手もみつかりそうになく、数日が経過している。我が家で飼うためには、先住のちょいでぶ猫様のご機嫌をどうにかせねばならない。狭量な猫だからなあ。問題頻出しそうだなあ……と、猫の多頭飼い、猫同士を仲よく、猫の相談室、などなどというwebを必死に読んでいる私である。ううむ。

投稿者 zenta : 10:28 | コメント (3) | トラックバック

うきょー!!
かわいいにゃー♡

10年以上昔の話なのですが、当時飼っていた猫と共に都落ちした事がありましてねぇ・・・
その時、実家にも妹が飼っている猫様がいたのでございます。
最初は、顔を会わせる度にお互い「フギャーッ!」なんて牽制しあっておったのですが、
時が経つにつれ、なんとなく理解し合えた様子で、仲良くしてましたよ。
先住のちょいでぶ猫様もそのうち理解して下さるのでは?
ううむ、それにしてもかわいいにゃ〜♡

投稿者 flint : 2006年10月04日 22:12

おお!
ナナちゃんも、最初は警戒したり嫉妬したりするでしょうが、きっと友達がいたほうが楽しいですよ。
今度、zentaさんのウチに行ったらネコが2匹いるのか。
それはとても楽しみだ。

投稿者 りんご : 2006年10月05日 00:49

 いやあ、うまくいくかなあ。いってほしいなあ。

投稿者 zenta : 2006年10月05日 10:30

2006年09月27日

ヤブカラシの森に住む

 これってクロアゲハの幼虫ですか、と近所に住む小学生のお母さんが問うてきた。どれですか、と覗いてみると、黒地に目玉模様が二列に並んでいる、如何にもグロテスクなやつ。しかも、尻尾が生えていて、その先っぽが黄色っぽくて、レーダーみたい。アゲハの幼虫と似ていながら、黒いので、クロアゲハってな連想なのでありましょう。
 これって、何の幼虫だったかなあ、と記憶の中を捜索するも、思い出せない。小学生の頃なら即答したんだろうけれどなあ、と、ちょっと歯痒い。ううむ。何かは思い出せないけれども、クロアゲハでないことだけは判っている……というか、この界隈で見かけるメジャーなアゲハ類のそれでないことだけは絶対確実、生涯保証、指切り拳万。
 「スズメガか何かでしょうね、アゲハではないですよ」
 「この空地にたくさんいるよって、こどもたちがどんどんとってきちゃっているんですけど、蛾なんですか。蛾じゃねえ……」
 蝶は良いけど蛾は駄目なのか。それは差別だよ、君、と瞬間は思ったけれど、何を隠そう、私だって、蛾より蝶が好きである。正直に言えば、蛾はあまり好きではない。なぜでしょうなあ。経験という看板で物言えば、私に限らず、蛾は嫌い、という人が多いように思う。蝶と蛾との区別って相当に難しいし、曖昧なところもあるのにね。フランス語のpapillonに代表されるように、言語によってはその区別がないものさえある。ぱっと見じゃ、どっちだかわからんものだってたくさんいるしねえ。

 その後、件の芋虫が何ものなのかを図鑑やネットであれこれ調べたところ、セスジスズメという蛾の幼虫だと判明した。直感は正しかったわけである。針千本飲まずに済んだ。
 ちなみに、セスジスズメの幼虫の食草にはヤブカラシが含まれていた。なるほど、向かいの空地に数多居るのも宜なるかな、と。

投稿者 zenta : 10:39 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月20日

ワールドカップ年になると……の続き

 ワールドカップの年になるとやってくるのは痛風だとばかり思っていたのだが、どうも違うのではないか、という話になってきた。

 あれこれの検査の結果を伺いに、かかりつけの加藤先生様を再訪。5枚ほどの紙にたくさんの数字や英字の羅列。ここで私の尿酸値だの血中何とかだとかの数値を並べてもしかたがない。要するに、痛風と判定するには数字が違うかな、ということだそうである。考えてみれば、痛んでいる場所も足の真ん中辺りであるわけで、それっぽくないものなあ。そもそも、痛風というのは発作である訳で、突然の激痛に始まるはずなのだが、よくよく考えてみると、私の場合、何となく痛いなあ、というところから始まり、激痛に達したのは三日目ぐらいのことであった。いてえ、いてえ、と言いながらもチャリで通院できたことも、年季の入った痛風持ちからすると、あまりにも温い痛みだなあ、と評される。外科的な原因だったのかもしれんね、というぼんやりとした落ち。
 痛風ではないと判明しても、既に痛みはほぼなくなってしまっているわけで、ああ、そうですか、としか返答のしようがなかった。お酒のむなら様子見ながら少しずつにしてね、と念を押されて帰ってきた私である。

 飲むな、と言われていた間は、呑みたくて呑みたくてしかたがなかったのに、少しずつとはいえ飲んでもいいよ、となると、呑みたいという欲求は少し引っ込んでしまったみたいである。まあ、つまり、駄目だと言われるとやりたくなるのが人情ってもので……という伝。

 とにもかくにも、9月2日から一滴も呑んでいない。誰も誉めてくれないので、自讃の意味をこめて、ここに記しておきますよ。

投稿者 zenta : 02:16 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月13日

ワールドカップ年になるとやってくるのか?

 四年前のワールドカップのおかげで、痛風を病むに至った私であるが、その後、少しは自粛したり、漢方に頼ったりしたおかげで、尿酸値は相変わらずかなり高目であるにもかかわらず、発作を起こさずに済んでいた。ところが、金曜辺りから右足の真ん中辺りが痛くなり始め、土曜には歩行困難になった。うききききぃと苦しみながら、週末を過ごす。
 月曜は911イヴェント絡みであさがやんずとしてのライヴがあったのだが、朝起きた時点で、痛みは止むどころか増しているようであった。満足に立っていられないような人間が人前で演奏などできるはずはない。救いを求め、かかりつけの加藤先生様のもとを訪う。当たり前だが、検査の結果は瞬時に出るわけではない。そもそも、私が欲しているのは検査の結果ではなく、救いなのである。如何なる病いかは判然とせぬまま、とにもかくにも、痛み止めを頂戴し、騙し騙しの体で、足を引き摺りながら現場に向かう。途中、足の運びをしくじって、激痛に呻くこと数度。それでも、どうにか辿り着いた。
 立ってはいられないので、座って演奏。もちろん、一滴のアルコールも摂取せず。そんなライヴって何年振りだろう。いや、何十年ぶりだろう。痛みに惑わされてまるで集中できない。酒を呑めないから寛げない。どんどんテンションは下がり、気分も機嫌も悪化するばかり。うげうげ。酒も呑んでいないのに吐きそうだ。
 どうにかこうにか演奏を終えたけれど……健康は大事ですよ、いや、ほんと。

投稿者 zenta : 22:25 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月06日

番号非通知

 前回は、番号非通知拒否にすればおれおれ詐欺や鬱陶しい勧誘電話が激減するであろう、というようなことを書いた。実際、我が家ではそれなりの効果を上げていると思う。但し、この制度は有料である。もっとも、ものすごい金額を請求される訳ではないので、採用する価値は十分にあるとは思う。
 それはそうなのだが、よくよく考えてみると、こんなものにお金を払うのはおかしい。そもそも、番号非通知で電話をかけられる仕組みを標準としているNTTやら何やらの電話屋一味が悪いのだ。乱暴な物謂いをすれば、このことが、匿名を悪用した詐欺やストーカーの類の犯罪や迷惑行為を少なからず助長しているのは間違いない。こんなあほな制度が罷り通っているのは日本だけだぜ、というような噂を耳にしたこともあるけれど、実際はどうなのでしょうなあ。とにもかくにも、番号非通知というシステムを撤廃すれば、おれおれ詐欺を代表とする悪の電話が、少なからず、いや、かなり減るはずだ。

 うちにISDNを引いたばかりの頃……つまり、十年ほど前のことだ……は、非通知電話を拒否するのに、何千円かの工事費と千円弱の月額費用が発生していた(ちなみに、今現在、日本テレコムに乗り替えてからは月額200円のみ)。ろくでもない制度に対抗するために、あれだけの出費をしていたのはばかみたいだが、それでも、あほたれ勧誘激減という実際的なメリットは十分に魅力的であった。そのありがたみを実感していたところで、ある日、突然思い立ち、NTTに問い合わせというか抗議というか、まあ、そんな電話をしてみたことがある。よほど暇だったのか、よほどの躁状態だったのか、酔った勢いだったのか、あるいは、その全てか、とにもかくにも、プラス一握りの義侠心、みたいな。
 電話に出た女性がしどろもどろになり、すぐに、もう少し責任ある立場の男性に回される。ところが、その人物もかなりのしどろもどろ。で、番号非通知などという犯罪を助長する制度はなくしなはれ、なくせんのやったら、ディフォルトを非通知拒否にしなはれ、というようなことを、拙者、申し述べたのでござる。なおもしばしあたふたした後の、先方の言い訳がふるっていた。非通知のサービスは一般のお客様が企業にクレームの電話を入れる際の匿名性を確保するためのもので……えええ、あああ、あのお、このようなクレームはお客様が初めてですから普通のお客様には喜んでもらっているはずです……彼のあたふたを辛うじて日本語に翻訳すると、概ねそんなようなことのようであった。ほぼ意味不明だし、それって、遠回しに、あんたみたいなのは普通じゃない、つまり、異常者だって言いたいわけかい、と突っ込みたいぐらいだった。ま、いいんだけど。
 「でもねえ、うちでは、番号非通知拒否にしたら変な電話がかかってこなくなりましたよ」と言うと「それはおめでとうございます……ちょっとお待ち下さい……非通知の制度に関しては……ちょっとお待ち下さい……ナンタラカンタラ諮問委員会で決定したことでありまして……ちょっとお待ち下さい……私どもNTTではどうにもできないのです」などというような言い訳が始まった。明らかに受話器の向こうでは数人で話し合っているような様子。そのうちに先方の混乱が度を越してきて、それ以上話し合う気もなくなり切ってしまったのだが、今になって考えると、あのあほっぽい不明瞭極まりない応答は、私の意気を挫くための作戦だったのではないか、とも思えてきた。そんなことはないか。でも、万々が一、そうだったのなら、彼のあたふた振りは賞を総嘗めするような何とも見事な演技だったと言わざるを得ない。

 今、全く同じことをNTTに問い合わせたら、どんな答えが返ってくるだろう。相変わらずただただあたふたか。それとも、もはやマニュアルが用意されているだろうか。

投稿者 zenta : 23:21 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月30日

おれ、おれ

 電話がかかってくる。しょうがないから出るとします。すると、いきなり「おれ、おれ」などという、名乗りもない失礼千万な態度だったら、どうするか。私だったら、何だ、誰だ、ふざけるな、というようなことになりそうなものだが、そうではなく、ああ、××ちゃん、何なの、というような応答になる人も少なくないのだろうか、と疑問が湧いた。というのも、杉並区の犯罪事案を報告・警告するメーリング・リストに驚くべきデータが載っていたからである。杉並区内の振り込め詐欺被害は8月28日時点で、76件、総額1億5千万だという。これは届け出があったものに関してだけだから、実際にはもっと大きな数字になっているはずだ。かねてから、オレオレ詐欺は相当に儲かる商売であるらしい、という噂を耳にしてはいたが、地元杉並でのデータだと何だか生々しく、些かぎょっとせざるを得ず。みなさんも是非是非お気をつけ頂きたい。
 どういう対策なら効果がありそうだろうかと考えたのだが、やはり、きちんと名乗らないような電話には、てめえ、ふざけるな、と応対しましょう、ということを徹底するのが良いのではないかと思う。でも、万が一、恩義のたっぷりとある上司、先輩などなどからの電話だったりしたら洒落にならないか。
 もう一つ、具体的に効果がありそうなのは、番号非通知受信拒否を設定することです。固定電話にもそういうサービスはありますからね。それだけで、多分、オレオレ詐欺はほぼ100%シャットアウトできそうではないか。ちなみに、非通知拒否設定にすると、鬱陶しい勧誘電話の大半もかかってこなくなる。これだけでもそうする価値がありまさあね。
 いずれにしても、みなさま、ご注意下さいませ。

投稿者 zenta : 15:28 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月23日

夏はレゲエだよね

 私の音楽の趣味というのは、あれこれと変遷しており、簡単には説明する気になれぬ程度には捻くれている。ま、そんな中、フュージョンからの流れ、はたまたニュー・ウェーブ/パンクからの流れで、レゲエだって少しは聴く。
 昨今、レゲエを聴く人って多くなりましたなあ。ラヴァーズ系だったり、何だりかんだり。それと、何ですか、あの、マッパに近い勢いで、よく言えば挑発的、悪く言えば、お下劣極まりない腰つきで、ぶいぶいぶんぶんと踊っているおねえちゃんたち。あれもレゲエなんですか。
 そんなこんなを見聞きすると、私の思っているレゲエってものとは随分遠いところまでやってきたなあ、と、ある種、感慨深い。
 かつては、アメリカで売れるようでは軟弱、Third Worldなんてもってのほか、というような、ごりごり硬派な人々もたくさんいて、ジャーがどうした、ラスタファリズムがどうした、ってなことを肴に呑んでいる人々さえいたが、近頃は見かけない。これは良いことなのか、悪いことなのか。
 いずれにせよ、私は、レゲエのリズムが心地好いからレゲエを聴き、たまにはレゲエを借用したリズムで曲を書いたりする。そこには、思想性は微塵もない。まあ、威張れた話ではありませんかね。

 夏はレゲエだよね、的なことを言う人がたまにいるけれど、どうなんだろう。実際のところ、私は夏にはあまりレゲエは聴かない。なぜだ、と問われたら、返事のしようがないけれど、とにかく、夏にはレゲエは滅多に聴かない。
 ちなみに、今、この瞬間には、ルシール・チャンという中国系カナダ人の弾くリゲティのエチュードだの何だのを聴くともなく流している。ダイナミズムが不足している気がするけれど、かえって、涼しくて良いかもな。

 ま、そんな夏もじきに終わる。

投稿者 zenta : 14:18 | コメント (3) | トラックバック

レゲエ=ドレッドヘアってのも、今は昔な話なんでせうかねぇ。
20年位前は下北の某とかいう美容院でしか本格的なドレッドパーマにすることが出来なかったのに、家の近所の床屋でも「ドレッド出来ます」なんてな広告が貼ってあるし。
不思議。

投稿者 flint : 2006年08月26日 23:16

自分はこないだ海に行く時、スカを流していきました。
ギンギンに照らす太陽、広々とした海に合うな~、なんてその時は思ってましたが、普段はあんまり聴きません。

投稿者 quwabara : 2006年08月27日 14:57

>flint
 そうですなあ。
 見本写真を持って、ドレッドにしてくれって美容院に乗り込んだのに、何がどうするとそうなるのか、とにもかくにも想像を絶するような頭になって戻ってくる人ってのが、当時はおりましたねえ。いや、ほんと。

>quwabara
 にゃるほど。
 確かに、私がレゲエを夏に聴く気がしないのは、部屋の中にいるからかもしれん。
 日中、外をうろうろするようなシチュエイションなら、レゲエもスカもありか。ありだな。

投稿者 zenta : 2006年08月27日 23:58

2006年08月16日

秋蒔き

 今年は、ワールドカップやライヴや天候不順や何やかやのせい……半ば言い訳、半ば本当……で、園芸作業の開始が著しく遅れてしまった。で、まだ、草毟りが完全には完了していない。そんな段階の我が家の極小の菜園には何が生えているかというと、春先に植えたパプリカ(多分)と紫蘇。それに加えて、どこかの山から鳥が運んできたのかもしれない、見たことのないもみじみたいなものがひとつ。かなり殺風景。
 草毟り完了も間近くなって、さて、何を植えようか、と思案するも、例によって園芸の知識は無に等しい私、何を植えれば良いのでありましょうなあ、と独り言つばかりで、埒が明かない。うじうじしていたところ、何たる偶然でありましょうか、なぜか、下駄箱の中に「葉ねぎ」というものの種を発見する。さらっと眺めると、春から秋までいつでも蒔けますよ、的な文言が書かれているので、取り敢えず、こいつをばらまいてみますか、などと思う。

 雨が小止みになってきたので、さて、作業するべえ、と。するべえ、ってのは、これは関東にありがちな方言ですかね。そう言えば、高校には「じょうべえ」って渾名のやつがおりましたな、などと、どうでもいいことをふらふらと考えながら、地べたを掘っくり返して、さあ蒔こやないか、というところで、念の為に、注意書きを読んでみる。意外に地道な私である。
 プランタとかそんなもんで育ててから大地に移植せよ、的なことが書いてあるけれども、私は面倒が嫌いなので直接いかせて頂きますよ、ははは、などと呟いて。しかし、その先に途轍もなく重要なことが書かれているのを発見。この時期に蒔いた場合、収穫は来春以降になるらしい。あほか。いや、種があほなわけではないし、種メイカーがあほなわけでもない。勢いで呟いてしまっただけだ。来年の春、ですか。いやあ、その頃、この団地は消えてなくなってしまうかもしれないのでありますよ。だとすると、蒔くだけ無駄ではござんせんか。ううむ、むむう、と、腕組みをして考えること、数分。取り敢えず、本日の作業は全面中止とさせて頂きます。

投稿者 zenta : 14:49 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月09日

毒林檎ならぬ……

 白雪姫はいじわるな継母(あるいは、母)に毒林檎を食べさせられて死んでしまった。そうなんだけれど、死んでいてもいいから連れ帰るんだい、という王子の命に従い、えっちらおっちら遺体を運んでいた家来連中。何たることか途中でけつまずいて、その拍子に白雪姫の咽喉につまっていた林檎が飛び出して生き返りましたとさ。……って、ことは、彼女は毒で死んだのではなく、咽喉につまった林檎のせいで仮死状態になっていただけなのだろうか……だったら、毒林檎である必然性はなかったのではないか……などと、小理屈をこねまわすようでは、童話を楽しく読むことはできません。

 童話の世界ではなく、1980年代の日本での話。
 毒林檎の代わりに毒蜜柑を利用した人がおりましてね。敵に塩を送るのではなく、毒入りの蜜柑を送ったのでありますよ。実際に、その毒って何だったのか。何らかの効果があったのか。わやわやと噂が噂を呼んだものだったけれど、その辺りはとうとうはっきりしないままだった。けれども、確かなことは、蜜柑の送り主、金平という人はボクシング界を永久追放に処されたってことです。
 先日のボクシングの試合を観て、こんなことを思い出した。

 亀田親子を見て、この親にしてこの子あり。金平親子を見て、この親にしてこの子あり。そんなことを思った人も少なくないのではないか、と思う。でも、ですね、この親にしてこの子あり、なんて発想は、私はあまり好きではないし、言いたくもない。ま、言いたくないんだけれども、思わず、口から飛び出してしまうこともありますがね。
 実際問題、遺伝子を受け継ぎ、その親を見て育つ場合、子が親に似るのは当然だと言うべきじゃないすか……などと言うと、「お父さんはあんたみたいなたるんだ人間じゃなかったわよ」とうちの母が怒り出しそうなので、この話はこのあたりでやめておいた方がよさそうですな。お疲れさま。また、来週。

投稿者 zenta : 22:22 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月02日

園芸の季節

 気象庁ではもう梅雨が明けたなどとほざいておるそうだが、ここ数日の空を見上げる限り、どうもそうは思えない。今日なんざ、なかなか涼しくて快適な気候。これで梅雨明けかよ。どうもお上の言うことてえのはいい加減だよなあ、などと思われて。

 ワールドカップも終わり、音楽のタイトなスケジュールも一段落し、梅雨も明けた(ことになっている)のでは、言い訳も思いつかなくなってきた。そろそろ園芸の頃合いか。ってなことで、虫除けの類を買ってきて、本日から作業開始。ま、そうは言っても、毎日ほんのちょこっとずつしかやらんのだけれど。

 まずは、手近なところの草取りが続くわけですな。
 蚊取り線香を炊き、腰に携帯ベープマットの類をぶら下げ、しゃがみ込んで雑草と覚しきものを抜いていく。太陽が不足していても、雑草てえものは頑張るもので、あちらこちらを支配している。そういうのをちまちまと抜いていくのだけれども、毎年のことながら、悩ましい。雑草雑草言うとるけれども、これも一つの生命体であるのに、俺ってば何をしておるのだろう、と。草にしてみりゃ、血も涙もない人非人が来よったで、逃げろ、逃げろ、逃げなはれ……と、けれども、哀しい哉、草には移動手段がないので、うぎゃぁぎゃあと断末魔の叫びを上げながら、極悪巨人の犠牲になってしまう。雑草の世界では、毎夏、そういうホラー映画なんか作ってたりしてな……などと、猛烈な太陽に照らされている訳でもないのに、妄想逞しくして、なかなか手が進まない。むむむ。

投稿者 zenta : 10:38 | コメント (0) | トラックバック

2006年07月26日

Macの話の続きですよ。

 eMacの不調は、結局、六週間ぐらい続いたのだったろうか。続いた、というのか、続けた、というのか、微妙な感じだけれど。後半はだんだんやけくそになって、フリーズして再起動を待つ間、黒いポスカで、あの雪のように白いとかいうボディに「本日七回目のフリーズ」だの「また落ちたよ」だの、更には「ばーか」だの「まじ、うぜぇ」だの「ジダンのかあちゃんでーべーそー」などと落書きして憂さを晴らしているという惨めな有り様。そんなことを繰り返しているうちに、最後の頃には、eMacはすっかり黒くなってしまって、それはそれで意外に恰好良いじゃん、なんて思ったりもしたのだけれど、如何に外見が良くたって、人間同様、大事なのは中身ですからね。まともに動作しないコンピュータでは話にならない。
 しかし、ですね、そのブラックeMacともいよいよ今日でお別れ。Mac miniが漸く到着したのであります。Cubeが届いた時にも随分驚いたけれど、何だよ、この小ささは。キャッチボールが出来そうだよ……って、それはちょっと大袈裟ですけどね。でも、外付けのHDよりも小振りに見えるわけで、いやはや、恰好良い。やっぱり、アップルは偉い、などと、今までの雑言を撤回したりして。
 兎にも角にも、来客のお嬢さんにちょいと迷惑をかけながら、あれこれとセットアップ。まだまだ日常の作業に支障がない状態に持っていくまでには時間がかかりそうだが、ちょっと前向きな気持ちになってきた。こんなに気分が左右されるなんて、俺って、やっぱ、相当に幼稚なんだなあ。ま、いいんだけどさ。

投稿者 zenta : 16:02 | コメント (1) | トラックバック

下取りの人がどんな顔してたか見たかった。

投稿者 guffaw : 2006年07月28日 04:43

2006年07月19日

不調ですよ。

 Macの不調にほとほと悩まされている。Macオタクを自称し、楽しく使えるコンピュータというのは、本当にありがたいものだと思って十数年。しかし、今度ばかりは、参った。うんざり。ほとんどAppleを嫌いになる寸前。
 自分がど素人であれば、諦めも早く、取り敢えず、アップルに問い合わせて、ああせい、こうせい、と助言を受けたりするのだろうし、その結果、とっとと修理に出したりすることになったりするのだろう。しかしながら、如何に機械や電気が嫌いだ苦手だとはいえ、十年以上もつきあっているMacのことであり、少しはわかる。わかるつもりでいる。そんなもので、自力で不調の原因を求めてさ迷う訳である。この旅は長かった。一ヶ月以上。その間も、全く動かないと洒落にならないので、ざっとした稼働状態を保ちながら。で、辿り着いた先は、どこかというと、買い替えなんよ。なんて、またインチキ訛りを出さずにはいられないほど、私の心はやさぐれている。……って、ここまで書いたら、また落ちたよ。
 Macの不調が原因で私の心が不調になってきた今日この頃。新しいマシンの到着が心底待ち遠しい。

投稿者 zenta : 21:58 | コメント (1) | トラックバック

僕が限りなく尊敬する時代劇画の巨匠、平田弘史大先生をご存知ですか?
限りなくメカニックな弘史左衛門先生は、誰よりも早く仕事にPCを導入、僕が伺った時には一人で五台のMacを使いこなしておられましたが、近年なにやら不満を募らせ、自らのHP上で「Appleに物申す!」として一年間にわたって綿密かつ執拗に抗議、とうとう昨年「MACは、OS9.2.2で終わった!」と実感し、Winを導入したそうです。
その全文は「平田弘史HP 近況」欄に掲載されており、もちろん僕にはチンプンカンプンなんだけど、良かったら覗いてみない?ほかのページも面白いし、ちょっと居ない偉人ですよ。
と、言っても今ダメなんだっけ?
「ニューマシン投入までお手上げ」って、なんか「スーパーアグリ」みたいね。

投稿者 guffaw : 2006年07月20日 07:23

2006年07月05日

タイミングは大事だよ

 イタリア戦を見ていたら、「北朝鮮がミサイル発射」というようなテロップが流れ出した。まじっすか、やばいじゃん、と思いながらも、こんな大事な試合を放ったらかしてチャンネル回したりしてらんねえよ、と無視を決め込む。寧ろ、テロップの字が画面を狭くするのが許せない、というような。
 しかし、ふと、落ちどころによっては、特番に切り替わってしまったりするのではなかろうか、と思い至り、気が気でない。頼むから、試合が終わるまで余計なことしないでね、と祈りつつ、画面を喰い入るように眺める。
 貴様、一国の一大事にサッカー如きに現を抜かすとは何事、そこに直れ、というような御叱りの声もあるやもしれぬが、まあ、その件については、後日、うーん、そうですね、九日過ぎにでも、改めて御返答させていただきますので、本日のところは失礼させて頂きます。

 ヨーロッパでは、北朝鮮がミサイル?、ほっときゃええやん、それよかもう試合始まってまうで、みたいな世界なんだろうか。なんでしょうなあ。

投稿者 zenta : 21:12 | コメント (0) | トラックバック

2006年06月28日

悪代官の印籠

 金を儲けたければ悪いことをするに限るということは、堀江某や村上某というものが証明してくれた。お縄を頂戴する身になったとて、最終的に手元には途轍もない大金が残るわけであり、笑いが止まらない。前科がついたかて、あんた、お金にはかえられまへん。名より実を取る言いましてな、と北叟笑むことであろう。その様を見た年少の者どもは、ほほぅ、そないなことなら悪いことするに限りますがな、と考えるようになるのが自然である。であるからして、今後、日本ではどんどん悪党が増え、ますます善人が馬鹿を見ることになるのでありましょうなあ。まっこと情けない話である。

 『水戸黄門』『大岡越前』などなどの毎週毎週大差ない物語を繰り返すばかりの番組が大変人気があることから考えるに、日本国民というものは勧善懲悪を心底愛する人の集まりなのではないかと思うのだが、あれは、つまり、現実に勧善懲悪なんてことはないのさ、ということが前提にあるのですな。考えてみれば、勧善懲悪が日常茶飯事であったならば、丁髷結ったよぼよぼの爺さんが印籠を振り回して勧善懲悪を施す姿を見て喜ぶ必要などない訳であります。あれは、現実には存在しないからこそ人心を魅する非現実の世界。現実の世界では悪党と悪代官が結託して蔓延り、下々の者を虐げ続けるのであります。

 黄色や赤の印籠を振り回すワールド・カップの悪代官を見て、こんなことを私は思いましたよ。

投稿者 zenta : 13:11 | コメント (0) | トラックバック

2006年06月21日

…と思う一方…

 ワールド・カップも予選リーグの佳境に入った。一日に四試合。これを「四試合も見られる幸福」と受け取るのか、「四試合も見なければならない苦行」と受け取るのか。まあ、「幸福な苦行」というのが実態に近いかな。孰れにしろ、幸福だの苦行だのと考える余裕などなく、ただただスケジュールに追われて画面に食い入るばかりなのである。

 考えてみると、若い頃、今から麻雀やろうぜ、と誘われて、麻雀か、いいね、と思う一方、徹夜続きで辛えなあ、でも、負けず嫌いな俺様は何が何でも断ってやんないぞ、とも思う、というような、うねうねと綯い交ぜな気持ちと似ていなくもない。あほか。勢いで、麻雀と呑み屋とを往復するばかりで三徹夜などということも、そう珍しくもなかった。何ともばかみたいだけれど、まあ、そんな時代があってもいいじゃん。というか、そういう不毛に傾いた日常、その日常を飛び回るこんがらがった感覚、そんなものが、今日の私を作り上げている土台となっているというのも否定のできない事実である。だから何だってこともないんだけどさ。

 ひたすら楽しいのだけれども、肉体的には極めて厳しいワールド・カップというイヴェント。四年に一度しかないなんて残念だなあ、と思う一方、いや、それ以上の頻度であったら身体が保たないし、有り難みも減ってしまうかもしれん、などとも思う。ワールド・カップにしろ、オリンピックにしろ、四年に一度っていうのは、なかなかうまいタイミングなのかもしれませんな。

投稿者 zenta : 03:44 | コメント (4) | トラックバック

私は、仕事に支障を来していて、もう大変なことになっています。こんなことなら、GLはもう少し抑え気味にしておいて、決勝トーナメントから本腰を入れるべきだった。出場選手だってそうしているではないか。
この仕事の遅れを、いったいどうしたら取り戻せるのかと、いま考えているのですが、「無理」という悪魔の囁きが... いかんいかん。「無理」では済まされない。本当に済まされない。
WC期間中は、全世界を休日にすべき、と思う今日この頃。

投稿者 りんご : 2006年06月21日 06:38

 そんな考えだから、いつまでたっても、日本はブラジルに勝てないのですよ。
 仕事とサッカーを天秤にかけて、無理なものは無理、と思う勇気。

投稿者 zenta : 2006年06月21日 13:30

早朝、テレビの前でくたばっているところを、家人に救出されています。
イエローカードが出されています。

投稿者 flint : 2006年06月21日 16:01

>イエローカードが出されています。

 予選リーグのイエローカードはトーナメントに入る際にチャラになりますから、大丈夫ですよ。
 ま、実際問題、トーナメントに入れば、観戦は相当楽になります。観客は今が正念場。

投稿者 zenta : 2006年06月21日 16:53

2006年06月14日

全試合見るのは生半じゃないよ

 ワールド・カップ全試合を見るのは生半なことではない。全ての時間をサッカーに捧ぐ、というようなことができれば、そう難しくはないんだろうけれど、私のような身勝手、無軌道な人間であっても、社会内でそれなりに社会的存在っぽく生きているもので、浮き世の義理をぎりぎり果たさねばならないわけで、歯軋りぎりぎり、ああ、忙しい。

 例えば、こないだの日曜。
 当然、朝まで試合を見ますわな。で、あれこれ片付けたりして、それから興奮気味のまま布団に潜り込む。余韻に浸っていたりするものですぐには眠りに落ちない。まあ、そんな感じ。
 で、昼前に欠伸しながら起き出してきて、また、あれこれと日常を片付ける。そうこうすると、ああ、もうスタジオの時間だ。しかも、雨が降ってやがる。日が高いうちにバンドってのは気が乗らねえなあ、などと思いつつも、高円寺のいつもの現場へ。で、何をやっているかというと、来月頭のライヴ用にJapanのコピーですよ。しかも、キーボード。何がなんだかわからない。葡萄酎?的なものを一本、二本と呑み重ねつつ、演奏。それに、あーあー、だばだばだー、なんてコーラスもやっている。
 恙なくリハが終わって、実に結構なことである。しかし、外は未だに雨模様。嫌んなるよ。孰れにせよ、飲み会と称して打ち合わせるわけである。あ、逆か。打ち合わせと称して呑むわけである。現場の下見だってんで、会場となるバーへと歩き出す。雨の中を。駅前で団地の仲間親子に遭遇したりして。まあ、何となく日曜の遅い午後、早い夜って感じかもね、などと思う。
 「呑む」と「打ち合わせる」のどちらが主眼かは判然とせぬまま、がんがんグラスを干す。赤ワイン。そうこうしているうちに、もう第一試合が始まっちゃうよ、ってんで、慌てて自転車をこいで帰宅。そして、朝までサッカー、サッカー。
 これって、幸せなんだよね?

投稿者 zenta : 03:16 | コメント (1) | トラックバック

 地上波で3試合やるのは昨日だけで、一人で飲み飲み飲みながら見たら明けて二日酔いになっており、私は幸せでした。

投稿者 shachi : 2006年06月15日 00:05

2006年06月07日

風邪の熱で朦朧としていて

 ちょいと前まで長々と風邪で倒れていたことはここに書きましたね。前半は本当に酷くて、話にならない役立たず。後半少々持ち直してきたところで、起きて仕事して倒れて……を繰り返した愚か者である。で、その合間に、ぼーっとしながらも、もうすぐワールドカップじゃん、全戦見るには急いでスカパーに申し込まなくては……ってんで、慌てて電話して、六月九日に間に合うように何とかなりますか、げほげほっ、なるんですか、げほっ、そりゃ、ありがたっごほっごほっごほっ、失礼、などという、咳の合間に会話をするような仕儀ながらも、兎にも角にも、目的を果たせたのでありました。良かったね。

 その後、概ね回復し、体調、生活が安定してきたところで、ふと疑問が湧いた。うちって、NHKのBSに入っているよなあ、って。ワールドカップもいつもはBSで観てるよね、って。で、あれこれ調べてみると、BS7で全部放送するってことが判明した。一体、どこのどいつが、スカパーに入らなければ全試合見ることができないのであるぞ、などと俺様に吹き込みやがったんだ、くそぅ……って、憤ってみたものの、これは偏に風邪の高熱に発する己が妄想に起因する訳で、誰も悪くなんかないことは歴然。情けねぇ。風邪も侮れねぇ。変な妄想にやられちまったなあ。

 そうは言っても、まだ工事まで随分日がある訳だし、キャンセルできないかなあ、がんがん謝りますから何とかなりませんかねえ、などと手前勝手なことを思い、電話してみましたよ。で、「風邪の熱で朦朧としていたもので考えなしに申し込んでしまったんですが」と切り出すと、「工事の方はまだでございますか」などと問われ、結局、工事してないんなら、ノー・ノー・プロ・プロ、オッケーオッケーですよ、ってなもんで、拍子抜けするぐらいファンキーな雰囲気で簡単にキャンセルできてしまった。
 スカパーのおねえちゃん、ありがとう。どこかであったら、必ず、一杯ごちそうさせてもらいます。

投稿者 zenta : 10:38 | コメント (1) | トラックバック

スカパーでなくては全試合観られないのは「Jリーグ」ですよ。
お天気予報を日に3回見るついでにNHKの番宣で見たのですが、
「ワールドカップ全試合放映」って、ずいぶん前からNHKで喧伝してます☆

投稿者 flint : 2006年06月07日 14:38

2006年05月31日

日本は予選突破できますか?

 痛風の季節が目の前に……なのではなく、ワールド・カップが開幕間近。
 例によって、南米人でも欧米人でもないのに、過剰に興奮気味の私である。もっとも、近頃では過剰に興奮気味なのは、このファー・イーストの島国でも私に限った話ではないようである。ニュースやワイドショーを眺めるに、日本全体浮かれ気味のような。こんな国だったかなあ、日本って。こんなにサッカーって人気ありますかね。ちょっと不思議な気がする。ま、いいんだけど。

 スポーツ評論家の二宮氏がテレビで問われた、「日本は予選突破できますか」と。で、「突破できないとは言えない雰囲気ですよね」的なことを返答。気が利いてるね。つまり、俺は日本は予選を突破できないだろうと思っているけれど、そんなことをここで言ったら、司会の君も怒るだろうし、テレビを見ているみんなも怒って、あの二宮てぇ野郎は気に喰わねぇ、ぶっ飛ばしてやる、みたいなことになるんじゃないの、ああやだやだ、と、彼は遠回しに批評したのである。スポーツに関するごく短いコメントでも、それなりの思いをそこに籠めることもできるのだなあ、と、ちょっと感心。

 さて、私の予想。

日本 1-1 オーストラリア
日本 0-2 クロアチア
日本 0-1 ブラジル

 こんなもんで、どうよ。

投稿者 zenta : 17:11 | コメント (5) | トラックバック

昨日のドイツ戦見ました。
高原の2ゴールはジャパンの光明ですか?
例によってそのまま守りきれないかも、と思っていたら、同点にされました。
でも、素人目にはみんな動きがいいし、パスも結構つながっていたので、この調子でいけば、もしかしたら予選突破も可能なのか?と思いました。
クロアチアの監督は息子ばかり使うことで非難を浴びているそうなので、もしかしたらクロアチアチーム内部には不協和音が流れているかも…。そこをつけば、行けるかも、本選に。
ところで、中村俊輔はなんだか居心地が悪そうに見えたのですが、気のせいでしょうか?

投稿者 りんご : 2006年06月01日 02:30

またまた、私ですみません。

http://www.youtube.com/watch.php?v=aRHk8ol0vTw

このNIKEのCMのロナウジーニョがすごすぎるんですけど、これはまさか実写じゃないですよね。
ロナウジーニョならできるのかも?とも思いましたが、いやいやいくらなんでも、これはあり得ないだろうと思っているのですが...

投稿者 りんご : 2006年06月01日 08:17

 有名だけど、結局、真偽は定かじゃないのかな。
 先日もNHKでやってましたね。CM徹底排除のNHKがナイキのCM流すのはどうなのよ、ってなことを思いつつ。

 少なくとも、他の選手であれば、CGなのか実写なのか、と世間を騒然とさせたりしない訳で、やっぱ、ロナウジーニョはすごいよな、と。
 私は、是非信じたい側。よしんば、騙されているのであってもかまわんざんす。

投稿者 zenta : 2006年06月01日 09:10

 試合後の批評家が、勝利の為にはと言って三つの理屈を上げてました。一つ目と二つ目は具体的な戦術でしたが、三つ目は例によって拳を胸に当てて「ここ、そうハート、気持ちで負けない事」って言ってました。ちょっと待て、例えばドイツには「ゲルマン魂」ってのがありませんでしたっけ?それも人種が違うってだけで600万人も空の向こうに運んじゃう魂の持ち主達ですよ。出場国のほとんどはキリスト教国だと思いますが、なんでもかんでもイエスのお陰って思ってる人々。そんな人達相手に、日本人は精神論で勝てるのでしょうかねぇ。

投稿者 Ohari : 2006年06月01日 10:32

つい、日本代表選手が敵に見えてしまうJ1一年生です。

投稿者 flint : 2006年06月01日 15:15

2006年05月24日

酷い風邪、酷い頭

 何の因果か、途轍もなく酷い風邪に倒れた。誰にうつされたのか。最後に会った面々を思い浮かべ、K瀬在のK川だろうか、Mの木在のM月だろうか。
 兎にも角にも、都合十日ほども寝込む仕儀。熱が出て、咽喉が痛くて、咳が出て、ただただぐったり寝ているばかり。ヴィデオを見たり本を読んだりするだけの力さえなく。いやあ、参った。
 しかも、締め切り仕事があったりしたもので、ちょっと回復しかけると起き出して、あれこれやってみたりしたのである。で、その所為で、悪化するわけ。しまった、大人しく寝ているべきであった、と思うのだけれど、また数日して、少しは良くなったような気がしたところで、またあれこれとやってみて、やはり悪化するのでありました。完全に馬鹿である。風邪が酷い上に、頭も酷い。まるで学習能力というものがない。
 こんなことをやっているから、治る筈のものも治らず、未だに、ふと咳が止まらなくなったりして。げほげほげほ、と字にしてみたら、いや、実際、また咳が出てきた。

 こんな切れない文章を書いているようじゃ、やっぱり、もう少し大人しくしている方が良さそうだな。
 皆様も、呉々も御自愛の程を。

投稿者 zenta : 18:23 | コメント (0) | トラックバック

2006年05月10日

デザイン・ワークなんだけど

 デザイン仕事をしている。あれこれと、萬年筆で落書きしたり、Macに向かってベクターものをいじったりしているのだけれど、これだってものが浮かんでこない。これだってものどころか、こんなもんでどうかな、ってなものすら浮かんでこない。困ったものだ。
 これでは埒が明かないので、先ず、言葉でイメージを固定させようではないか、と、如何にも行き詰まったデザイナーの考えそうな企み。キーになりそうな単語やフレーズを、ぽんぽこぽんと浮かんだままにメモして、あとでそこから何か見出せないか、と。雑な発想である。
 心を無にして取り組む。その結果、私の脳裡を飛び回ったのは、以下のような言葉。

東京、シカゴ、四日市、ブルース。
安全靴、海岸、温度調節不能のシャワー、ブルース。
岸川、ハイホー、鎌倉を、ブルース。
カラオケ、ビモータ、群れたる猿々、ブルース。
無理筋、手打ち、小田巻、ブルース。
太陽、台湾、大太法師、ブルース。
おさむ、床擦れ、シルクロード、ブルース。

 ううむ。何が何だか判らない。一体、この人は何を考えているのか。
 ユングんちにでも遊びに行けば、これらの言葉から私の識閾下に流れている何かがわかるのだろうか。

 それにしても、無意識に飛び出す言葉も、全てブルースに回帰するとは、さすがは、日サロ焼けの、ショート・アフロの、似非ブルースマンたる私。大したものである。
 大したものなのだが、本来の目的であるデザインには何一つ活かせそうにないところが、悲しいと言えば悲しい。ばってん、そげん悲しさもブルースゆうことで、よかよね。

投稿者 zenta : 19:48 | コメント (1) | トラックバック

よかたい、よかたい。

投稿者 flint : 2006年05月11日 21:34

2006年05月03日

クロスロード

 御存知の通り、私は外出が嫌いである。かなり執念深い外出嫌い。しかしながら、どうにもこうにもならない案件が生じ、湯島まで旅に出た。この方面を訪うのは何年振りだろうか。時間に余裕がなかったけれど夕闇迫る不忍池を暫しぼんやりと眺めてから、近隣の商店街を冷やかす。残念なことに、連休中のこととてあまりぱっとしない。

 兎にも角にも、やることをやらねばならん。半ばビジネス・ディナーのような、半ば宴会のようなものを、日本語と英語のちゃんぽんで過ごす。ちなみに、飲みものはシャンパンとスコッチのちゃんぽん。凡そ二時間半。解散する頃合いには相当に出来上がっていた私がいた。会合場所のホテルを背にくらくらと歩き出す。
 そうだ。ごく近所に友だちが始めたバーがあるではないか。呑み足りなくはないのだけれど……というより、既に十分に呑み過ぎているのは明白だけれど……こんな日でもなけりゃ文京区に立ち寄る機会はあるまい、とタクシーを停める。
 あっという間に本郷三丁目。交叉点から程近いってことは聞いているが、正確な場所がわからんので、店に電話して案内を乞おうと思う。携帯電話なんてえものは、あれですよ、人間の自由を縛るようで鬱陶しいものざんすね、などと普段は思っているのだけれど、こんな時には頗る便利だね。横断歩道の真ん中で電話ですか。はは、これが文明ってものかい。酔っ払い、調子に乗るの図。
 プルプルプル、プルルプルプル、と呼び出し音が続く。続く。続く。続く。永遠に続く。そこで、はっと気づいた。何たること、野郎、連休はのんびり休む心積もりか。

人気なきクロスロードに男あり 行く当てもなく暫し呆然

 思わず、くそ下手な一句を詠んでしまった私である。ここまで来たのに、ああ無念。しかし、ブルースマンたる私、転んでも只では起きぬ。そこで「クロスロードで暫し呆然」の心境を一節

投稿者 zenta : 03:56 | コメント (0) | トラックバック

2006年04月26日

ブルース・ブーム2

 有朋自遠方来。
 近所で呑んでいるんだけどさ、と電話がある。結構忙しいのになあ、と思いつつも、ちょいと顔を出す。御承知の通り、私も嫌いな口ではない。

 ショート・アフロに日サロ焼けとなると、歩き方まで変わりますな。何というのか、ゆったりと弾むような感じで。ゆるゆるの16ビート、スネアは遅めでよろしく、みたいな。
 そんな乗りで歩いていくもので、普段の二倍ほども時間がかかってしまう。まあ、それで良いのだ。日本人のせせこましい時間感覚ではブルースを体現すること能わず。

 近所にありながら、初めて足を運ぶ焼鳥屋。暖簾をくぐり、「Yo man!」と一声を発す。すると、坊主頭で和装のお兄ちゃんが「ぃらっしゃい!」と元気に出迎えてくれる。ほほぅ、今時の焼鳥屋は、ジャズですか。ブラック・イズ・ビューティフル。ブルースかぶれの私を4ビートで出迎えてくれるなんざ、気が利いているね。
 先ずは、私を呼び出した張本人に「Don't work hard, bro!」とハイタッチをかまそうとしたけれど、相手にされず、少し寂しい。初対面の御婦人三人と以前に一度だけお会いしたことのある男性に紹介される。ブルース魂になりきれていない私は、多少照れ臭い気がするものの、「What's up, dude?」と順々にハグしていった。したところ、何とも気まずい空気が流れ出す。何なのよ、このインチキな人……そんな視線が痛い。この状況を乗り切るには呑むしかない。呑むしかない。そうさ、呑むしかない、ってんで、呑みましたよ。呑みましたとも、がんがんががん、と。日本酒を三杯ほども一気にやったら、調子が出てきましてね。honey だのbabyだのと連呼したり、音楽に合わせてスキャットしたり。しまいにゃ、立ち上がって踊ったりして、頗るご機嫌である。楽しい酒は良いね。ほんなこつ、楽しか酒はよかね。

 楽しい酒は良い。ただ一点だけ問題があった。楽しんでいるのは私一人だけだってところ。同席の人々も、店員さんたちも、明らかに迷惑顔。一様に無口、むっつり。はは、楽しいのは俺だけか。ブルース道も生半じゃねえなあ、などと独り言ち、なおも酒を煽り、酒を煽り、気が遠くなる。

投稿者 zenta : 18:01 | コメント (0) | トラックバック

2006年04月19日

ブルース・ブーム

 録画してあった、スコセッシ総指揮の『THE BLUES Movie Project』8作を、忙しさを紛らす気分転換にって口実で、ちまちまとみている。作品毎にばらつきがあって、善し悪しはいろいろ。けれども、そこで流れる音楽はどれも御機嫌だし、彼らの因って来る根っこに触れるこの感触は今までに味わったことがない。メンフィスだのシカゴだのってものは、頭の中にはあったけれど、明らかな誤差がそこにはあった。当たり前だ。

 兎にも角にも、中学生時分に嵌まって以来、30年振りのブルース熱。Screamin' Jay HawkinsだったりJames Blood Ulmerだったり、Taj MahalだったりMadeline Peyrouxだったり。例によって、一貫性のない選択だが、新旧あれこれ取り混ぜて、聴きまくる、聴きまくる。ギター爪弾いてみたりしてね。ふふ、何とも楽しい。
 そうだ、たまには、中身で勝負じゃなく、見てくれから入ってみるか。そんな気になるなんざ、ブルース魂を大幅に履き違えておりますな。なんだけれども、ま、何はともあれ、これから床屋でショート・アフロあててきます。んで、帰りに日サロで焼きまくってきますよ。来週か再来週ぐらいには別人のようになれるだろうなあ。町中で擦れ違っても、みんな、気づかないでしょう。万が一、気がついたら、「Hey bro!」とか「Yo man!」ののりでよろしくね。

投稿者 zenta : 14:15 | コメント (0) | トラックバック

2006年04月12日

洋行の恐ろしき

 幸か不幸か、私は外国を訪うたことがない。外国どころか、本州から出たのだって、35年前の一度きり。絶対に行かないと決めている訳ではないけれど、それほどの用向きも熱意も、今のところ、生じていない。

 散り際の悪い花見の後、寒くなってきたので家に戻って引き続き呑んだところ、海外で一年ほども暮らした友人から、たまげる話を聞いた。ロンドンやパリでは、夏の盛りともなると、女性がおっぱい丸出しで町内を闊歩するのだという。おバカンス先の浜辺でってなことではなく町中でかよ、っと、私、大変驚きました。ええ、驚きましたとも。酔っ払って適当なこと言いやがって、などと、突っ込んでみたのだけれども、当人、いや、これはまこと、これは真実、と譲らない。そう言われてしまえば、そうなのかもしれない、と、酩酊した頭が考える。
 もし、本当なら、困りますね。桑原桑原。外国人がどうなのかは知らんけれども、私は戦後の東京、昭和の真っ只中に生まれ育った者、町中で、ぱいおつだしまるの女性が歩いているなんて図は絶対に受け入れられない。おっぱいを忌み嫌っている、とか、そんなことではない。ただ、町中では勘弁してほしい。理屈じゃないよ。
 夏のパリなんざ遊びに行けないね。目の遣り場に困る。見ちゃいけない見ちゃいけない、なんて思うと、余計、そちらに目が行ってしまうのが、人というもの。じゃあ、逆に、がん見すりゃいいじゃねえかってんで、がんがんがりがり穴の空くほどに睨んでしまうのもそれはそれで妙だ。というか、それって変質者じゃありませんか。

 予てから、ジンノガイなんてえものは、ほんと、訳がわからねえと思っていたけれど、町中でおっぱい? 無理っ、と裕梨の口調で即答する私がいる。嗚呼、倫敦巴里が遠退けり。
 しかしですね、幸いなことに、人間には素晴らしい想像力というものが備わっているのであるからして、実際に行かなくたって、何ら問題はござんせんよ。本で読み、映画で観、夢の中で歩けば宜し。我輩はそれで十二分に幸せであります。

投稿者 zenta : 20:18 | コメント (1) | トラックバック

 私も海外で一年ほど暮らしましたが、おっぱい丸出しで町内を闊歩ってのには、お目にかかったことないですねえ。休日のハイド・パークとか、セーヌ河畔とかで見たことはありましたが。その人、泥酔してたんでしょうが、嘘ついちゃいけませんねえ。おいらも酔っぱらって似たような法螺吹かないように気をつけなきゃ。

投稿者 shachi : 2006年04月13日 02:42

2006年04月05日

まだ花見

 風が吹いて散り、また、今日の雨で散り、愈々桜も残り少なくなってきた。けれども、今晩だって花を楽しむことは可能である。「三日見ぬ間の桜」などという物謂いに象徴されるように、すぐに散ってしまう儚い花と思われがちな桜も、存外しぶといものである。しぶといのは花だけではない、今日も又、これで一杯やろうというのだから、呑む側も相当にしぶといと言えるだろう。花も呑み助も、こんなに散り際がしぶといとなると、日本の、というより、侍の美学に反しますなあ。さりながら、幸いなことに、私は侍なんぞではなく、町内の与太郎一号なのであるからして、散り際悪しく、つくづく見苦しく、今宵も盃を重ね続ける、と。

投稿者 zenta : 09:53 | コメント (1) | トラックバック

甲府は今がちょうど見ごろです。
明日あたり、お花見する予定です。

投稿者 flint : 2006年04月08日 17:17

2006年03月29日

花見

 我が団地では、花は満開。見事に見頃なのである。午後から軽く一杯やるかい。そんな話もあったんだけれど、花や良し、けれども、風強く気温低く、平日昼間から呑もうぜと声掛け合って、あいよ、と集まる人材が乏しいということもあり、結局は中止になる。勿体ない。

 実世界での花見は中止になった。その代わりということでもないけれど、末廣亭で架空の花見を味わう。遊三の「長屋の花見」。ところが、出来が悪くてね。全く楽しめなかったざんす。
 こうなったら、自分で演るしかねえなあ、という気になり、帰り途、ヘルメットの中で「一升瓶が三本と聞きゃぁ、おめぇ、上野の山はおろか、カムチャッカでも何でも行っちゃうよ」「この頃はぁ、練馬の方に行きましてもねぇ、このぉ、かまぼこの畑が少なくなりましてねぇ」「大家さん、近々長屋に良いことが起こりますぜ。ご覧なさい、酒柱が……」って、ぶつぶつと独り言ちているうちにどんどん楽しくなり、終いにゃ、メットの中で吹き出しているてんだから、世話ぁない。

 仲間が集まってわいわいやる花見が結構なのは勿論だが、脳内で繰り広げられる「長屋の花見」というものも何とも楽しい。想像力てぇものは、実にありがたいものでありますなあ。

投稿者 zenta : 20:02 | コメント (0) | トラックバック

2006年03月22日

春は辞書の季節

 予てから気にしてはいたけれど、タイミングが合わぬままだった大修館の『日本語大シソーラス』。春、即ち辞書の季節、と、デジタル版を購入した。早速インストールして、ぱっと思いついた「破壊」を引いてみる。……ヒットしない。何だよ。しょうがねえなあ、ってんで、全文検索にしてみれば、そりゃ引っかかりますよ。当たり前だ。「破壊」を含む語(例えば、価格破壊)が五つとそれらの語を含む十のカテゴリーとがリスト・アップされる。まずまずのようにも思えるが、全文検索は、当然のことながら、のろい。のろい。のろいよなあ。と、そんな文句をぶつぶつと呟きながら、一頻り遊ぶ。
 語釈のないこの辞典。便利で面白いのは確かであるが、普通の人々には普通の語釈有りの類語辞典の方が良いんだろうなあ、とも思う。見出し語数の少なさも痛い。

 それにしても、私は何故、最初の一語に「破壊」を選んだのだろうか。どんな辞書に当たっても、こういう問いへの答えは載っていない。

投稿者 zenta : 13:08 | コメント (0) | トラックバック

2006年03月15日

続・情報赤札市

 またWinny話かよ。と、そう思われましょう。私だって、したかない。こんな話なんぞより、もうそろそろ桜で一杯、なんてことを書きたいと思っているのだけれどね。

 官房長官とかいう人が記者発表の席で「情報漏洩を防ぐ最も確実な対策は、パソコンでWinnyを使わないことです」などと言うておるのを目にして笑いが止まらなくなった。ははは、このおっさんもたまには気の利いた冗談をかますもんだなあ。なんて、思っていたんだけれども、どうも冗談ではないようなのである。
 またまた強弁上等で比較するなら、これって「交通事故をなくす最も確実な対策は車に乗らないことです」とか「汚職事件をなくす最も確実な方法は政治資金規制法と公職選挙法を撤廃することです」とか「米軍基地問題をなくす最も確実な方法は日本がアメリカの五十一番目の州になることです」、あるいは「死なないための最も確実な対策は生まれないことです」って言っているのと、同じこととちゃうんかい……って、強引過ぎますか。まあ、そうなんだけれども、官房長官というような職にある人間が国家機密まで漏洩している状況にもかかわらず、こんなことをしたり顔で述べているという図が、私の脳内の笑い誘引物質に訴えかけるというか、何というか。
 だから、本来なら、ばっかじゃねーの、などと言って、大笑いしたいところなんだけれど、そうする気になれない。そうする気になれないのは、メディアがしっかりしてくれないからである。テレビや新聞がきちんと批評精神を発揮していてくれるなら、私のような盆暗は安心して笑っていられるのである。なのにさ、日本政府斯く語りき的に、こんな幼稚な発言がさもまともな記者発表であるかのように報道されてしまうこの現実を見ると、笑ってられんよ。いや、ほんと。
 しかもですね、こういうことを私が言っていると、今更、何を言っておるんじゃい、と一笑される訳ですよ。娯楽に堕したあほたれメディアに批評性を求めるなんて、全ちゃんってばオコチャマなんだからぁ、的な笑い。もう、ぼくらはとっくに諦めてますよ、マスコミなんて勘違い野郎のぽんぽこりんなのだ、などと私の友人たち申すのでありますよ。せやけどね。わいは諦めとうないのんや。

 ううむ、私の周囲の人間全てが狂っているように思える。これは、つまり、世間から見ると私が狂っている、ということになるんでしょうねえ。ま、否定はしない。

投稿者 zenta : 23:17 | コメント (1) | トラックバック

winnyの問題は何年か前にもありましたよね。前に自分の周りでも、ウイルスもらっちゃってさ、なんて話してる奴もいましたよ。まぁ違法なことしようとしてんだから、それなりのリスク背負ってやれって思いますね。

投稿者 quwabara : 2006年03月18日 14:05

2006年03月08日

情報赤札市

 私、御存知の通り、Macおたくでありまして、激しくWindozeを嫌っております。なので、Winnyなるものには縁がなく、三面記事以上の興味を持ってはいなかった。
 ところが、昨今の情報赤札市。違法コピーやお下劣データなどなどに留まらず、自衛隊や警察の、謂わば、国家機密の類まで無料で世界中にずんずん流れてしまっているというではないか。事此処に至っては、知らん顔はしていられない、というか、せめて顰めっ面ぐらいはせずにはいられないというところ。そうなんだけど、それは他の人がやってくれているので、そちらにお任せしよう。

 私が懸念しているのは、これで著作権法違反幇助だか何だかの罪に問われているWinnyの開発者がますます不利な立場に陥るのではないか、ということである。文化を維持、発展させるためには、著作権は大変大変大事なものであるからして、必要に応じて保護するのは当然のこと。我が家の収入の幾許かは著作権収入でありますしね。しかし、だからと言って、Winnyを責めるのはお門違いではないかしら。

 煙草を吸ったり酒を飲んだりして、補導される少年は少なくない。斯く言う私だって、若かりし頃、その列に並んだことがある。捕まれば、当人たちは叱られたりしますな。交番で説教されたり、学校で頭を小突かれたりしてね。さて、ここで、Winny裁判の例に倣えば、煙草会社や酒会社が喫煙幇助、飲酒幇助の罪に問われたりすることになりませんか。些か強引だけれども、こんなことを思い浮かべてみる。煙草そのもの、お酒様そのもの、Winnyそのものに罪はなく、法に触れる使用法をする輩が罪に問われるべきではないか、と。やっぱり、こんな比較は強引に過ぎますか。

 念の為に言っておくと、私はWinnyそのものには罪がないと思うけれど、違法コピーはいけませんよ。いや、ほんと。当たり前のことである。しかし、何故か、クリエイトする側の人々、つまり、著作権者でもある人々の中にも、平気で違法コピーを繰り返している人っているんだよなあ。それって俺のことか?って、どきっとした君。そうそう、君のことだよ。

投稿者 zenta : 16:24 | コメント (0) | トラックバック

2006年03月01日

非競争

 ウェブ仕事がほぼ一段落したもので、Macromedia Studioをアップグレイドしようかな、と思い、ウェブを訪問して情報を確認。と、そこには、Macromedia storeは店仕舞いするからAdobeでどうぞ、というような文言が。買収されたんだからして当然のことなのであるけれど、ちょっと不思議な気がしなくもない。一番のライヴァルだった会社に買収されちゃうなんてなあ。
 兎にも角にも、Adobeのサイトを覗いてみるものの、そこに書かれているのは、貧乏人なぞ及びでないような金額である。で、とっとと退散した次第。

 こうなると、web制作や出版界隈に関しては、Adobe様の寡占状態である。競争がなくなるとどうなるんだろう。製品クォリティの停滞、コストダウンの不要、などなど……ユーザにメリットになりそうなことは思いつけない。競争すりゃあ何でも良いってものではないけれど、この状態はいただけない。
 昨今の偏った政治も同じようなもんですよ、と、そんなことを言ってみたくなる。少しは競争してもらわにゃ話にならんところで、自爆するかばたれがいたりする国、日本。情けねえ。

投稿者 zenta : 18:48 | コメント (0) | トラックバック

2006年02月22日

忙しいのに遠出した

 めたくそ忙しいのに、どうにも断り切れずに遠出。暫く振りのことなので、エンジンがかかるか懸念されたが、好天が幸いし、存外速やかに単車に火が入る。しかしながら、肝心の人間の方はというと、どうにも調子が出ない。思ったほど寒くないんだけどなあ。
 青梅街道を東へ直走り、新宿通りに乗りかえて、四谷見附を右折すると正面に迎賓館が見える。ここを駅伝の都大会で走らされたなあ、と懐かしむ。三十年前のこと。あの日は、酷い風邪だったのに休ませてもらえず、ほとほと往生したのであった。いや、ほんと、風邪で駅伝なんて無理言っちゃいけませんよ。
 人間様も漸く温まってきた。赤坂見附へ下る辺りから快調快調、快々調々。虎ノ門を抜けて、新橋六丁目の目的地に辿り着く。時計を見れば、何だよ、結構良いペースで走ってきたんだなあ。たっぷり時間が余っているよ、てんで、近所の喫茶店で一息。昔気質の珈琲店でござい。豆の香り以上に、古臭い店の作りとのんびりしたおばちゃんの対応に、ほっとした私である。おばちゃん、ありがとよ。

投稿者 zenta : 23:28 | コメント (0) | トラックバック

2006年02月15日

じゃっ、また。

 漸く風邪が一段落したようなところで、高円寺で呑む用事。呑む用事っていうのも何だか変だけれども、他に何と表現すれば良いのかわからない。言ってしまえば、先に亡くなったKを偲ぶ会的なものなんだけどさ。

 まず、少しだけ形式張った空気で一杯。同座している面々ともロケイションとも、ざっと二十年前後のつきあい。まあ、いろいろありまさあねぇ。アルコールに押されて想像力も飛躍気味で、眼前での会話とは別に、脳内であれこれと景色や想いが飛び交う。

 次第にただの呑み会に変じていき、二軒目三軒目とどんどん杯を重ねる。けれども、行く先々で出会う人々も偲ぶ会的なものに縁の人々だったりするもので、ずっと頭の片隅に引っ掛かりを抱えたまま。気がつくと、カウンターに突っ伏し、泥酔半睡。はっと目が覚め、埒の明かなさを尻目に、引き上げる。お疲れ。じゃっ、また。……ってなもんで、帰路につく。

 何年前のことだったか思い出せないけれど、最後にKに会った時にも、じゃっ、また。……ってなもんで別れたんだったろうなあ。ただ、その「また」ってのが、今生じゃなかったってだけ、か。

投稿者 zenta : 21:46 | コメント (0) | トラックバック

2006年02月08日

続・ずるずる

 年賀状に乗り遅れ、寒中見舞も三枚だけ発送したところで風邪に倒れ、私なんざ、所詮は半端者、ずるずる引き摺るよりは、いっそやめにしてしまおうかとも思ったのだけれど、ぱらぱらと辞書を繰っていたら、「余寒」なる言葉に出会した。寒が明けてもなお残る寒さ、ですか。ほほぅ、これは良い。これで行こうってんで、寒中を余寒に書き替えて、また三枚ずつ見舞状を発送し始めた。
 今度は一日で終わるなんてことはなく、一日……二日……って、ところで、また風邪だ。いや、ほんと。これって、言い訳じゃなくて、本当の話なんですよ。どうせみんな信じてくれねえんだろうよ。くそぉ、狼少年の心境だなあ。
 現状、寝込むってほどじゃないんだけれど、昨夜からは偏頭痛が酷い。今朝になってもなかなか改善されないので、とうとうバファリンを服用した。生まれて初めての頭痛薬。もっとも、主たる成分であるところの「アセチルサリチル酸」は風邪薬や何かを通じて何度も摂取しておるのだろうけれども、何というのか、バファリンを服む、ということで、負けたような気になっている。バファリンとかアスピリンを服むなんざ、私の中では、軟弱者だの、アメリカのホームドラマ野郎だの、という偏ったイメージがあり、そんなものを摂取しては、男として負けだ……そんな、いろいろな方面から批判を浴びそうな、意味不明かつ幼稚かつ愚かな拘りがあるのである。
 そんな私がバファリンを服んだ。はは、自ら負けを認めたってことか。どうせ、おいらは軟弱野郎だよ、と呟き、鼻水をずるずるとすする。情けねえ。

投稿者 zenta : 19:10 | コメント (1) | トラックバック

鎮痛剤の強いやつ(病院で貰っている)を、頭痛、発熱、腰痛、その他諸々、体の何処かが調子悪いたんびに、服用しています。
イタイノキライ。
どうぞ、おだいじに。

投稿者 flint : 2006年02月12日 17:08

2006年02月01日

ずるずる

 年賀状を出そうかなあ、と思っているうちに、ずるずると日々が過ぎ、気がついてみると、年が明けていた。もうしょうがないから、今年は諦めて来年から頑張ることにしよう、などと放棄してしまう、ここ数年。だが、今年はちょいと違って、年賀状の不義理を寒中見舞でお返し致そう、と思い立った。
 どんな図にするベえか、と悩んでいたら、まんまと雪が降ったもので、これ幸い、とデジカメで撮影。雪の中をうろつく白猫ってな図に決定。ざざざっとレイアウトして、ざざっと印刷してみる。近頃じゃあ、インクジェットプリンタ用の葉書きというものがありますな。確かに、ぼちぼちきれいに印刷できる。しかし、こいつには、萬年筆のインクが滲むという弱点がある。きれいな印刷と萬年筆のどちらを取るかと問われれば、そりゃ、萬年筆を取る私である。多少印刷が汚いのも味ってことにして。気合い入れて印刷屋に放り込むほどのやる気じゃないし。
 兎にも角にも、こういうものは、気が乗っている時にがががっと片づけるに限る。そうはわかっているのものの、量が多すぎて尻込みしてやっぱりやめよう、という気になるってこともあるよね。そんな言い訳を用意して、一日に三枚ずつぐらいでどうよ、などという、温い目標を立てた。そして、三枚を発送。つまり、一日だけ実行したということである。そこで、私、風邪に倒れたのであります。はは、世の中、うまくいかねえや。これは、もう今年はやめた方がいいんでないかい、という天のお告げかもしらん。

投稿者 zenta : 15:18 | コメント (0) | トラックバック

2006年01月25日

あがっていってくださいよ

 くそ寒い中、環七を単車でのこのこ北上し、火事で亡くなった友人Kの店の焼け跡を見に行った。近づくに連れ、何とはなしに息苦しくなる。
 やっとのことで現場に辿り着いてみると、そう広くはない焼け跡に、ちょいと風に吹かれるだけで相当に危うい様子ながらも、どうにかこうにか残存する煤けた店構え。昭和30-40年代の駄菓子屋を彷彿とさせる。
 野郎、ここで死んじまったのかぁ、呆気ないもんだなあ、などと、ぼんやりと眺めていると、何たることか、焼け焦げた硝子の引き戸をがたがたいわせながら、K本人が顔を出した。
「全太さん、昨日はわざわざお通夜に来てもらってすみませんでしたね」などと言う。
「おぅっ、そんなのは気にするなよ。それより、おまえ、死んじまったってのに、ここで何やってるんだ?」
「まあ、いいじゃないですか。とりあえず、ちょっとあがっていってくださいよ」
「ちょっとあがっていって、って言われてもねえ……」

 こんな夢を見たよ。

投稿者 zenta : 22:34 | コメント (0) | トラックバック

2006年01月18日

ノー・フューチャーとか言って

 今、『No Future U. K.?』っていう、要するにピストルズの『Spunk』ものを聴いているんだけど、ふと考えると、連中が世に出てからもう30年。30年ですぞ。これって凄くありませんこと?……っていうか、凄い。いや、本当に凄いことだ。
 その間、世界が相当に変わってきているのは確かである。バブルが膨らみ、そんでもって弾けた。ベルリンの壁は壊れ、町蔵が作家になってテレビのCMに出たりして。今じゃちびっこでさえも携帯電話にインターネット。
 でも、こんなことって、所詮は物質のレベルでしかないよなあ、としみじみ思う。取り巻く環境は変わっても、地球上を蠢く人間てえものは、あまり進歩がない。

 しかし、あれだね。今じゃピストルズを聴くと、何というのか、懐かしさに涙が零れそうになる……って、それは大袈裟だけれども、30年前の、あの、無闇に血湧き肉躍るようなエネルギーは吹き出してこない。ピストルズでさえも、もはや、懐古の対象なのだなあ、と思うと、おかしいような、悲しいような。

投稿者 zenta : 14:49 | コメント (0) | トラックバック

2006年01月11日

ぞろ目

 本日は1月11日。お、ピン・ゾロだね、ってなことをついつい思ってしまう私というものは如何にも軽薄、如何にも愚か、さすがは無職、さすがは自称藝術家、世間様に如何なる貢献もしていないだけのことはある。寧ろ、褒めてやりたくなるほどに役立たずぅな人間であるなあ、と思う。

 ついこないだまでは、正月と言えば、後輩、同輩、兎に角ばかが雁首を揃え、ちんちろりんをしたものである(勿論、そんなのは私の周囲だけの話であって、世間様ではそんなことないんだろうけどさ)。
 知らない方もいるやもしれぬので、簡単に説明をば。
 ちんちろりんってのは、賽子三つを丼なり茶碗なりに放り込んで、出た目の数に応じて役が定まり、やったぜ、だの、やってらんねぇ、だのと一喜一憂する、そんな遊びである。で、その中でも一番強いのが、一の目が三つ揃う状態。これを称して、ピン・ゾロという。我が界隈のルールでは十倍の役となっており、仮に千円賭しておれば一万円を頂戴できるという仕組み。親でピン・ゾロを出せたりしたら、もう、あなた、ああ、嬉しいじゃありませんか……って、いけませんよ。日本では賭博行為というものは禁止されておりますから、飽くまでも、これは、「仮に」という前提であることをお忘れなく。
 兎にも角にも、一番強い目を好むのは博奕打ちの性。しかも、ピン・ゾロってのは、赤が三つ並んで見た目のインパクトも抜群である。賽子にふっと息を吹きかけ、放り込む。ころころころころと回っている間、心の中で、ピン・ゾロ、ピン・ゾロ、と祈りをかけて……って、一体、私は何を書いているのだろうか。私が書こうと思ったのは、辞書を引いておっ魂消た、という話である。

 諸君、手近な辞書に当たってみてくれ給え。「ぞろ目」の項には何と書かれておりますか。賽子二つ、二桁の数字、一着と二着……斯様なことが書かれてはおりますまいか。ああ、もし、辞書の類が正しいのであれば、私は今までのちんちろりん人生において、全面的に間違っていたことになるのであります。しかも、今後、賽子を振った後、心の中でどう祈れば良いのか。ピン・ゾロが誤用であるのなら、私は一体どの様に祈れば良いのだろうか。
 ピン・ゾロ、ピン・ゾロ、と祈っても、一が三つ、一が三つと祈っても、非科学さ加減に差はないし、そもそも祈って目が出るのなら世話はない。けれども、何事においても最後の最後に大事なのは、それはやはり気合いなのであり、「一が三つ」じゃ力が出ない。そんな気が致します。やっぱり、掛け声は「ピン・ゾロ」じゃないと。

投稿者 zenta : 11:11 | コメント (0) | トラックバック

2006年01月04日

御屠蘇気分

 新年を迎えたのであるからして、明けましておめでとう、などと挨拶を交わす。今年も宜しく、などとね。実際のところ、年が改まったからって何がめでたいのか、などと考え出すと、それはよくわからない。よくわからないけれども、おめでとうという挨拶に罪なきことは判明であるし、私だとて、おめでとう、おめでとう、と口にしながら酒を呑むのを否とはしない。いや、寧ろ大歓迎。当たり前だ。

 理由の判然としない世間のめでたさ気分の御裾分けをいただきながら、昼日中からだらだらずるずる呑み続けるのが、私の中での正月というものなのである。ちびちび呑んで良い心持ち。一休みしてまた一杯。で、うとうとしたりして。目が覚めたら、また一舐め二舐め、なんて具合。加えて、何とはなしにサッカーを観たり、どうでもいいバラエティ番組を眺めたり、と。そうやって、無駄に時間と体力とお酒を消費していくのが私の正月というものであり、私の御屠蘇気分というものなのである。正月がめでたいのはなぜかということは判然としないけれど、少なくとも、私のおつむがおめでたいということは歴然である。

 例年そんな具合に過ごしているのだが、今年は何だか御屠蘇気分に乗り切れない気がしている。なぜだろう。

投稿者 zenta : 10:44 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月28日

近頃の私の悩み

 杉並区には犯罪メーリングリストってなものがある。私はそれをば購読している。それで、杉高の脇の通りに程若い露出狂が出没して小学生を脅かしているのか、などと知る。あるいは、上下黒のジャージを纏い、黒の帽子を被り、おまけにマスクまでもしている、などという如何にも怪しい風体の中年男が頻繁に低学年児童に声をかけている、などと知る。はたまた、以前は風呂屋だった辺りでバイクに乗ったひったくりの事犯が発生した、などと知る。

 杉並区は、中でもうちの近所なんざ、世間一般から考えると、相当に安全な地域ではあるけれど、それでも、配信されてくるメールを読んでいると、物騒な世の中だなあ、と思わざるを得ない。子どもたちが安心して、町を歩けないなんて、途んでもないことである。この荒んだ御世に私たちにできることは何かないのだろうか、というと、あるのであります。地域住民がそれとなく町を見張るというか、目を配るというか、兎にも角にも、そんなことが大事なのだそうだ。実際、小さな子が被害に遭う事件が連続して発生して世間を大きく揺すぶって以来、PTAなんぞが町角に立ち、下校時を見守るようにしたおかげで、変質者の出現は減ったようだし、ついでの効果として、日中の空き巣まで減ったようである。普通のおばちゃん、おいちゃんたちのささやかな努力が世界平和に大きに貢献している訳で、実に素晴らしいことである。

 家でぷらぷらしていることの多い私も、少しは世間の役に立てるではないか、と思い立ち、下校時に表に出て、辺りを見回す。近所の小僧っ子どもが帰ってくると、おぅ、こんちわぁっ、なんぞと声を掛け合う。顔見知りだとこんな具合でいいんだけれど、知らない顔の子どもたちにはどう接するのが良いのか。実のところ、これで悩んでいる。だってさあ、私の履いているズボンやジャージの類の過半は黒ですよ。上着だって、黒や濃紺だってことが殆ど。そんな身形の見知らぬおっさんに声をかけられたら、どう思うだろうか、とね。黒尽くめの怪しいおっさんだ、大変だ、逃げろ、ってなストーリーになるんじゃなかろうか。通報されかねませんぞ。だからと言って、目に付かないように、そうさね、古葉監督のように、電柱や木の陰から顔半分出して覗いていたら、それはそれでますます怪しくなってしまう。んだば、わざわざ見て見ぬ振りをすべきなのか。いや、寧ろ逆に、見知らぬ子どもに出会したら、こっちが先に走って逃げてやるのはどうだろうか、などと、だんだん訳が判らなくなってくる。発想の転換だ。赤いパンツにオレンジの上着かなんかにすれば、少しは怪しさが軽減するに違いない、などと。でも、そうすると、それはそれで違う意味で変な人だと思われそうだしなあ。

 暮れも押し迫った今、こんなことで悩んでいるおれって……。

投稿者 zenta : 21:26 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月21日

マオマオ2

 昨日shichioくんが書いていた「マオマオ」を勝手に連載。

Mr. Bae was back in Tokyo yesterday.

 ちょいと前にこんな記事に出会した。誰だ、こいつ。バエ氏なんてわしは知らんぞ。それとも、ベイさんかね。ううむ。……なんてね。
 そうは言っても、実際のところ、記事全体を読めば、誰だかってのは、流れで判るものである。

More than 1,000 fans, largely middle-aged women, crowded their idol's hotel.

こんな文が続けば、ああ、ああ、あいつだなって。
 しかし、あの人ってPじゃなくて、Bなのかよ、って疑問を抱きますね。で、Googleで「ヨンジュン」を検索してトップに出た公式サイトを拝見しました。なるほど、確かに、Bae Yong Joonって書かれておりますなあ。特技は、剣道に合気道ですか。意外だなあ。日本人より日本人男児らしいと言われるのは、こんなところも影響しているのだろうか……って、そんなことを調べに来たのではない。
 ページ・タイトルを見てみると片仮名ではぺ(Pe)って表記になっている。横文字ではBaeって綴られているけれども、日本語の音としては「ベ」よりも「ぺ」なのかね、と一応納得してみようと思うけれど、どうも腑に落ちない。念の為、Googleで検索してみましたよ、「ベ・ヨンジュン」を。すると、何たることか、やはり、ヨン様公式サイトがトップに出る。どちらが正しいのか。「ぺ」と「べ」、どっちもどっちってことなんだろうけど、すっきりしない気分は解消せず。元来、固有名詞の発音ってものはややこしいが、外国語となると殊更だ。
 ところで、皆さん、「Pe-Young」は御存知ではありませんか。ヨン様に負けず劣らず有名だけれども、これはヨン様ではありません。人名ではなく、ブランド。詳しくは、群馬が誇る、まるか食品にお問い合わせ下さいませ。

投稿者 zenta : 14:22 | コメント (5) | トラックバック

その昔、田舎で初めて遭遇したカップ麺はカップ・ヌードルではなくて Pe-Young のやきそばと、あと徳島の会社の「金ちゃんヌードル」でした。後者はいつまでたっても箱根の山を越えてきません。東京の人知らないでしょ。

投稿者 shachio : 2005年12月24日 22:55

 「金ちゃんヌードル」、名まえだけは耳にしたことがあるものの、実物は見たことがないねえ。箱根の山は天下の剣、ってことか。

 気になって、徳島製粉のホームページ を見てみたら、会社概要の中で「九州から静岡まで西日本を中心に販路を拡大している最中です。」と宣うておる。箱根越えの予定は、当分ない、とみた。

投稿者 Zenta : 2005年12月26日 07:19

因みに、関西では「ぺヤング」って売ってないんです。関西の主流は「UFO」。その他「塩カルビ」って焼きソバが人気です。でも「ぺヤング」が食べたいでやんす。

投稿者 Ohari : 2005年12月26日 16:53

ということは、「ペヤング」のCMも流れてないってことか……って、まあ、近頃じゃ、東京でもあまり流れてないですか。

投稿者 Zenta : 2005年12月26日 21:22

宣伝しなくても、って余裕ですかねえ。UFOはしょっちゅう100円切った安売りしてるけどペヤングはめったにやりませんもんねえ。

投稿者 shachi : 2005年12月27日 02:00

2005年12月14日

用の美


 11月のライブラリーに書いたダイアリー話だけれど、あとの二冊は、MoleskineのものとPomegranateってところから出ているEdward Hopperもの。

 私は萬年筆おたくである。当然、帖面の類にはその趣味を満たしてくれるものを欲す。ところが、機能の殆どとすっきりしたデザインが優秀なMoleskineは残念なことに紙が薄過ぎ、裏写りしないペンとインクの組み合わせを発見できていない。Edward Hopperの方は、逆に、紙が厚過ぎ。全頁がびしびしにコーティングされていて、萬年筆どころか、鉛筆だって撥ね除けてしまいそうだ。これに問題なく書き込める道具となると、ボールペンかポスカの類だろうかね。孰れにしても、これを作った人々ってのは、恐らく、自分で書いたりすることのない人々なのでしょうな。
 そこへ行くと、teNeuesのピカソのダイアリーは秀逸である。絵を載せる頁のみにピカピカコーティング紙を使用。見る頁と書く頁との区別ができている。当たり前のことなんだけどね。

 こうやって、あれこれと何冊かの帖面を取っ換え引っ換え繰っていると、用の美ってものを見直すことになる。美しいだけではなく、実用に優れる、ってな物。この世のありとあらゆる製品がそうあるべきだけれど、中でも、建築なんぞがその代表だろうか。そうなんだけど、現実世界に目を向けると途んでもない。世間を騒がせている構造偽造連中のビルを見てご覧。つくづく、がっかりさせられますな。そこには美もなければ用もない。ないない尽くしで、放っておけば命までなくなるというじゃありませんか。


 今、我が家ではteNeuesものがブレイク中であります。手頃な値段で、用の美を提供する。家内は、Miroの小さなダイアリーを使用中。
 そもそも、teNeues製品に注目することになった切っ掛けは、Kleeのカレンダーである。LP見開きサイズで、しかも、二ヶ月分をまとめて一頁になどというせこいまねはせず、12ヶ月を存分に満喫できる。これが千円とちょいで買えるんだよ。付き合いの長い酒屋さんや電気屋さんが届けてくれたカレンダーも良いけれど、少額の出費で、一年間、気分良く眺められるのである。どうじゃい、諸君も、teNeuesのカレンダーを買う気になっただろう。Klee以外にもいかしたものがわんさかあって、選ぶのに苦労するほどだ。私自身、もう二、三種類は買いたいのだが、如何んせん、狭い長屋住まいだからなあ。

 ところで、念の為に言っておくと、teNeues、teNeuesと騒いでいる私だけれども、マージンなんぞは一切頂戴していませんよ。もっとも、くれるっていうんなら、遠慮なく貰うけどさ……っていうか、こんだけ宣伝してんだから、珈琲の一杯ぐらい奢ってくれても良いのにね……って、しかしながら、連中、日本語は読めんだろうなあ。

 だらだらずるずる書いていたら、無駄に長い、正に、用の美から程遠い文章になってしまいましたよ。情けねえ。

投稿者 zenta : 19:38 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月07日

ポン酢醤油の季節

 妙に身体に染みついていて、どうということもないときに、突然、思い出される唄ってあるよね。で、一度思い出すと、どうにもこうにも耳から離れないっていうような。
 今週の頭あたりから、私に激しく取り憑いているのが「しあわせ〜って 何だ〜っけ? 何だ〜っけ?」ってフレーズ。どんなCMだったのか、内容は忘れたけれど、下げは「ポン酢醤油は キッコーマン キッコーマン」だったように思う。耳の中でくどくど響くこの声は、間違いようもなく、明石家さんまのもの。ま、そんなことはどうでも良い。

 このメロディが何かにつけて脳内で繰り返されるせいで、近頃、「幸せ」とか「幸福」などという言葉に出会す度に、格別の手触りを感じてしまう。で、「しあわせ〜って 何だ〜っけ? 何だ〜っけ?」って。まあ、勿論、私の幸せは……そして、多くの人の幸せも……ポン酢醤油なのではないだろう。けれども、おいらの幸せてえものはポン酢醤油よ、ってな物謂いもいかしているなあ、なんて思ったりしなくもない。

 突然、取り憑かれたのと同じように、突然、去ってゆくのだろうけれど、それまでの間は「しあわせ〜って 何だ〜っけ? 何だ〜っけ?」と繰り返しながら、幸せって言葉に微妙な引っ掛かりを抱えつつ、日々を過ごすことになるんだろうなあ。

 気が向いたら、みなさんも御唱和下さい。「しあわせ〜って 何だ〜っけ? 何だ〜っけ?」

投稿者 zenta : 20:48 | コメント (2) | トラックバック

「しあわせ〜って 何だ〜っけ? 何だ〜っけ?」
「ポン酢醤油が ある家さ〜♪」
「ポン酢醤油は キッコーマン キッコーマン」

投稿者 flint : 2005年12月12日 03:39

 それだ。

投稿者 Zenta : 2005年12月17日 16:18

2005年11月30日

ロックの殿堂だって

 来春、ピストルズがロックの殿堂入りするそうな。御大ジョニー・ロットンの心中や如何に。というのも、数年前、殿堂入りしそうになったのに選から漏れた際、あんなもんは「名誉の殿堂 (Hall of Fame)」なんぞではなく「不名誉の殿堂 (Hall of Shame)」だ、などと腐していた彼なのである。
 ピストルズに相当に揺さぶられた世代の一員としては、今回の件は、何とも中途半端で気に喰わない。パンクの御同輩連中(例えば、クラッシュなんぞ)が既に殿堂入りしている訳で、遅れて選ばれるぐらいなら選んで欲しくなんざないやい、というところ。まあ、しかし、そんなことを思うのは、私が未だに蒙古斑の消えていないてってけてーのおっぺけぺーだからであり、ジョニー君ならもっと違う観点から、こんなことすらエンジョイしてしまうのではないか、と期待する。受賞イヴェントでどのように振る舞うのか、大いに楽しみでありますなあ。

 年が明ければ、彼も五十。あのジョニー・ロットンが五十だよ。五十而知天命。そんなことを言うとるおっさんもおりましたけれどねえ。

投稿者 zenta : 17:30 | コメント (3) | トラックバック

そう言えば、一年ぐらい前に今はやりのリアリティ番組、I'm a Celebrity - Get Me Out Of Here に(itv)ジョニー・ロットンが出ていました。 簡単に言えば有名人がジャングルに送られ、毎回タスクをこなしながらvote off されて行き、最後に残った人が勝ちと言うルールで、24時間カメラがまわっている番組。

もともとロットン見たさに見始めたそのシリーズ。貴族がいたり、もとBBCのおばちゃんがいたり、おっぱいで有名なお姉ちゃんがいたりと個性的なメンバーで、思いっきりはまってしまいました…。彼のおかげで、メチャクチャ面白かったです。

実は結構しっかりしていながら、ロック魂は健在。あの歳であんなに無邪気な親父は恰好いいなと、それからすっかりファンになってしまいました。

投稿者 kajiya : 2005年12月02日 12:50

 サッチャーの娘が優勝したってニュースが流れてますな。

投稿者 Zenta : 2005年12月06日 18:13

本当ですね。今回で何シリーズめになるんでしょうか。
しょーもない番組なんですが、一度見るとついつい見てしまいます。

ちなみにロットンの時は3回目のシリーズでした。なんだかんだで後にも先にも、あの時が一番盛り上がってた様な気がします。

投稿者 kajiya : 2005年12月07日 19:41

2005年11月23日

慌てて鏡を見た。

 違法建築話で世間は沸騰している。実際、こりゃ大問題だ。同じ建築業界に生きる人間として、大変恥ずかしく、かつ、困惑する思いで胸がはち切れんばかりである……って、俺ってば建築業界の人間じゃないじゃん。

 一連の報道を見て、あれこれ思う。あんなマンションを買ってしまった人は不幸だよなあ……でも、安物は高物って諺もありますわな……当のマンションの住人のみならず、近隣の人々だって命がけだよね……結局、金儲けしたかったら悪いことをするに限るんですかね……それにしても、建築業界には未だに悪が蔓延しているんだなあ……超絶温い民間審査なんてシステムは、利権の絡んだ政治家経由で成立したに違いないな……小泉民営化の行く末を見た……などなどなど、と、まあ、当事者じゃないもので、ワイドショー・レベルの感想をあれこれ弄り回しているお粗末。

 そんなお粗末な私の感想の中で、今までになく、沁み沁みと思ったことが一つある。やはり、人相に出ますね、ということであります。悪い奴は、悪い面構えしているもんだなあ、と。馬鹿は馬鹿だって面ァぶら下げてやがる、と。どこのどいつがどんだけ悪いのかってことは、素人の私には全く判らんけれども、兎にも角にも、揃いも揃って、悪人面か馬鹿面野郎ばっかじゃん。その両方ってのまでいますよ。いや、ほんと、顔に出るもんだなあ……って。
 私だって、慌てて鏡を見てみましたよ。威張るような代物じゃないけどね、まあ、悪党面ではありませんな。ふふん、なかなか賢そうじゃないかね。角度を変えてみりゃ、ちょいと、旦那、意外に色男だねえ。そんな莫迦なことを呟いている。

 みなさんも、鏡を覗いてご覧なさいまし。大丈夫ですかな、貴公のラーツーは。

投稿者 zenta : 23:05 | コメント (0) | トラックバック

2005年11月16日

空を眺める

 元々空を眺めるのが好きな私である。
 この地球にはUFOが頻々と来訪しているそうである。限りなく眉唾物の宇宙人だの、怪しげな超能力者だの、何だのという、際物カルトをを好む私は、そりゃ、空を監視しなければならない。愚かな米軍やそれに類する蛮人共が、攻撃行動、威嚇行動など致す前に、私が乗り出していってですな、宇宙の民と柔らかに接せねばならない。
 ようっ、御同輩、本日はなかなかお日柄も宜しゅうございますな。近頃、冥王星の辺りはどうだね。はあはあ、なるほど、あまり変わりはない、と。まあ、変わりがないてえのが、結局は何よりだものねえ……などと、他愛ない世間話をしたりして、友好を深める所存。
 そんなこともあり、ふと手が空いた折なんぞには、宇宙平和のためにも、ぼんやりと空を眺めるのである。UFOなんて話を抜きにしても、昼といわず、夜といわず、空を眺めるのは楽しいしね。

 半年ほど前、チープな望遠鏡を入手した。本当に本当にベリベリチープなものなので、大したことが出来る筈もないのだが、これが、意外に楽しい。月を眺めて、ああ、月だね、と。星を眺めて、ああ、星だね、と。青梅街道の辺りにでかく輝くBOSSの看板を眺めて、ああ、BOSSの看板だね、と。まあ、そんな程度のことでしかないし、しかも、近頃は矢鱈と寒くて、長くは外に出ていられやしないんだけどさ。
 実は、からす新聞社にも一台チープな望遠鏡を進呈しようと、用意してある。で、編集の夜にでも、みんなで空を見上げよう。で、きゅうっと一杯、星見酒ってね。

投稿者 zenta : 19:29 | コメント (1) | トラックバック

そりゃよろしゅうございますな。雪見の酒もそうですけども、星見も寒いのはかえって好都合なんじゃねえかと。なんかこのキリッてのがキュうってかんじで。

投稿者 shachi : 2005年11月18日 02:57

2005年11月09日

オースターをまとめ読み

 この度の風邪は長かった。最初の三日ほどは、咽喉が痛くて痛くて、唾を飲み込むのにも苦しむほど。咽喉に意識が引っ張られるせいか、それ以外の症状は然程ではない。四日目だったか。少し治まってきたところで、N診療所に出向き、先生様に診ていただき、薬を頂戴する。咽喉の痛みは引いた。けれども、今度は、鼻水だ、咳だ、という普通の風邪に移行。いつぞやのインフルエンザのように、最早これまでか、というような、死ぬる思いをするということはないけれど、ああ、どうにもやってらんないよ、ってな状態がずるずる続いた。
 そんなわけで、寝込んでいるとはいえ、ヴィデオを見たり、本を読んだりをできなくはないというところ。で、オースターをまとめ読みした。家内がオースターを読んだことがない、というので、邦訳を購入しておいたのが、手近に転がっていたのである。

 他の人とオースター話をすると、微妙にずれを感ずることがしばしばあった。相手は、くぼやんだったり神山だったり。他にも何人か。ずれがあるのだけれど、お互いにオースター好き同士のことなので、まあ、大雑把な合意とアルコールの彼方に、擦れ違い気味の思いは消えていってしまう。でも、翌日になって……つまり、酒が抜けた頃になって……何かすっきりしないなあ、という思いが残ったものである。
 今回、わかりましたよ、イメージの違いは翻訳にあったのだな、と。考えてみれば、今まで、オースターは原書でしか読んだことがなかったものなあ。意外な落とし穴であった。
 彼の作品は、本国アメリカでよりも、ヨーロッパや日本、つまり、海外での方が評判が高いという噂は何度も耳にしたことがある。翻訳というフィルターがそういう事態を引き起こしている一つの要因である可能性はある。
 念の為に言っておくと、邦訳が悪いとは思わない。寧ろ、良い訳だよな、と思う。けれども、決定的に、手触りが違うんだな。何だろう。訳者がオースターを愛し過ぎることから生じる、被膜のようなものかな。よくわからない。

 オースター好きで、おら原書だば読んでみだことね、って人は、この際、是非とも当たってみてほしい。どう思うかね。

投稿者 zenta : 19:08 | コメント (0) | トラックバック

2005年10月26日

ケイト・ブッシュの新作間近

 十年振りかな。ケイト・ブッシュの新作が出るなんて、兎にも角にも、めでたい限り。しかも、二枚組だってんだから、長生きはしてみるものである。予約は入れてあるので、発売早々に到着するだろうけれど、どうにも待ち切れない心に押され、ファースト・アルバムから順繰りに彼女の歴史を復習している私である。
 彼女の十年振りの新作に出合える私と、十年も待ち続けてくれているファンがいる彼女と、どちらがより幸せだろうかね、などと、愚にも付かぬことを思う。もっとも、新作を実際に聴いてみたらがっかりしないとも限らない訳で、未だ安心はできませんな。それにしたって、アルバムが到着して……トレーに載せて……プレーのボタンを押す、その瞬間まではずっと期待に満ち溢れた昂揚、幸福が続くのだから、現時点では、素直に喜び、感謝すべきだろうな。
 新作を発表するケイトも幸せ、待っていたファンも幸せ。しかも、それなりに売り上げるだろうから、メイカーも幸せ。良い事尽くめである。この『Aerial』という新作に関わる全ての人々が幸せだろう、などというのは、勿論、私の暢気な幻想に過ぎない。そうなんだけれど、浅ましい人々が大手を振って、票や金で人の横っ面を叩いて回っているような世知辛い世の中に生きていると、mutual happinessとでも言うのかね、幻想でも良いからそういう図を何とか思い描きたいという気が強くなる。君も幸せ、ぼくも幸せ、みんな幸せ。そういう世界にならんものか。自分が喜ぶことは結構なことだが、他人様を喜ばせることだって同じように楽しいんだけれどね。

 嬉しい嬉しいケイトの新作話だった筈なのに、気がつけば、また愚痴を零している。困ったものであります。

投稿者 zenta : 23:19 | コメント (1) | トラックバック

こちらのフリーマガジンでは4つ星(out of 5)がついてました。
楽しみですねー。

投稿者 kajiya : 2005年10月28日 10:46

2005年10月19日

法ってどうなのよ?

 日常においては法律なんぞを意識することはあまりない。何となくわかっているような気でいるということもあるし、道徳とかbon sensとか、自分なりのそんな感覚に従っていれば大抵は事足りるでしょ、と、そんな風な気でいるということもある。何とも幸せな(あるいは、能天気な)人間だと言って良いのかね。……かもしれない。

 法や規則ってものは一体どうなっておるのだろう、と意識せざるを得ないのは、大抵は新聞やテレビを見ているときである。わてが時間外に株買い占めたんやさかい、おどれ、言うこと聞かんかい、などという場面を今年は何度目にしたことか。経済にも法律にも、世間様の何もかもにも疎い私であるけれど、直感的に厭な感じがするのは、連中の、法に触れていないんだから文句ないだろ、的な態度である。そんな時には、やはり、「法ってどうなのよ?」と裕梨的な口調で呟かざるを得ない。

 または、こんな場合。某国の首相の以前の振る舞いが、裁判所で違憲だという判決を下された。それに対して、件の首相とかいう人は「何が違憲なのか理解できませんねえ」などと薄ら笑いを浮かべて開き直っている。考えてみると、何とも凄いことである。おんどれは三権分立の精神というものを義務教育で習わなかったんかいな。そんなことも理解できんまま、首相たらちゅうもんをやっとるんかい、と。
 仮に、私が法に悖る行動をして、私が誤っていたという裁決が下されたとしますよ。そこで、何が悪いんだかわかんねえんだよぅ、おらおらおら、などと、開き直って暴言を吐いたらどういうことになりましょうか。どうにかなってしまいそうではないですかね。いややわぁ。ああ、こわ。
 孰れにせよ、私は、首相参拝の報を眺めながら、又もや、「法ってどうなのよ?」と裕梨的な口調で呟かざるを得なかったのであります。

 さあ、みなさんも、声を合わせて、いいですか、裕梨の口調で御唱和下さい。はい、どうぞ、「法ってどうなのよぉ?」

投稿者 zenta : 22:36 | コメント (0) | トラックバック

2005年10月12日

中田浩二が先発なのか

 先の試合で、しくじった中田浩二が先発のようである。嫌いな選手ではないのだけれど、そのせいで松井が押し出された形になるわけで、松井見たさの私の心に、少なからず、不満が湧く。ジーコだって、本当は、松井みたいな選手が好きなくせに。どうせなら、高原とトップを組ませてくれんものか。

 先発を外れたとはいえ、後半途中からの出場なんてこともあろう。その場合、もっとへらへらしたプレーをしてもらいたい。オリンピック代表での試合もそうだったけれど、一所懸命さが伝わるようなプレーが増えて面白くない。そんなものを君には期待していないのである。へれへれドリブルして、あ、取られちゃったよ、なんてのが、半分もあったってかまわんのである。ゴール前へのパスだって、あれ、へろへろ過ぎてカットされちゃいましたってなことでも、全くかまわんのである。現代のサッカーでは、ラスト・パスはよもやシュートかと見間違うほどの高速であるのが主流だけれど、そんな折、てれんてれんのパスやシュートで何とかできる人材を目指すべきではないか、松井くんよ。君にはそんな才能がある。というか、そうでなければ、居場所がないのではなかろうか。

 礒貝以来の才能だと思うのだけれど、これって誉め言葉にならんかなあ。考えてみりゃ、礒貝はへらへらしたまま、サッカー人生を終えてしまった。一般には、最早忘れられた存在だろうけれど、私の心の中では、歴代日本の最高の選手である。で、礒貝に次ぐ、期待の星が松井。現代のサッカーの流れに乗れず、このまま消えてしまったりしないことを切に願う。けれども、仮に、日本のサッカー界で輝けなかったとしても、私の心の中では永遠に輝き続けることでありましょう。兎にも角にも、己が才能の使い方を間違えんよう、お願いしたい。飽くまでも、へらへら系でよろしく。

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2005年10月05日

落語天国・報告

 今回のライヴでは随分な持ち出しになってしまったけれども、評判は上々。生まれて初めて落語を見た、しかも、大変面白かった、という人がたくさんいたので良しとしよう。他人が何と言おうと、良しと思い込むぞ、と決めた立派な主催者である。
 大赤字と雖も、それはそれ、これはこれ、楽しく時間を過ごすのに金なんぞは関係ないのである、とは思う。とは思うものの、毎度毎度大きな赤字続きだったら、こういう形でのライヴを継続的にやっていくことは、直に困難になるであろうことは推測に難くない。黒字とは言わずとも、少額の赤字に押さえなくてはならんのである。ああ。
 もっとも、今度のオータム・ジャンボでどかんと高額賞金が当たれば話は全く変わってしまう。可能な限りの大盤振る舞いに及んで、扇好師匠に限らず、お気に入りの噺家さん、芸人さんを招いて、バンドだ、落語だ、演芸だ、と燥ぐ阿呆に見る阿呆。何だよ、野郎、最近調子に乗ってんじゃねえか、と顰蹙を買うことになるのかもしれん。まあ、孰れにせよ、未だ当たってないんだから、これを皮算用と呼ぶ。

 それにしても、噺家さんと同じ板に乗る日が来るなんて、思いもよらなかった。こうなったら、次回は、ギターを扇子に持ち替えて、おいらも落語で対決してみるか、と、そんな大胆不敵なことを考えている私である……って、一方では、余計なことは、まず、赤字を何とかしてからにしてくれ給えよ、と理性が訴える。ああ。

投稿者 zenta : 14:13 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月28日

落語天国

 東京には未だに落語の定席がいくつもあって、毎日毎日、昼から夜までやっている。ふらりと足を運びさえすれば、いつでも見られる訳だ。それ以外にも、あちらこちらで大掛かりなものから本当にささやかなものまで、様々な落語会や寄席というものが連日催されている訳で、東京てえところは何ともすんばらしい落語天国なのではあるまいか。羨ましいねえ、落語天国だなんてさ。東京人というものは、年がら年百、落語を見ているんだろうね。……そんな風に、地方の人や外国の人に思われたっておかしくない。私だって、こういう状況を異国の地から眺めていたら、そう想像するに違いない。けれども、実態は相当に懸け離れているのである。
 からす新聞読者諸氏の中に、寄席に足を運んだことがある人がどれほどいるだろうか。一々アンケートを取って回るほど暇ではないが、恐らく、非常に非常に少ないのではないか、と思う。東京に生まれ育ったって、生の落語なんざ見たことないまま死んでいく人がたくさんいるのではないか。
 さて、落語天国の現実はどんなものかというと……テレビや映画で落語ネタのものがいくつかあったせいで、少しは若い人も寄席を覗くようになったそうであるけれど、多くの場合、ぎゅうぎゅう詰めになったりすることはなく、なったところで、お互いに何となく見たことがあるような気がしてくるような客層。そうそう、固定メンバーが順番に顔を出しているだけってなところ。しかも、平均年齢はかなり高い。人間というものは、上から順に、あちらの世界に旅立っていく訳であり、若い観客の補充が非常に少ない今、このままでは落語はどんどんどんどん衰退してしまうこと、必定。そうなったら、先々は、現世での落語天国などなくなって、死んだ者が集って天国落語というようなことになったっておかしくはない。

 そんな折、からす新聞のお膝元で、バンドと落語が絡まり合ったイヴェントがあるというではないか。何という素晴らしい企画。バンドのファンが落語を生で見、落語のファンが生でバンドを見る、稀なる機会。相当に隔たりのありそうなそれぞれのお客さんたちが、生の演し物に触れて何かを感じない訳がない。企画してくれた人、ありがとう。あなた様のお陰で、素敵な出会いがありました……早くもそんな感謝の声が聞こえてきそうである。

 詳細はこちらをどうぞ。明後日に迫っていますよ。お急ぎ下さいまし。

投稿者 zenta : 19:15 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月21日

工事現場が工事現場で

 ライヴが近いのでスタジオに入る。で、帰りには、打ち合わせと称して、呑む。高円寺でも近頃は顔見知りの店が減ってるもんで、どこへ行こうかと悩まざるを得ない場面も少なくない。

 先週は『バーミィー』へ。工事現場とあさがやんずの面々(40%はダブってますからね)と。三時に閉めるというところへ二時を回ってから寄せてもらう。彼此、何年の御無沙汰か。十年にはならない位かね。それ程でもないか。そんなことを思いながら、マスター夫妻と、あれこれの昔話や共通の知人情報の交換に勤しむ。さて、ズブロをボトルで入れて午前二時半の乾杯。

 考えてみれば、二十年近く前、この店を工事していた面々が、じょじ伊東と工事現場の発端となったのである。もっとも、御存知の通り、私は非力、非肉体労働が売りですから、工事現場では何の役にも立った訳ではない。それでもその場にいて、ああだこうだ、と口を挟んで、部屋の中を右往左往。溶剤の香りと長時間労働でふらふらになった頭を抱えながら、猶も『Z. Z. Top』で呑んだくれるというようなことを日々繰り返していた、私たち。思い出すだに馬鹿である。

 あれから、二十年近くが経過して、何か変わっただろうか。何も変わっていない……訳はない。あれもこれも変わったさ。変わりましたよ。変わりましたとも。当たり前だ。しかし、その一方で、みんな、変わらんなあ、という印象があるのも事実。誰も定職に就いておらず、十時スタート二時終わりでスタジオに入り、五時まで呑んだくれておる。やはり馬鹿てえものは不治の病のようである。

 二十年前、二十年後にもこんなことをしていると思っていたのかどうか、記憶定かならず。これから二十年後、工事現場は、高円寺は、世界はどうなっているだろう。懲りずにバンドなんぞやってますかね。一人二人欠けてたりしてね。結局、確かなことは、馬鹿は治らないってことだけか。

投稿者 zenta : 21:53 | コメント (2) | トラックバック

 一味の者です。変わったことといえば、朝まで呑んでその足で仕事に行くってのは、さすがにもうやれませんですねえ。そこであっしは仕事を減らしてます。楽だし呑めるし。

投稿者 shachi : 2005年09月23日 01:15

 20年間には、朝まで呑んで、そのままサッカーの試合ってのが何度かあったけど、今から考えると、丈夫だったんだなあ。死なずにすんで良かった。良かった。今だったら、まじで死ぬかもしれん。

投稿者 Zenta : 2005年09月25日 17:29

2005年09月14日

舟というものは傾きます

 最後にボートに乗ったのはいつだったろうか。おそらく、三十年ほど前のことではないかと思う。芦ノ湖だったか。それとも、蓼科湖だったろうか。
 小さいボート……井の頭公園にあるようなやつね……ってのは、想像以上にバランスが悪いものである。あの上で、ぴょんぴょんジャンプしたり、前後に立って兄弟でボクシングごっこしたりしてはいけない。簡単に転覆します。片足をボートの縁にかけて、おいらは海の男よ、なんて裕次郎を気取ってみたりしてもいけません。転覆しないまでも、大幅に傾き、慌てることになります。そもそも、海の男なんかじゃなくて、そこは湖なんだしさ。
 そういうバランスの悪いところが舟ってものの味なんだろうし、乗り物としてのリアリティなのでありましょう。そのことは、恐らく、でかい舟でも変わらないんだろうな、と思う。でかくなっても同じようなことがあるのではないか、とね。例えば、五十人乗りなり百人乗りなりの屋形船を仕立て、客が全員左舷側に集まり、世に言う箱乗りの体で身を乗り出したりして、イェーッなんてVサインなんぞ出してみたりしたらどうなるだろう。ひっくり返りゃしないまでも、どんと傾き、ビールが零れたり何だりと一騒ぎあるに違いない。

 さて、四百八十人乗りの船で、船頭を筆頭に三百二十七人が右側に陣取っている。左舷をうろついている者は二十人に満たない。あとは、ざっと真ん中ぐらいかなってなもの。そんな状態を想像してくれ給え。どうだい、兄弟。そりゃ、理科の苦手な君でも容易に想像できるだろう。そうそう、その通り。すんごく傾いていそうだよね。あーた、こんなんで、長旅なんかできませんよ。無理だよ。無理、無理。危なくってしかたがねえ。いっそのこと、早いとこ転覆しちゃうってのもありかな、なんて、言ってみたりして。

投稿者 zenta : 00:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月07日

水浸しの町五景


団地から左手に見た天王橋方面。橋の向こうにパトカーがいて、交通規制。


団地から正面(杉高)。


団地から右手に見る杉高正門方面。こちら側もパトカーが交通規制。


団地内の下水溝から下水が溢れ出る図。写真では判然としないが、相当な勢いで水ががぼがぼと出てきていた。


駐車場から善福寺川を臨む。既に、水は引き始めている状態。

(ちなみに、画像をクリックすると、大き目のカラーの写真が表示されます)

投稿者 zenta : 00:06 | コメント (1) | トラックバック

これは、すごい光景ですね!
この目で確認したかったです。
神田川すら確認できませんでした・・・。

投稿者 to : 2005年09月07日 23:36

2005年08月31日

減塩の行く末

 晩飯を締め括るに辺り、ちょいと漬物で白米を掻き込むか、とうい気になった。それが、日本人たるもの。んで、冷蔵庫を空けて、何があるかと覗いてみると、昔ほどには黄色くない沢庵がありましたよ。で、ぼりぼりと齧る。何だよ、しょっぱくないね。これじゃ、米をがあがあ掻き込む気にはなれん。他に何かないのかと、冷蔵庫に舞い戻る。そうそう、そう言えば、キムチを買ってきてあったんだ。早速、開封し、口に放り込む。ああ、と溜め息を漏らさずにはいられない。またか。減塩ですよ。減塩。キムチよ、おまえもか。くそぅ、近頃は何でもかんでも減塩しやがって、世の中、おかしい。貴様等、そんなに健康に縋り付いて生きていたいのか。塩分の不足したキムチなんざ喰ってらんねえよ。こちとら、江戸っ子でい。更に、冷蔵庫を物色する。おお、蒟蒻の溜まり漬みたいな代物があるじゃねえか。群馬産。北関東ったら、味が濃いって決まってますからね。これなら安心だってんで、口に放り込む。むむっ、むむっ、むむむ。何だよ、蒟蒻、おまえもかい。貴様までもが減塩しておるのか。くそぉ、寄ってたかって俺様を馬鹿にしやがって。物色、物色、なおも物色。そして、梅干しを発見。漸く、安心することができた。梅干し。素晴らしい響きではないか。これだ。俺が求めていた塩分の固まりがまさにここにあるのだ。見ているだけで、唾が溜まってきたよ。さあて、これで飯をがががーっと掻っ込んでね……って、口に放り込むと、うぉおお、何たることか、しょっぱくねえ。おまけに、薄ら甘いと来たもんだ。パッケージには、蜂蜜が何たらかんたら、と書かれており……許せん。絶対に、許せん。俺は梅干しを容れ物ごと食卓の上にぶちまけた。ちょいと、おまえさん、どうしたんだい、と女房が止める。その横では、でぶ猫が「ふんぎゃあ」と、つまり人間語で言うところの「おまえ、ばか。おまえ、うるさい」と抗議の声。いやあ、諸君、私の怒りは、今夜ばかりは止まらない。台所から、塩の入ったプラスチックのでかい箱を持ち出して、大匙で二杯頬張る。うおお、これだ。これこそが、拙者の欲求している塩分だ。勢いで、頭から塩を浴びる。浴びる。買い置きの塩の袋も引き千切って、浴びる、浴びる、浴びる。全身塩塗れ。うひゃひゃひゃ。さっきまで抗議の叫びを上げていたでぶ猫も逃げ出した。これこれ、これですよ。塩、塩、塩。最早、自分でも何がしたいのか判らない。全身真っ白な塩男となった俺様は、世間の減塩家庭を全てぶち壊してやろうと、しおーっ、しお、しお、しおーっと、叫びながら、表に出た。しおーっ、しお、しお、しおーっ。どこへ向かうのか。しおーっ、しお、しお、しおーっ。行き先は、塩の神のみぞ知る。……って、飽きてきたので、続きは、誰か考えて下さい。

 しかしねえ、真面目な話。昨今の著しい減塩傾向ってどうなのよ。これって、日本の食文化の崩壊じゃありませんこと? それとも、こんなことを思っておるのは、儂だけなのか。どうにも解せぬ世の中である。

投稿者 zenta : 23:20 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月24日

冷房器具は二十八度に、ってね

 ぼんやりとテレビを眺めていたら、二十八度に設定しましょう、などという広告が流れていた。先週だったか。我が家ではまさに二十八度に設定しているのだし、結構なことであるなあ、と思う反面、余計なお世話だよな、と思わなくもない。煙草のパッケージに書かれている、「吸い過ぎると死にますよ」的な文言と似たような、煮え切らなさを感ぜずにはいられない。広告主は誰だったろう。政府か東電か。webをさくっと検索したら、「チーム6%」ってところが元締めのようである。京都議定書の目標達成のために一人一人が頑張りましょう、だと。ええ話や、ええこと言うとるやんけ、と、にわか関西弁で呟いた私である。けれども、気が変わったのは、会員番号一番が小泉という人だということである。アメリカの手先が「京都議定書の目標達成、頑張ろう」との音頭取りなんざ、あまりに白々しくはござんせんか。ちなみに、会員番号二番は小池女史だとさ。笑いが止まんないよ。あはははは。
 それにさ、広告打つなんてお金の無駄遣いじゃありませんこと? どうせなら、法律で取り締まればいいではないか。家庭用に市販するエアコンは二十八度までしか設定できないよう義務づければ話は早いやね。だって、あの人って、法律作るところの親玉なんでしょ。まあ、間もなく変わってしまうのかもしれんけれど。

 しかし、法規制ができたとすると、あれだね、「原付のリミッター切りますよ」的な裏商売で頑張るやつが出てくるんだろうね。っていうか、電気に詳しく、かつ、闇商売が好きな後輩がいるから、そいつと二人で商売始めますよ。へへ、旦那、リミッター切って、二十度まで下がるように改造承りますよ、ってね。そうそう、ちっとは英語ができるってんで、逆輸入も良いね。御主人、うちのこのエアコンはね、一味違うんですから。内緒ですけどね、同じナショナルでもヨーロッパからの逆輸入物。ぎんぎんに冷えること請け合い。これ買って帰れば、お母ちゃんもどら息子も喜ぶことまちがいないよ。さあ、買った、買った。

投稿者 zenta : 16:54 | コメント (2) | トラックバック

 やっぱりあれですかねぇ、もし、禁酒法時代に生まれてたら、密造酒を売りさばくってぇ心意気かと、、、。でも、何だかそんな時代になりそうな予感もしなくは無いでゲス。

投稿者 Ohari : 2005年08月24日 23:44

 密造酒だと売り捌く前に自分たちで呑み切っちゃいそうで恐いですな。

投稿者 Zenta : 2005年08月25日 09:55

2005年08月17日

扇風機を買え

 本日は何を申すかというと、表題の通り。諸君、扇風機を買い給え。私が先日購入したものなんぞ、二千円である。何だと、貴様、二千円がありません、と申すか。ああ、これだから、嫌だね、貧乏人は……って、まあ、おいらも貧乏人なんだけどさ。貧乏なのに二千円を捻出し、扇風機を購入したのである。悪いことは言わない。貴殿も数日絶食して生活を切り詰めてでもですな、買うが宜しい。インディアン、嘘つかない。もっとも、私は嘘つきますけどね。何しろ、私ゃインディアンじゃないからね。
 扇風機というものはですよ、電気の力を少しく使って、びゅうんと風をおこしてですな、ああ、こりゃいいや、ってな具合に、ささやかな清涼感を齎すものなのであります……って、説明せずとも御存知でしょうな。君ぃ、一度使ったらやめられませんよ。いや、ほんと。お陰で、今年はエアコンの使用頻度がぐうんと下がった。これは、勿論、佐藤家にとって経済的な効果がある。それだけではなく、世界の貴重な始源の無駄遣いを防ぐことにもなる訳で、扇風機使用者は、遠回しではあるけれども地球防衛隊の一員だということである。
 我儘な文明のお陰で、地球の傷みは激しい。御存知の通り。異常な気象にも慣れてきて、あまり異常には感じられなくなってきている。とはいえ、三十五度だ六度だなんてことになると、地球防衛隊を自認する私だとて、今日はちょいと日和ってエアコンつけちゃおう、なんてことになる。けれども、そんな際にも、扇風機を併用すれば、効果絶大、拍手喝采、多謝多謝。私の部屋のエアコンは、ドライの二十八度の設定。それで、十二分に涼しいのであるよ、扇風機様に働いてもらえば。
 どうだい。そろそろ扇風機を買う気になったかね。そんなあなたに、一言御助言申し上げよう。もし、それほど貧乏ではないのなら、超低価格帯のものは止した方が良い。うちの二千円のやつはすぐにつまみが割れて取れちまった。それに、弱中強の三段階なのだけれども、「弱」でも強過ぎると感じる場面がある。もっと、弱い、「超微風」的な設定が可能なものの方が宜しかろう。買う前には、二千円なんだからさ、使えなかったら買い替えればいいよな、なんて、家内と話し合っていたのであるけれど、中途半端につまみが壊れたぐらいだと、判断が難しい。ま、買い替えるほどじゃないよなって結論になるんだけれど、それでも、時々、ああ、もっと柔らかい風を送れないのか、この野郎、などと短気になる私がいたりする訳である。ですからね、貧乏人じゃないのなら、多少高級な扇風機を購入するが宜しい。通常の貧乏人は二千円もので我慢しろ。本当に本物の、威張るほどの貧乏なやつは、団扇片手に頑張ってくれ。団扇生活に飽きが来る頃には秋が来る。お粗末。

投稿者 zenta : 23:14 | コメント (2) | トラックバック

 家も昨年気温が40℃を超えた時「今年の夏は扇風機無しでは乗り切れまい」と翌日、早速量販店に行き二千円弱の扇風機を買い求め「ああ、やっぱり団扇よリ涼しいねぇ」なんて喜び、「来年もよろしく」ってことで、汚れを落として押し入れへ。
 んで、今年、我家は人間2人と猫6匹、去年より確実に家の中の気温が高い上、扇風機さんが猫の毛を吸い上げて下さり、手入れが面倒な事この上無しってな状況なのだが、壊れもせずよく頑張ってくれておりまする。安価な扇風機って当たり外れがあるのかしらん?

投稿者 flint : 2005年08月19日 15:40

 うちのも、基本的な機能は全く問題ないのであります。ただ、チープなプラスチックのつまみが早々に割れちまった、というだけで。つまみがなくなったあとには、金属の棒がにょきっと出ているだけで、指で抓んで回すのは、まあ、マス大山なら、造作ないことなんだろうけれど、私の如き非力の人間には、ちと辛い。仕方なく、棒の真ん中の凹んだところに金属の板を突っ込んで、ぐりぐり回したりしている。ちょっと虚しい。

投稿者 Zenta : 2005年08月21日 02:03

2005年08月10日

夏の上着

 何がどうなっているのかわからんけれど、近頃、表に出る機会がやたらと増えている。小さい居酒屋の寄席で落語を見た。長谷川くんのライヴもあったなあ。何曜だったか忘れたけど末廣の昼席にも行ったしね。そうそう、じょじ伊東のライヴてえものもありましたよ。んで、こないだは桃園小で落語会……って、何だよ、落語とライヴの繰り返しか。落語にしろライヴにしろ、その前後には酒を呑む。季節は夏、泥酔して道端で寝込んでも車に轢かれることはあっても凍死することはない、ありがたい季節。偶に、暑いのも寒いのも嫌い、でも、海に潜るのとスキーは好き、などと、自分勝手な人もいるけれど、私の場合、寒いのが嫌いなだけで、暑さで文句を言うことは、滅多にない。夏は良いね。夏は良い。概ね良い。何だい、その「概ね」てえのは……って、あなた、あれですよ、行く先々で過剰冷房に苦しめられることがあるのが、難点なのである。

 先日の落語会もかなりの盛況で、結構な人の入り。すると、当然、エアコンを強力にせざるを得ない訳である。で、何故か、その冷たい風が私の方に向かって吹いてきて、片側だけぎんぎんに冷えて、手なんか痺れてくる有り様。参った。
 ライヴハウスというところも、随分と冷やしますなあ。演者のうろうろする辺りは、確かに、暑い。熱を発しまくっているアンプやPAに囲まれ、ライトを浴びながら、じたばた唄ったり演奏したりするのだから、相当に暑いのは確かである。で、自ずと店の冷房は強めになる。客席とステージとの間に仕切りなんぞないわけで、ステージの上だけ冷やして……ってことはできない。混み合っていれば、それでいいんだけれど、入りが悪かったりすると、客席だけはもの凄く冷え込むことになる。客のいない冷えと過剰冷房による冷えで冷え冷えである。そういう状況では、演者もブルー、客席もブルーでぶるぶるである。冷え冷えのぶるぶる。こんなくそ下らない駄洒落でもかまさないとやってらんない。

 で、夏なのに、私は、上着を着用したり、鞄に忍ばせたりしての、外出と相成る訳である。なんかばかみたいじゃないかい。

投稿者 zenta : 21:34 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月03日

リトル・オーキナーワ

 暫く振りに高円寺で呑もうってんで、のこのことチャリをこいで出動した。先週末の話。
 最初に、ライヴを一つ見て、さて、じゃあ、呑みに行きますかってことになる。「最近、新しいメンソーレ系ができたから、そこに行こうよ」と誘われる。メンソーレ系って、ねえ、あなた、意味は通じますけれど、私共は四十も過ぎておるわけであり、そのような物謂いは些か軽薄に過ぎませんか、と思わなくもなかったけれど、マイヤーズが、私の胃の中で、かめへんかめへん、いくつになっても軽くてええやん、と言うもので、まあ、良かろう、案内してくれ給え、と、件の店に向かう。
 到着したそこは、群星館(むりぶしかん)というビル。地下一階から三階まで全てがオキナワンな店ばかり。ちょいと曲がれば『きよ香』があり、真っ直ぐ行けば『抱瓶』がある。そんでもって、目の前には三階建てのオキナワン・ビルヂング。最早、ここはリトル・オーキナーワ。
 沖縄ビルの二階にある「うりずん食堂」という自然食系居酒屋的な店に入ろうとするが、入口辺りに人が滞っている。混んでるんなら、ほか行こうぜって、話になり、戻ろうとしたところ、あらっ、と声をかけられた。『きよ香』のママだ。腑に落ちない私たち一行をどうぞどうぞと導き入れる。カウンターには、ああ、『抱瓶』のマスターが。ここも、同経営でございましたか。このリトル・オキナワでは、どこで呑もうと同じ金庫にお金が収まる仕組みのようである。しかし、ビルごと沖縄ってのは、発想が凄い、というか、大胆不敵、というか、『抱瓶』って相当儲かっているんだなあ、などという、他人様の財布の算用をするような心貧しい話題で一っ切り。

 店は閉まるも、まだ呑み足りないてんで、向かったところがジョナサン。ジョナサンでワイン。四十過ぎた連中ばかりで、午前二時半のジョナサンでワイン。しかも、この時間になって人数が増えている。何とも不思議な夜ではないか。

 自転車をこぐ帰り途、生温い夜風に吹かれ、右へ左へふらりふらり。私はどこで呑んで、どこへ帰るのか。行き先はチャリンコに聞いてくれ。辿り着いたら、那覇だったりしてな……って、酔っ払いの考えることは想像力に欠けますなあ。

投稿者 zenta : 18:17 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月27日

12chのアニメ

 それにしても、12chって、天晴れ。毎日毎日アニメアニメ。今春から、夕方六時から七時の12chのアニメを見るともなく見ることが多くなった。何というのか、付き合いの席とでもいいましょうか。私の正面では小学一年生の元康と申す者が、真剣に、それこそ喰い入るように見ている。対する私はと言えば、元康を半分、画面を半分といった具合か。夕刊を読んだりしながらだらだらと。
 ハム太郎だの遊戯王だのビーダマンだのって言って、どのぐらいの人に通じるものなのかね。よく判らない。私だって、ついこの間までは珍紛漢紛だったわけだし。今だって、きちんと見ているわけではないので、相当混乱した知識しか持ち合わせていない部分が多い。まあ、そんないい加減な眺め方をしていても、感心したりうんざりしたりする程度にはアニメ情報が飛び込んでくるものである。中には、いつの間にか、主題歌やエンディングのテーマを覚えてしまっているものすらある。刷り込みというのは恐ろしい。
 かなり類型化しているようでありながらも、それなりに個々の番組の間に差は存在する。つまらないものは徹底してつまらないのだけれど、なるほどね、なんて感じで、話を追って付き合ってしまいがちのものもなくはない。しかし、毎週欠かさずに見ずにはいられない、というほど私を惹きつけるものは、今のところ、ない。それは私が歳を取り過ぎているからか、番組が幼稚過ぎるからか。孰れにしても、そんな程度のスタンスでしか眺めていないのだが、うっかりすると嵌まってしまいかねない危険を感ずるものが一つある。その名を、甲虫王者ムシキングという。虫好きで、かつ、雑なものを集めてみたがる私の習性にジャスト・ミートすれすれってところ。どんなものかってことは公式サイトを見てもらった方が早い。

 私が本日ここにムシキングのことを書いているのは、私はムシキング関連グッズを買いませんよ、と公言してしまいたいからである。高いものじゃないんだからさ、一つぐらい買ってみて……ってなったら、何となく、暫く嵌められてしまいそうな、そんな危険を感じるので、先手を打って、わしはムシキングものなんざ買わないのであるよ、と発表しておきたいってそれだけ。
 ところで、うちの近所って、ほっかほっか亭ってあったけ。ないかな。いや、なきゃないでいいんです。用事なんてないんだから。でも、ローソンはどっかにあったよなあ。中杉通りだったか。あ、いや、別に何って用事がある訳じゃないんだけどさ。微妙に気になって……

投稿者 zenta : 22:17 | コメント (3) | トラックバック

 全然知らない世界だったので、色々観てたらこんなページを見つけました。

投稿者 Ohari : 2005年07月28日 11:32

 妙なサイトをみつけてきましたな。コアな人がいるもんですなあ。これもインターネットってところか。

 セガから出てるリモコンもののカブトムシが3980円。しかし、これを買ったら、当然、対戦相手が必要になり……って、泥沼化するんでしょうな。

 あるいは、ギラファノコギリクワガタのフィギュアが880円。取り敢えず、買ってみるか、なんてんで、買ってみると、カードがおまけに付いてくる。したら、カードを使いたくなるってんで……って、やっぱ泥沼化するんでしょう。

 危ない、危ない。

 ところで、うちの近所って、ほっかほっか亭は本当にないのかな。ま、どうでもいいんですけどね……

投稿者 Zenta : 2005年07月28日 15:12

10年前の6時半って「新世紀エヴァンゲリオン」を放映していたらしいですね。
連れ合いが友人に「肉みたいなロボットが乾電池をしょって動くスゲー面白いアニメがあるから観なよ」と薦められて、
すっかりはまってしまいました。
結果、家にはエヴァグッズが山積しています。カードも全部コンプリートして綺麗にファイリングしてあります・・・

この頃、オンタイムで観ていた小中学生はなんかトラウマになちゃった人が多いみたいです。
この時間にエヴァって・・・

どーでもいいですよー♪家の近所はほっかほっか亭ありますよん♪

投稿者 flint : 2005年07月29日 15:30

2005年07月20日

本日、都庁で大事件が発生しそうでした。

 免許の書き替えの案内が来たのは先月末。近頃何回かは新宿警察署で更新していたのだが、いつの間にか、新宿警察署での更新という選択肢はなくなってしまったようで、代わりに、新宿免許更新センターというところが用意されている。ほほぅ、都庁の中にあるのかい。
 灼熱というほどではないけれど、それでもどんよりと暑い中、初めての都庁来訪。入口辺りに警備員が二人。私の方をちらりと見るも、声をかける風ではない。もし、私が自爆テロリストで、鞄の中に爆弾が入っていたらどうするのだろう、などと思いながら、いやに鈍い自動ドアをくぐり、建て物の中に入る。現代的というべきなのか、それとも、単に殺風景というべきなのか。空間はある。空間はあるけれど、兎にも角にも、私にはあまり味わいの感じられないものである。何十年か前のSF映画に出てくる類の、絵に描いた近未来……的なしょぼさだなあ。もっとも、このしょぼさが東京っぽさの一つの真実ではある。
 優良ドライヴァであるので、更新作業は非常にスムーズに進む。更新ついでに「高速二人乗り可」を明記してくれ、と頼んだ。三十分程の講習を終わり、新しい免許が交付される。しかし、高速二人乗り云々という記述がみつからない。どうなってんだよ、と、念の為に古い穴開き免許を見てみると、そちらに明記されている。……。廃棄する免許に記載してもらってもね、何にもならないんだけどね。ま、どうでもいいって言やあ、どうでもいいんだけどさ。もうちょっとちゃんと仕事してくれよ、と言いたくはなりますな。
 さて帰ろうかという段になって、尿意を催したので、トイレに向かう。ありゃりゃ、男女が各々一列に大人しく並んでますな。目を凝らして先頭方面を覗きみると、男女それぞれに一つずつしかトイレがない。そんな馬鹿な。こんなにでかい建築物の、人が溢れかえっている広いフロアにトイレが男女各一室。ありえねー、と、思わず、裕梨の口調で呟いてしまった私である。待たされることによる心理効果も加わり、尿意は弥増す。こうなったら、この愚かな建築に抗議する為に、このフロアのど真ん中に進み出て、おしっこをぶちまけてやろうか。そうすると、先程見た二人の警備員が駆けつけてきて、両腕を掴まれたりするんだろうな。するってえと、私はおしっこを垂れ流しのまま、下腹部を公衆の目に曝したまま、警察に突き出されることになるのだろうな。テレビカメラで下半身にモザイクをかけられた逮捕シーンが流されるのだろうか。それも悪くない……などなどと、ばかなことを考えているうちに、順番がやってきて、ぎりぎりのところで、第二都庁舎放尿事件はどうにか回避されたのである。
 この建て物を設計したのは誰だったろうか。丹下健三かな。調べる気もしない。意匠上、あるいは、構造上の云々は扨置くとしても、この広いフロアに満足なトイレを用意せず、あわや、大放尿事件を起こし、一人の自称藝術家の人生を崩壊させてしまいかねない設計は、決して許されるものではない。現実を乖離した設計は紙の上だけにしてくれ給えよ。税金をどぼどぼ使って、こんな建て物たてやがって……責任者出てこ〜い、と叫びたい気分で帰途についた私である。

投稿者 zenta : 22:43 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月13日

曲想を練る

 ライヴの日程が決まる。すると、それに合わせて、スタジオのスケジュールを調整するって運び。まあ、当たり前だ。スタジオに入るに当たって、何を練習するかって選曲が必要になる。新旧取り混ぜつつ……なんぞと、打ち合わせたりして。で、まあ、あさがやんずの新曲は二曲でどうよ、と、そんな会話があって。工事現場の方にも新曲を書かないとな、なんて。

 曲を書くのは楽しい作業である。まあ、如何に便利なMacと雖も、思う通りにならない部分でいらいらしたりすることも偶にはあるけれど、基本的には楽しい。問題は歌詞であります。私の場合、メロディーのみならず、アレンジまでほぼ完成させてから歌詞を書いていくのだけれど、そうは言っても、曲想ってものもある訳で、曲を書いている時にも、歌詞のイメージを思い浮かべたりするわけよ。まあ、最終的に、そのイメージ通りに歌詞を書くのかっていうと、そうならないこともあるものの、当初の草案に近い形で仕上がることも少なくはない。

 今日、書き始めたのは、ドンドンダーン、ドンドンダーンってなビッグなビートで、コードはAmからC/G、F、C/E、Dm7、Cってずんずん下りていくってな具合のもの。これがなかなかいい。さて、どんな歌にしようかって曲想を練る。イメージングですよ。ところが、この段で、いきなり行き詰まるのである。サウンドを頭の中で鳴らしながら、自由に発想すると、出てくるのは、例えば、「枝豆の恰幅」「哀れ、唐辛子」「ルッコラの白い花」「バジリコに陽が落ちて」……ああ、園芸生活が藝術活動にまで侵食してきている。こんなんじゃ、曲になりまへんがな。

 気分転換に飯でも喰おうってんで、昼は、何にするかね。お豆腐があるわよ、って、じゃあ、と、玄関から出て、紫蘇を何枚か摘む。こいつを刻んで……って、何たることか、気分転換でも園芸かよ。

 食後に、何を飲みましょうか。寒いからね、ああ、レモンバウムがいいね。そうしようってんで、また玄関から出て、新鮮なところを摘んで、熱湯を注ぎ蜂蜜を溶かしていただく……って、相変わらず、園芸から離れられない。

 あさがやんずの曲調は、今後、何処に向かっていくのだろうか。少なからず、不安である。

投稿者 zenta : 17:38 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月06日

お天道様

 世の中には様々な悪人がおるけれども、そういう人々にも、悪を恥じる心というのか、罪の意識というのか、名状し難い何かがあるのかねえ、と思わされることがある。これは、逮捕された人々が連行されたりする際の、顔を隠すようにしたりする姿に象徴される。勿論、中には、正面を見据え、カメラを見据え、動もすれば、喧嘩なら買うぞ、オラオラァ、というような、堂々たる態度の者もいなくはない。あとは、全くの無関心というパターンもありますな。あ、こっちに歩けば良いんですか……はあ、じゃ、そっちへ……あ、はいはい……何だか人がいっぱいいるなあ……というような、他人事のような態度の者もいる。これ以外に、悪事を重ねてはおるけれど、捕まっておらぬ人々だってたくさんいるだろう。北叟笑んでいる人、脅え震えている人など、様々であろうけれど、未だ捕まっていない人を目にする機会にはなかなか恵まれない。

 フーテンの寅さんを絡めたCMの中の「お天道様が見ているぜ」という科白から、突然、こんなことを考え始めた私である。

 悪事を犯しているのに捕まらない、という括りだと、寧ろ、総理大臣とか大統領なんぞを思い浮かべてしまう。何とも情けない世の中だ。お天道様が見ているぜ。G8の会議室に是非伝えたい一言である。

投稿者 zenta : 23:58 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月29日

ウイルス

 家人がウイルス性の風邪で九度近い熱を出して倒れている。近所の診療所で診てもらったお蔭で、少しは楽になった様子。結構、結構。けれども、同室で起居を共にする私がウイルスに乗り移られる危険性はそれなりに高いだろう。また九度の熱を出すのか。恐ろしいなあ。嫌だなあ。
 本を正せば、そのウイルスというのは、家人が職場の見目麗しい同僚から頂戴してきたものである。ウイルスも旅が好きなのだな。どこから来て、どこへ行くのだろう。いやいや、そういう問題ではない。
 わしらが生きてゆくためには転々と寄生するしかない訳で、恨むなら、このような生き物として俺を作った神を恨めよ、と言うのが当人の弁となろうか。そうか、君だって生きているんだものな、と思うけれども、苦しい目に遭うのは嫌だ。嫌なものは嫌なので、こちらも何とか移されないように頑張るしかないのである。

 医学が進むと、このウイルスが絶滅して地球上から消えてしまう日がやがて来るのだろう。そう思うと、まあ、ウイルス君が存命なうちに、風邪で寝込むぐらいしてやってもいいかな、という気になったりして……いやいや、いかんいかん。

投稿者 zenta : 00:05 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月22日

いらないんですけど

 Micro$oftとかいう会社が、杉並区立の小中学校にxboxとかいうゲーム機を80台も恵んでくれたそうである。型落ち寸前の不人気ゲーム機を恵んでもらって、ITだの、チャット授業だの、なんだの、と嬉々としてはしゃぐ区長や教育委員たち。杉並区の未来は大丈夫なのか。
 ヴィデオ・チャットのキットと合わせても、実売価格でせいぜい2万強のゲーム機を80台。これで、日本中にニュースが流れて大宣伝。何とも割りの良い広告効果に、M$としちゃ笑いが止まらんことだろう。

 それにしても、なぜ、杉並区のホームページには公式発表の記事がないのだろう。不思議だ。

http://www.xbox.com/ja-JP/news/news/20050616.htm

投稿者 zenta : 11:21 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月15日

雨だよ

 雨が降っていると、流石に、草毟りなんざする気がしない。気がしないだけでなく、実際、しないのである。けれども、ちょっとは気になるので、窓から覗いたりして。視力が良いもので、あの辺りに新しい雑草が生えてきているじゃねえか、なんて、見えちゃったりして。するてえと、気になって仕方がない。明日になったら、忘れずに毟らないとなあ、と。でも、梅雨ですからね。明日も雨かもしれないってんで、杉並区の天気予想をウェブで調べる訳。ほほぅ、今夜半まで雨で、明朝にはあがるんですな。いやあ、結構、結構。

 昼んなって飯を喰う。珍しくも何ともない。来客の相手をする。これも、然程珍しくはない。じゃあ、まあ、その件は検討しておきますから、なんてんで、ご機嫌よう、と客人を送り出す。珈琲を淹れて、一息ついて、さあ、と階段を上がって自室に戻ろうとするところで、また、階段下の窓から覗く訳である。ああ、まだ降ってるねえ。何だって、雑草てえやつは、ああもめきめき育つんだろう。しかし、雨ですからね。まあ、明日の朝にしますか。

 Macであれこれして、手が空いた時に、また天気予想のページを見てみる。数時間でそんなに変わるはずもないけどさ。明日の朝には止む、と。止みますか。結構、結構。

 ピンポーンと宅急便が届く。で、どたどたと階段を駆け降り、判を押して受け取る。ああ、Amazonか。ううん、まだ止まんねえ。しかし、あれだね。天気予報てえものは、意外に当たらないからね。明日は降らぬと言い切れるものだろうか。明日も降ったらどうしてくれよう。窓から外を覗き、そんなことを思う。

 暫くして、またピンポーンと、今度は何だい。おや、ASKULか。そういや、ノートとガムテープと朱肉、それに庭仕事用のビニール手袋を頼んであったのだった。で、また、外の様子を窺う。あれあれ、おいおい、止んでいる風じゃありませんか。一応、ちょいと出てみるか。なんてんで、外に出て、目に付いていた雑草を抜いて見たりして。すると、また、ぽつぽつと降ってきましたね。慌てて、屋内に戻る。

 ぽつりぽつりと濡れはしたけれど、目障りな雑草を片付けられて、何とはなしに満足したような気分になるから不思議である。しかし、こんな天候が一月も続くとはねえ。庭仕事には何とも不向きな季節であります。

投稿者 zenta : 20:50 | コメント (1) | トラックバック

 結局、降ってますなあ。

投稿者 Zenta : 2005年06月16日 16:42

2005年06月08日

花のなまえ

 相も変わらず、園芸に勤しむ男あり。
 本来、自称藝術家の証である筈の作務衣姿なのに、園芸家の姿としてご近所にすっかり定着して、近頃じゃ、通り過ぎる小学生に、あ、園芸のおじちゃんだ、わーい、わーい、と指される始末……って、まあ、そんなことはないのだけれど、ちょっとこの本を読んでみなさい、と『園芸家12カ月』を貸されてしまったりするほどではある。チャペックは好きだし、この本だって随所に面白みが溢れている素晴らしい本である。なのであるけれど、再々申すように、私は行き掛かり上、園芸に励む形になっているだけの者であり、花の名まえなんざ殆ど何も判らない。しかも、外国の花ときた日にゃまるで珍紛漢紛。花の名まえてえものはカタカナで書かれている故に、音としてイメージすることはできる。声を大にして読み上げることもできる。けれども、そうしたところで、形骸化した空気の振動が口の辺りに漠然と拡がるばかりで、如何なる意味も私には到達しない。いやいや、意味不明という意味が到達するのである、と、まあ、小理屈は兎も角も、判らないものは判らない。ああ、判らない。判らない。

 嘗て、和英辞典不要論者と小論争になったことがある。先方は、大変博学で高齢の弁護士様。あれこれの語学にも堪能であり、御齢七十を超えても猶精進怠りなき方。だらだらずるずると直観頼みで学問と接することの多い私としては、大きに見習いたいような人物である。けれども、彼の和英辞典不要論は些か強引に過ぎ、初心者を脱したら金輪際和英辞典に触れること罷りならん、という勢い。勿論、酒の上でのことなので、矢鱈に弾みがついていたということもある。私たちの、立派なような馬鹿馬鹿しいような、それでいて、妙に熱心な議論に、傍に居合わせた英国紳士は目を白黒させていた。その際に、私が和英辞典を擁護するために持ち出したのが、花の名まえであった。上級者と雖も、例えば、和英辞典無かりせば、如何にして、花の名まえを英語で伝えることができようか、と。うーん、と言ったきり、数分間黙り込んだ御大は、和英辞典の使用を部分的には認めよう、という気になったようであった。

 ソテツを和英辞典で引いてみて、なるほど、cycadですか。ふむふむ。cycadねえ。今まで見たことねえなあ、って。あるいは、その逆。peony、peony、ええとpeonyと、ほほう、シャクヤクね。ああ、シャクヤクですか。立てばシャクヤク座ればボタンって、あれだね……って、これで何か解決しただろうか。何も解決していないのである。判らないローマ字が判らないカタカナに形を変えただけ。脳裡には如何なる映像も浮かんでこない。虚しいのう。

投稿者 zenta : 14:01 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月01日

さらば

 貴ノ花が亡くなった。五十五歳。
 小中学校の先輩であり、地元でちょくちょく見かけていたもの。自ずと親近感が湧き、その上、あの外観にあのプレースタイル。応援しない訳にはいかない。この近所での貴ノ花人気は大変なものであった。私、相撲が好きなんでございますよ、と威張れるような人間ではないが、貴ノ花だけは随分応援したものであります。

 そうそう、後輩力士をずらずら率いて、突然学校に現れ、放課後の体育館で、目ん玉が飛び出るような、高速ドッジボールをやっているのを見て、心底魂消たことを思い出す。バレーボールを使っていたんだが、ソフトボールをびゅんびゅん投げるぐらいのイメージでござんした。連中の分厚い胸板にばちーんと当たると、体育館中にすぱーんと快音が響き渡る。良い音だったねえ。偶にボールが破裂したりしてね。何とも不思議な見世物(失礼)を見物した。お相撲さんって、ほんとにすごいんだなあ、とつくづく。

 何はともあれ、御冥福を祈る。

 振り返ると、小畑千代や佐々木ヨーコ、ジェット・シンなどなど、とてもいかした連中がスポーツ(?)界を賑わしていた時代だったが、私にとってのヒーローと言えば、江夏と貴ノ花がワン・ツー。これに尽きた。ネッツァーを知ってから、ずんずん方向が変わっていったものの、それでも、江夏も貴ノ花も一貫して応援しておりましたとも……って、四半世紀以上も昔の話なのですなあ。いやはや。

投稿者 zenta : 13:25 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月25日

園芸家

 毎日毎日庭仕事に勤しむ男あり。
 黙々と取り組んでいると、通りすがる人々に「御精が出ますねえ」と声を掛けられることも少なくはない。その度に、顔を上げて「そんなこともないんですけれどね」などと、曖昧な笑みを浮かべて曖昧な返事をする。これこそが日本的なコミュニケイションを代表する一つの形である。
 困るのは、これは何ですか、などと尋ねられることである。これは困る。とても困る。何となれば、私は草花の僕となって可能な範囲で面倒を見させて頂いているに過ぎないのであって、決して草花に詳しい訳ではないのだ。この狭い花壇のようなものの中にあるもののうち、正確に名まえを知っているものと言えば、片手に余るという具合。正直に、いや、ちょっとわからないですね、と答えると、相手としては、何だか変なことを訊いちゃったのかな、というようなもやもやした顔をして、あははは、では、また、などと、中途半端な挨拶をして去ってゆく。私の方でも、又もや曖昧な返事をかえして。
 中には、他のなら知っているはずよね、と気を遣って、別の植物を指し、じゃあ、これは何ですか、などと、尋ねてくる方もいる。しかし、それこそ、絵に描いたように、親切が徒になるという図なのである。すみません、それもわからないですね。そうすると、先方はますます気を遣って、じゃあ、これは、などと尋ねてくるわけで、すると私は、それに対しても、すみません、それもわからないんです、と答えねばならず、そうなると、気遣い魔王は、あらあら、じゃあ、これは何かしら、と問いを重ねる。にも拘わらず、答えられない私の、ああ、何と見苦しい事か。こうなったら、嘘でもいいから何か答えなくてはならん、という切羽詰まった心境になり……いや、いっそのくされに、腹掻っ捌いて死を以て詫びとするしかないか、ああ、短い人生だったなあ……と、そんな私の目の踊り具合に気づいてか、あら、これは紫蘇よね、そうそう、紫蘇だわ、などと独り言を呟き、女性は去っていった。嗚呼、助かった。この世に未練はないけれど、こんな形で世を去りたくはない。既のところで助かったわい。

 斯くの如く、園芸家の朝は意外なことで、意外に辛いものなのである。生半な心で園芸家になろうなどと思わぬが良いぞ。

投稿者 zenta : 14:02 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月18日

いくつか

 丸谷才一のエッセーを読んでいて、びっくらこいた。数の話。a fewやseveral、あるいは、someがいくつぐらいかってなこと。
 私は「a fewは2-3」「severalは5-7」ぐらい、というようなイメージを持っている。恐らくは、中学校で身に付けたものだろうと思う。本を読んだり、外国人とコミュニケイトしてきた経験でも、それで違和感を感じたことはない。手元の辞書をざっと覗いても似たようなもんだ。丸谷も、まあ、私と大差ない感覚でいたようだ。ところが、デニス・キーンに「a fewは5-6-7」「severalは13-14」だと言われたもので彼は驚愕した、という記述を読んで私も驚愕した。この私の記述を読んであなたも驚愕した……って者が何人かいるだろうな。なかなか楽しい驚愕の連鎖ができそうだ。いや、まあ、それは今はどうでもいい。

 実のところ、a fewやseveralを数に直すといくつぐらいか、と問うたところで、詮無きことでありましょう。時代や空間、あるいは対象物に応じて変化するような代物であって、本質的に大きに曖昧な存在なのであるよ。曖昧だからこそ、a fewなどと言うわけであります。だから、多少のずれがあるのは、寧ろ、当然のことなのであるし、「数に直すと……」という試みが、そもそも馬鹿げているし、粋じゃないねえ。でも、気になる。「severalは13-14」ってのは、いくら何でもどうなのよ、という気がしてならない。そこで、私は、在英の弟子に調査を依頼したい。なるべく、ばらんばらんな人間を対象にそれなりの人数を相手にしてほしい。そうさな、several peopleには尋ねてみてほしいな……って、何人に質問すれば良いのだろうかねえ。

投稿者 zenta : 00:46 | コメント (4) | トラックバック

 「a few:5-6-7、several:13-14」は、私にも驚愕です。特に a few の方。「ちょっと」の感覚だから「2〜7」ならまだわかるけど、だったら4以下は?って聞きたくなっちゃいますねえ。
 私自身かつてイギリスに滞在中、たしかネイティブに同じ質問をしたと思うんだけど、少なくとも
 a few:2-3、several:5-7(私もこれ、染みついとります)
を否定はされなかったように記憶しています。several はもっと上に向って幅があるよ、って言ってたような気はするかな。1990年のことですが。あんまり定かでもないところもあり、数字としてはっきり言ってみてくれ、って聞いたわけでもなかったと思うので、興味ありますねえ。外国人に聞いてみるのも面白そうですねえ。

投稿者 shachi : 2005年05月18日 05:14

すみません、遅れました。
軽く、クラスメートに聞いて見たところ、(イギリス人20〜27歳ぐらいの女の3人が対象) a few 2〜4 又は5 ぐらいで several 5〜8 ぐらいだと言う結果でした。一般人の感覚は私たちが思っているそれとほとんど同じようです。にしても、やはり何について話しているかが重要で、それによってはa few が10以下のどれか、severalがそれ上の適当な数字にも十分なりえると思う。との答えでした。
ちなみに、役立たずのフラットメイト(オーストラリア人)はseveral って聞いた時は特定な数字は別に思い浮かべないと言って譲らず、調査対象にはなりませんでした。また機会があったら、もうちょっと調べて見ます。

投稿者 kajiya : 2005年05月21日 07:09

 御苦労である。
 なるほどね。ま、サンプルが少ないから、手空きの時にでも、もう少し調査を続けていただきやしょう。

投稿者 Zenta : 2005年05月22日 00:00

ご苦労さま。勉強になります。フラットメイトの、severalは思い浮かばない、ってのも面白いね。日本語の「いくつか」みたいな感覚なのかな。でもそれじゃあ some との区別は?ってことになるわけだが。

投稿者 shachi : 2005年05月24日 16:21

2005年05月11日

早川星太郎展

 会場となったのは、阿佐ヶ谷圏内の、云わば、地元の喫茶店だったのだが、未だ嘗て足を踏み入れたことのない場所であった。だってさ、婦人服屋さんのお店を通り抜けなきゃ入れないところなんですよ。今まで、その存在すら、ぼんやりとしか認識していなかった次第。ここがCOBUなのか、と。

 さて、肝心の作品だが、私が知っている、彼の今までの作品の強烈さとは全く違う。けれども、小さい中にエネルギーが凝縮したような顔が並んでいた。
 奥の席に腰掛けた私には、それぞれの作品が見える角度が異なる。当たり前だ。正面のアヴェクの向こう側の絵は、勿論、正面に見える。一人で黙々と何かをメモしている男性の向こう側の絵は、凡そ、三〇度ほどの位置になるだろうか。私が座っている側の絵となると、角度はかなり浅く、入口側のものともなれば、零度に限りなく近い。勿論、立ってうろつきながら、全ての作品を正面から見ることも可能ではある。けれども、私には、その、自分の席からの限定された眺めが面白かったのである。一対一で正面から対峙するばかりが絵画との関わり方の唯一の方法なのではないのだね、と。斜めから眺め、ほぼ真横に位置するような絵を身を乗り出して眺め、そこに今在る作品を、私が今いる場所から、今眺める。おまけに、珈琲を淹れる音やアヴェクの会話から、レジスターの立てる金属音や婦人服屋さんの店員さんたちの声まで、その場には様々な環境音が溢れていた。良いね。普通に人間が生きている空間の中に存在する作品群。そこにあれこれが存在するにも拘わらず、なのか、そこにあれこれが存在するからこそ、なのか、兎にも角にも、星太郎の作品と私の距離は、随分近かったと思う。

投稿者 zenta : 16:21 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月04日

そんな店、そんな夜

 ごくごく近所の、呑み屋らしい呑み屋で、呑み助らしい呑み助のおっさんと、自称藝術家らしい自称藝術家……つまり、如何にも無職らしい無職……同士、差し向いで呑んだ。
 然程ぱっとしないその呑み屋では、連休中の早めの夕方ということもあって客足も薄く、阿佐ヶ谷にあるのだからして、田舎というほど田舎ではないけれど、東京の中にあってはかなり鄙びた空気が流れていた。
 お酒を冷やで、と頼むと、女将は「常温でってことよね」と確認。つまり、冷やと言いながら、冷酒を要求する類の、知識不足の客が増えているのかいな、と、どうでもいいことが心配になる。高清水を枡からさえ零れるほどなみなみと注いでもらっていると、ああ、これが呑み屋てえものだなあ、と沁み沁み思う。酒の一滴二滴がどうのこうの、なんてことではなく、その呑み屋の女将の呑み屋の女将的気遣いが何とも言えず嬉しいのである。お酒様に失礼のないように呑まなくてはな、という気にもなりまさあ。
 ああだこうだ、と自称藝術家的な無駄話を交換していると、ふらりと女将が顔を出し、連休中だから何もできないのよ、あはは、と宣う。出てきたのは、鯨のスタミナ炒め。要するに、大量の大蒜で炒めてあるわけよ。医者に酒を止められている者同士が抓むには悪くない選択でありますな。
 暫く振りに会っても昔と変わらんね、などという話題も出たけれど、よく考えてみれば、お互い頭は真っ白だし、医者に酒は止められているし、五時に呑み始めて次の五時(場合によってはもう一つ先の五時)まで呑んでいるというような勢いはないし、相手のおっさんには高校生になる娘がいるし、私にだって女房がいるし。変わらないようでいて、実のところ、あれこれと随分と変わっているのである。そんなことを思ったら、こういうぱっとしない呑み屋がこの世から消えてしまう前に、「八十年代が羨ましいです」などという(微)妙な憧れを抱いている婦女子を連れてきてあげたいなあ、という気がした。

 自転車をこぎながら夜空を見上げた。星がとてもきれいだった。でも、そんなことしてると、転びますよ。もう昔とは違うんだからさ……って、酔っ払って自転車乗ってりゃ昔も転んでいましたね。

投稿者 zenta : 16:43 | コメント (3) | トラックバック

ちょいとさっきまでイトー君なるアナザー飲み助などと飲んでましたんですが、かれは自転車で帰っていきましたな。私はいつぞや救急車に連行されてからその手の乗り物は封印しましたが、学習能力のない彼奴は、つい二月ほど前のギプスのことなど忘れているようですよ。

投稿者 望月正俊 : 2005年05月05日 02:52

先日は、団地で息子に声をかけて下さりありがとうございました。
もうずいぶんお久しぶりだと思うのですが、よく分かりましたね。すっかり大きくなっちゃったのに。

そういえば・・・「zentaさんって坂本龍一に似てるね。」って言ってたけど、あれは、、、白髪だからなのか。

投稿者 Rika : 2005年05月08日 10:31

 ひょろっと縦にのびた少年、こいつがこっそり辞書を引きまくっていたんだな、と思い浮かべて、爆笑を堪えるのに必死でしたよ。

投稿者 Zenta : 2005年05月08日 23:18

2005年04月27日

雑草


 草毟りのシーズン到来。毎朝、三十分前後、時には一時間ほども、庭いじりの真似事をしている。相変わらず、自分で判断する能力は低く、親人の指示(というか命令だな)であれを抜いたり、これを抜いたり。みなさんは花韮(洋名ブローディア)を御存知だろうか。南米だか北米だかが原産の、派手すぎず、すっと咲く花で、私は嫌いではない。しかし、何故か、我が家では雑草に認定されている。それ故、花壇部分に生えていると抜かざるを得ない。けれども、外側に咲いている分には放っておけば良い、とのことで、あちらこちらで白く蒼く咲き乱れている。この仕組みは何かに似ているよなあ、と、庭仕事をしながら暫し頭を捻る。ああ、そうか、煙草だ。煙草ですよ。おまえらは未成年だから吸ってはいかんが、わしら大人は吸っても良いのだ、という論理に、中学生時分に感じたあの大いなる矛盾と似ているのである。そんなことを思い出したら、花壇部分の花韮を抜く手が少々重い。

投稿者 zenta : 15:24 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月22日

春と言えば辞書

 春になると、何故だか、辞書が気になり出す。家庭教師や塾屋稼業が長かったからだという要素が全くないとは言わないものの、昔から辞書が好きなのである。
 最近購入したものは、ちくま学芸文庫版の『言海』。敬愛する百鬼園先生様々を始めとする人々がいつも傍に置いていたという、あれである。私も手元に置いて、気が向いた時に引いてみているけれど、今のところ、私の素養不足が祟って世界にすんなり入り込めない。嗚呼、無教養の情けなさをしみじみ。
 もう一つは、ベリ・ベリ・チープな電子辞書である。今まで電子辞書てえものを馬鹿にしていた私である。机作業では紙の辞書が楽しいし、コンピュータ作業でならコンピュータで使用する辞書コンテンツの方が遥かに優秀だし、あれこれと使い勝手に応用が効く。電子辞書の出る幕なんざない。そう思っていた。けれども、近頃では大学に入学する若者が電子辞書を購入する率が高い、という記事を読むに至って、何とも情けない話だな、と憤り、しかし、待てよ、憤るにしたって、お主、電子辞書を使ったことがないではないか、と、いや、拙者、試さずとも想像で判り申す
……各々方、待たれい、待たれい、殿中でござるぞ……と、まあ、こんな猿芝居を演じたわけではなく、心の中でそう思って、取り敢えず、一つ入手してみようではないか、という気になったのである。本当は、仏和やリーダーズを含むような、高機能なものが欲しかったのだが、何せ、こちとら、大幅に手元不如意な為、仕方なく、極め付けの安物を選択した次第。で、使い始めて、不満は多々あるものの、大きな発見があった。机の上とマックの中以外でも辞書を必要とする場所があったのである。トイレと蒲団の中。これが、どうして、悪くないね。収録語数があまりに少ないもので、頻繁に載っていない単語に出会してしまうものの、文庫本よりも小さく軽く、低機能なだけに動作も速い。こうなると、もっと高機能の製品も試してみたくなるけれど、まあ、それは、また、いつか……また、いつか、なんて言って、相当遠い未来になりそうな気もするけれど。

投稿者 zenta : 18:57 | コメント (2) | トラックバック

おはようございます。はじめて投稿させていただきます。
電子辞書をめぐってのお話。
うちの長女が、高校の入学祝いに叔父から電子辞書をもらいました。ぱぱっ、ささっと使う時に重宝してるようですが、あれ、しおり機能があるんですってね(私は使ったことないので知りませんでしたが)。
ある日彼女が何気なくしおりを開くと・・・。そこには、ぎょっ!?と赤面するような言葉が次々と。つまり、中学生になった長男がこっそり人に聞けないような言葉を調べていたらしい(笑)。あとで聞いて目が点、うろたえ焦りながら消去しまくってた息子でありました。
この春、わが家での青春の一ページ。皆さんもお気を付けて〜〜。あはは・・・。

投稿者 Rika : 2005年04月23日 08:52

良い話ですなあ。
少年には、まずは紙の辞書で修行を積むように御指導下さいますよう。

投稿者 zenta : 2005年04月25日 14:35

2005年04月20日

雨か

 我が家のトタン屋根の上に寝転がって、燦々たる春の光を浴びながら読書に勤しもうではないか、と、ヨガマットなるものを購入したのであるが、こんな天気では使いようがない。明日は晴れるだろうか……と、ほほぅ、杉並区は明日は晴れるのか。近頃は、Yahoo!やgooで、杉並区という単位の天気予報がみられるようになっている。私なんぞは、近所以外には全く用がない人間なので、このページをブックマークしておけばそれで事足りるのであります。
 手前生国と発しまするは関東は東京です。東京東京と言っても些か広うござんす……そうなのである。東京ったって、私の場合、その殆どは途轍もなく狭いエリアで日々過ごしているわけで、銀座で雨が降ろうが、蒲田で槍が降ろうが、知ったことではない。もっとも、降るものがテポドンだったりすると、それが何処に降ろうとも、杉並の住人にも大きに影響するんでしょうな。

 ところで、ヨガマットって、高いね。ヨガなんて看板が付いているものの、物は、妙に油臭い厚手のビニールのマットに過ぎない。なのに、1500円もしましたよ。百円ショップに並ぶようになるのを待った方が良かったなあ。

投稿者 zenta : 19:56 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月13日

別の温度差

 夢のエネルギーはないものか、と考えるに、夢かどうかは兎も角も、国を挙げて取り組んでもらいたいものがある。小水である。つまり、おしっこね。おしっこ。
 温度というのはエネルギーである。放出時には体温相当だろうから、概ね36度ほど。季節によるけれど、平均気温の16度と比べると20度程の温度差がある。1ccの水を1度変化させるには4.2Jのエネルギーが必要である。一日のおしっこの量を1500ccと仮定すると、一人が126Jを放出していることになる。また、高さというものもエネルギーである。1500ccのおしっこが落下する距離を控え目に50cmとしても、7.5Jのエネルギーが発生する。
 つまり、一人の人間が一日にするおしっこからざざざーっと130J以上のエネルギーが放出されている。日本だけでもその一億倍。地球全体では六十億倍ですぞ。日に八億kJほどか。これだけのエネルギーが、毎日毎日、トイレの中に、あるいは、地面に、あるいは、海だのプールだのの中に、無駄に捨てられているのであります。誰かこのおしっこエネルギーを何とかする方法を発明したまえよ。

*注意:私の雑な計算、雑な思考が大幅に間違っているということは、大いにありえます。

投稿者 zenta : 21:39 | コメント (1) | トラックバック

なるほどー!熱く、勢い良く、迸らせることで、
地球が救われ、エネルギー問題が解決し、原子力なんて、危険で汚い(更に金と欲と無責任にまみれた)
ものに頼らずに済むんだから、
こんな、清清する事はない!

投稿者 Anonymous : 2011年04月21日 21:49

2005年04月08日

桜花を謳歌し 呑みに呑んだり 花見酒

 花と風と呑み助と、ああ、これぞ日本の春。灘の酒、あさがや物語なる酒。桜花を謳歌していたのに、謳歌はいつしか嘔吐に変わり、吐きに吐いたり。朝七時半まで嘔吐は続き、最早、胃の中はすっからかんで何もない。頭の中もすっからかん。心身ともに空っぽな春の日、それでも、今日も桜は美しい。

桜花を謳歌し 吐きに吐いたり 花見酒

投稿者 zenta : 13:26 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月06日

温度差

 夏は暑く、冬は寒い。東京ってのはそういうところである。但し、同じ東京であっても小笠原辺りに至ると、年中夏に準ずるってことのようだけれど。
 その寒暖というのは、標準的な日本語なのであるからして、語自体は汎用性が高い。高いのだけれど、質としては、個々人に依存した極めて感覚的なものである。例を挙げる。
 リハーサル・スタジオの過半では冷房が効き過ぎていて、寒くてかなわんよ、と私には思える。けれども、寒がっている私の傍で、半裸になった上で、猶も暑い暑いと騒ぐ戯け者もいる。
 六月でも夜ともなれば冷える日も間々あるので、ダウンジャケットを着込んで出かけると、おいおい、全ちゃん、六月にダウンはないんじゃないの、と、驚嘆される。君らこそ、六月にTシャツ一枚ってのはおかしいんじゃないのかね、夏になったら裸で歩くつもりか、と、こちらこそ問いたい気分。どうかね。
 私は通常シャワーの温度を37度に設定して浴びている。それに対して、我が家の人々は42度のシャワーを浴びている。37度では寒くて入れませぬ、と申す。彼女たちの体温は私より高いとはいえ、36度台である。何故、37度の水(あるいは湯)に対して寒いという感想を持つのだろうか。彼女たちの感性を尊重して百歩譲ったとしても、「寒い」ではなく「暖かさが不足している」というような物言いが正しいのではないか。

 寒暖なんざ、斯くの如く、大きに恣意的に表現されるもので、全く以て人によりけり。尤も、インフルエンザで39度を超える熱を出してくらくらしている人間に関しては、自覚的にも他覚的にも「やばいぐらいに熱い」と意見が一致したのであった。39度超の熱というものには、勝手気儘な佐藤家の人々の意見を統一する程の威力があるのであります。

投稿者 zenta : 16:10 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月01日

嗚呼

 インフルエンザ、恐るべし。
 本日の編集中止、申し訳ござんせんが、平に平に御寛恕の程。

投稿者 zenta : 23:20 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月30日

高熱に見舞われて

 からすのことなど考えておられん、ということをここに御報告申し上げます。

投稿者 zenta : 12:18 | コメント (1) | トラックバック

お大事になさってください。
まだ桜はほとんど咲いていないので今のうちに休んでください。

投稿者 to : 2005年04月01日 21:37

2005年03月25日

おまえもか

 Eudoraの新しいヴァージョンが発売になるという案内が来ている。最近は、GyazMail一辺倒なので、いまさらどうでもいいけどね、と思いながらも、一応覗いてみると、何たることか、Eudoraは最早ライブドア製品なのである。
 私は萬年筆好きだし、落語好きだし、Mac好きでもあるし、音楽好きだし……ってな具合に、みなそれぞれに好きなもの、好きなことってものがある。当たり前。人の嗜好なんざ千差万別、私が嫌いなものを好きな人もいるし、私が好きなものを嫌いな人もいる。それが当然のことだし、だからこそ、世の中は成立しているのだ、とも言える。そう考えると、買収好きな人っていうのがいてもおかしくはない。おかしくはないけれど、私とは嗜好が相容れない。そういうことだ。
 それにしても、EudoraだのJeditだの、そんなものを買収しなくたっていいんじゃないかなあ。フリーウェア、シェアウェアとして細々と頑張って育ってきたものを大手が買収するってのは、ソフトウェア業界にはよくある図だが……。そう言えば、最近、Jeditの開発遅いよな、なんて、余計なお世話でしょうけどね。

 買収嫌いの私はJeditもEudoraももう使うのはよそうと決めた春の日、梅も散り始めた。さらばじゃ。

投稿者 zenta : 13:50 | コメント (3) | トラックバック

うーん知らなかったです。
今ちょっと覗いてみたら、Opera やskype もそうなんですねぇ…。

投稿者 kajiya : 2005年03月26日 09:23

>Opera やskype もそうなんですねぇ…。

OperaやSkypeはライブドアじゃMac版は黙殺ですよ。失礼な。
ま、Mac版を出しても、もう日本版は使うつもりはないけどさ。

投稿者 Zenta : 2005年03月26日 19:19

小生、Eudoraユーザーです。MacOS 9.04で使っています。買ったときに販売元がライブドアになっていて、この会社なんだろうな?と思っていました。
ところでライブドアのトップページを見たことがありますか? なんであんなにアホーと似ているのでしょうか? あれほど似ていて問題にならないということは、やはりホリエモンと孫くんはグルですかね。

投稿者 りんご : 2005年03月27日 22:40

2005年03月23日

落語が聴きたい

 末廣を冷やかしてから、暫く振りに落語熱が高まっているんだけれど、音楽と違って、落語をかけながら何かをする、所謂、ながら族……これって死語かね……ってスタイルは難しい。難しいというより不可能。できたとしても意味がない。なので、心の中で、ああ、落語を聴きたいな、なんて、思いながら……これも、ながら族かもな……あれこれやっているので、結局、集中できず、何事も捗らない。しかも、捗らないってのもこれはこれで味だよな、などと思っている自分がいるのだから、質が悪い。雑念に邪魔されて捗らないってのが、何とも人間的で良いね、なんて思ったりする愚か者である。「雑念だね。どうだい、一杯いくかい」なんてんで、誰かを誘ってぺろっとやりたいほどである。実利なんざくそ喰らえってね。そんなことばかり言っているから、貧乏がすっかり身に付いちまう。よっ、大将、今日も貧乏がお似合いだね。よせやい、照れるじゃねえか。って、馬鹿丸出し。

 ところで、辞書を引いていて、貧乏にもランクがあることを学んだ。あたしのは第二次貧乏ぐらいかねえ。

投稿者 zenta : 20:06 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月18日

この忙しいのに

 忙しい。忙しいのだけれど、私の忙しさてぇものは他人には伝わりにくいものの一つである。何しろ、脳内の活動が主であるからして、一見、ぼうっとしているようにさえ見えてしまうからである。それで、毎日暇でよござんすね、などと思われたりするわけで、誠に心外である。心外だなんて言うけどね、あなたてぇ人は口開きゃ、雪だよ呑みたい、梅だよ呑みたい、と、呑みたい呑みたい呑みたいの、呑みたい尽くしの毎日じゃありませんか。そうですよ。その通り。つまり、毎日毎日呑みたい呑みたいと騒いでいるのなら、それは私が毎日毎日呑んでいないことの証しじゃありませんか。これだから道理の判らない人は厭だね。毎日呑んでたら、呑みたい呑みたいなんて言いやしませんよ。傍からどう見えようとも、私は忙しいのである。呑んでばかりなどおれんのである。
 そんな忙しい中、新宿まで出動した。扇好師匠が末廣に出る時には必ず寄せてもらうと心に決めている私である。仲入り後、すーっと出てきて「寄合酒」を実にさらっと演じて、しゃんしゃん。仲入りの端はこんなもんでどうですか、てな具合で、あっさりすっきり。忙しい中やってきている私には少々物足りない気がするものの、全体の中では必要な役回りか。その後も、忙しい、忙しい、と思いながらも、昼の部の取りの扇橋まで、二時間弱を過ごす。寄席で過ごす午後というのは悪くない。けれども、心の中には「忙しい」が渦巻いているもので、本当には楽しめない。ああ、今度は忙しくないときに、のんびり来たいものだ、と思いながら、その日までさらばじゃ末廣亭よ、とバイクに跨がろうとしたら、何だよ、びしょびしょじゃねえか。雨が降りやがったのか。ああ、こんなことだったら、バイクが乾くまでもう少し居座るんだった。そう呟きながらも、忙しい私は濡れたシートをせっせとハンケチで拭い、家路を急ぐのでありました。この忙しいのに、何やってんだろうね。

投稿者 zenta : 19:57 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月16日

梅に鶯……以外


 我が長屋の脇の紅梅がちらほら咲きはじめている。梅には梅の味わいがある。当たり前だ。奥床しくて、寧ろ、桜よりいい。そんなことを思いながら、ぼんやりと梅の木を見上げている姿は、傍からは、花愛でる風流な人物に映る可能性だってなくはない。けれども、内実、これを肴に一杯二杯やりたいよな、と目論んでいるわけで、迚もじゃないが洒落た類いのものではない。
 花の蜜に誘われるのか、ほんの二十分ほどの間に、鶫、鵯、椋鳥、雀、四十雀、目白と、小鳥たちが次々に姿を見せた。その、それぞれに小洒落た姿と薄紅色の花の取り合わせを目の当たりにし、ますます呑みたさが募る。こう、きゅーっといって、うーん、ばかうまっ、なんてね。今時、そんなこと言うやつぁいませんか。ああ、そうですか。それにしても、旦那、平日の真っ昼間っから酒ですか。ううむ、別に誰に気兼ねする筋合いでもないけれど、昼日中から一升瓶を抱えるとなると、多少なりとも気が引けるのは、常識が残存していると喜ぶべきか、それとも、常識に縛られていると恥じるべきなのか。ちくしょう、誰か遊びに来やがらねえかなあ……なんて思っていると、誰もやってこないものなのである。本日は晴天なり、本日は晴天なり。

投稿者 zenta : 23:25 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月11日

継続は力なり?

 辞書をいくつかぱらぱらめくってみたところ、新聞というのは、情報を素早く届けるための定期刊行物、というのが大掴みにした定義だと言って良さそうである。然るに、からす新聞と言えば、数名の締め切り破りの常習犯がおり、毎度毎度発行が遅れている。酷い時には月単位でずれたりする有り様でありまさぁ。新しくもなく、定期でもないとなると、さすがに新聞と名乗るのは憚られましょうぞ。
 そんなところを補うべく、大工事中のホームページでは、昨今流行りのブログという仕組み(ここもそうだ)を取り入れて、毎日更新と謳い、多少の裏技が使われたりすることもあるものの、今のところ、何とか日々新しい記事というのか落書きというのか独り言というのか、兎にも角にも、何かが加わる。継続は力なり。そんな諺があるのだから、毎日続けていれば何か良いことがあるに違いにない。あると嬉しい。あってほしい。

 紙媒体で月に一回発行し、インターネットで日々更新するという形は、なかなかバランスが良さそうな気がするけれど、例によって見切り発車気味の私たち、目的地はあやふやだ。さてさて、一体どこに辿り着くのやら。

投稿者 zenta : 10:26 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月09日

ロゴ

 御存知の方も多かろうが、からす新聞ではロゴを公募している。けれども、今のところ、一件の応募もない。他人様に威張れるような名誉になるはずもないので、応募がないのも仕方がないところだろうか。これは金品で釣るしか方策はないであろう。然るに、からす新聞社にはお金などというものは金輪際存在した例がない。収入は全くなく、微々たる出費を繰り返すばかり。さあ、そこで、資金繰りをどうしようか、と考える仮編集長たる私。
 小さい頃考えた金策は、日本中の一人一人から一円ずつもらおう、というようなこと。今なら、それで一億数千万円が手に入ることになる。けれども、これには一億数千万人からどのように集金するか、という大きな弱点がある。雑に考えても、集金には一億数千万円の何倍ものお金が必要になりそうだ。これじゃ、話にならん。
 小学生の頃に考えた方法で何とかしようというのが、そもそも間違った話である。小学生なら面と向かって「一円下さい」と言ったところで、それほど妙でもあるまいし、実際、一円と言わず百円ぐらいくれる人だっていそうである。けれども、私、現在四十三歳の無職。「一円下さい」なんて、町中でやっていたら、強制的に転地療養させられてしまいかねない。
 もっと時流に乗った方法がないか。そう案じながら、漠然とテレビを眺めていた。何だよ、そんなに簡単なのか、と少々びっくり。だってさ、堀江とかいう口のとんがらかったおにいちゃんが、八百億円借りちゃってさ、大勝負でさ、みたいなことを言っているではないか。そうか、からす新聞社も、どこかから借りれば良いんだよ。早速、気前の良さそうなリーマン何とかというところに電話してみようかと思ったけれど、よく考えてみれば、からす新聞社にはお金を貸してくれそうにもない。交換条件になるCBだか何だかってものを出しようがないのだ。からす新聞社は「社」なんて自称しているけれど、何てことはない、ただの個人の集合体に過ぎない。しかも、経済的にはかなり非力な人々の集まりである。当然、株式なんか発行するわけにはいかない。駄目だ、駄目だ。リーマン何とかがいくら気前が良くても、手ぶらじゃ貸してくれっこない。
 そこで、もう一捻り。捻ったところで、思いついた。へへ、リーマン何とかじゃなくて、堀江とかいう口のとんがらかったおにいちゃんに借りちゃえばいいじゃん。一億ぐらいなら楽勝だ。諸君、考えても見給え、君が友だちから800円借りているとして、それが801円になったってどうってことないよね。そうなのだ。堀江とかいう口のとんがらかったおにいちゃんは既に800億円も借りているのだから、それが801億円になったところで何とも思わないに決まっている。今日はもう遅いから、明日の朝一で、一億円ぐらい回してよって電話してみよう、と思う。その一億円をロゴの懸賞金にすれば良いのである。そうすれば、世界中からこぞって応募があるに違いない。待てよ。ということは、自分でからすのロゴをデザインして応募しておいた方がいいな。だって、一億円貰えるんだよ、一億円。選ぶのは、望月だの、特派員Gだの、そんな面々ですよ。お願いですから私のを選んで下さい、って頼めば、そりゃ選んでくれるだろう。ははははは、こりゃいいや。こんな私も間もなく億万長者の仲間入りですよ。笑いが止まらない。からす新聞のロゴを公募にしておいて良かった。良かった。ほんとに良かった。つくづく良かった。

投稿者 zenta : 19:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月04日

一杯いくかい

 雪見酒。文字を眺めて浮かぶのは、縁先に腰を据え、独り静かに猪口を傾ける、そんな映像。日本の味てえものでげすな。なかなかに風情があって悪くない。もっとも、それは字面に限ったことであって、雪見に花見に盆暮れ正月、新年会に忘年会、歓迎会に送別会、兎にも角にも、思いつく限りの何もかもを一杯始める口実にしているような呑み助連中にかかれば、どんちゃん騒ぎとまではいかないまでも、風流だの、粋だのなんてえものとは、およそ縁遠い有り様となる。「雪だね。どうだい、一杯いくかい」と問われれば、「もちのろんよ」と即答する。これが、「雪じゃないね。どうだい、一杯いくかい」という問いだったところで、事態が変わるわけではない。結局、呑むのである。そして、酔っ払うのである。

 馬鹿だね。ああ、馬鹿だよ、馬鹿ですよ。だが、こんな馬鹿げた光景こそが、本来のこの国の庶民の姿なのではなかろうか。金だ、株だ、敵対的M&Aだと、人心の世知辛さばかりが矢鱈に目に付く昨今、私はいつまでも一人の熊さんでありたいし、君には八つぁんでいてほしい。

 雪がやんだね。どうだい、一杯いくかい。

投稿者 zenta : 20:12 | コメント (1) | トラックバック

WHY NOT?

投稿者 shachi : 2005年03月05日 02:21

2005年03月02日

不自由なんだ

 高齢化と人手不足の甚だしい、近頃のカッパギF.C.。寒さに震え上がりながら、春の大会予選リーグ第二試合にフル出場した。前半5分ほどだったろうか、大きくかぶったボールを見上げながら、威勢よく反転したところで転倒。ボールに触れたわけではなく、敵とも味方とも一切のコンタクトはなく、ただ、反転しただけ。ただ、反転しただけ。ただ、反転しただけ。なのに、こけた。絵に描いたような独り相撲である。相撲なんぞ得意ではないのにね。

 兎にも角にも、現在、私は片足が不自由な状態なのである。本当は「×××を引いている」と書こうと思ったのだけれど、差別用語に相当するのかな、と思って自主規制した次第。しかし、自主規制して伏せ字など施してみたところ、却って、その語を強調したような形になってしまった。念の為に言っておくと、その語を強調したり、差別を助長しようなどというつもりは全くない。差別は言葉の問題ではなく心の問題なのである、ということを表現したいだけである。

 言葉狩りのような形で規制が進めば、私たちの言葉はどんどん不自由になってしまう。妙な新語が増えて、伝統的な語が死んでゆく。それは、言語が生ものである限り、避けようのないことではあるものの。

投稿者 zenta : 20:55 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月25日

さてさて

 からす新聞のブログの旅立ちの日だっていうのに、私たちはすっかり酔っぱらって、八〇年代は良かったよね、だの、七〇年代だって良かったさ、などなどと、何とも馬鹿げた話に終始。考えてみれば、九〇年代だって、六〇年代だって良かったよ。いやいや、そんなことではない。これからをもっと良くしようよって話をしよう。

 さて、ここから何か生まれるのだろうか。あ、違う。何が生まれるのだろうか。

投稿者 zentakarasu : 01:16 | コメント (0) | トラックバック